第三十八章 それぞれの別れ

「──今から、そなたの任を解く」


 ローダーナは、そう言った。

 聞き間違いではない。確かにそう言ったのだ。


 バヤードとツァク・ラックとともに、ルクンはハサーラに帰還した。ウルシャマ砂漠に入り、ハサーラに近づくに連れ、砂丘を縫うように、点々と小さな湖が出現しており、ルクンの胸を踊らせた。


 ノエイルたちが、雨を降らせてくれたのだ。


 普通なら、冬場に雨季が重なると、出現した湖の底は凍りついてしまい、水害が起こる。が、雨が雪に変わることはあっても、今回は、全くそんなことはなかったという。


 ハサーラの人々は、下々から富貴に至るまで、揃って「水神のお導きだ」と、ありがたがった。その水神たちの名を知るのは、ルクンを含めた少数の神官だけだったが、ルクンは嬉しかった。自分の十一年間は無駄ではなかったのだ。


【水の院】に戻ったルクンは、院主と対面したのち、よく休むように言われた。久しぶりに院の蒸し風呂に入り、慣れ親しんだ寝台の上で眠った。

 翌日は、ルクンのために宴席が設けられた。酒のない宴のあと、ルクンはローダーナが回復に向かっていることを、院主から聞かされた。


 そして、数日。ルクンはようやく、ローダーナに会うことを許されたのだった。

 面紗に覆われたローダーナの美しいかんばせは、血色もよく、既に回復したことが手に取るように分かった。挨拶を交わしたあとで、何とローダーナは、ルクンに対し、深々と頭を下げたのだった。

 狼狽するルクンをよそに、ローダーナは言った。


「礼を言うぞ、ルクン。そなたには、何度礼を言うても、言い切れぬ。まず、わたしからの、せめてもの感謝の印を受け取っておくれ。──今から、そなたの任を解く。ノエイルの【ハードゥラ】としての任だけではない。【水の院】の神官の任もだ」


「──神官の任も──で、ございますか?」


 ルクンには、そう応対するのが精一杯だった。頭の中が思考を停止して、全く動いてくれない。ローダーナは小首を傾げた。


「そなたが、神官のままでいたいと言うのなら、それでも構わぬが……。なれど、そなた、医師を目指していた、と、かつて申していたではないか」


「……それは、既に捨てた夢にございます」


 ルクンの心がほんの少し揺らぐ。「あなたは、医師になるべきよ」という、ノエイルの言葉を思い出したからだ。


 不意に、ローダーナの声が思念に変わる。


〈だが、【水の院】に留まれば、そなたはいずれ、権力争いに巻き込まれることになるぞ。既に、そなたを「ハミードの再来」と謳う輩も出てきておる〉


 ルクンは唖然とした。ハサーラに雨を降らせたのは、あくまでノエイルだ。だからこそ今まで失念していたが、自分の功績だけを見れば、そう喧伝されても不思議はないのかもしれない。

 ローダーナは優しくほほえんだ。


〈そなたを酷な運命に巻き込んだのは、わたしだ。それゆえ、もうそなたには、争いにかかわって欲しくはないのだ。そのことを、どうか忘れないでおくれ〉


〈そのお言葉だけで充分でございます〉


 それはルクンの心からの言葉だった。反面、ルクンは途方に暮れた。

 ノエイルと別れ、供人ハードゥラの任を解かれたことの喪失感も、相当のものだったが、見習いの時期を含めて、十一年もの時を過ごした神官を辞めたほうがよい、と言われても、その後の見通しが立たない。

 祖母は二年前に亡くなり、妹も嫁いでいる。ルクンを待っている家族は、今はもう、どこにもいない。


(俺はどうすれば──)


 寝台に横になっている時、ふと、卓上に置いたままにしていた縦笛ムワが目に入った。縦笛を見ると、ルクンは嫌でもノエイルのことを思い出す。縦笛のことをメワと呼んでいた、あの日々のことを。


「ノエイル……」


 口に出して、その名を呼んでしまうと、もう一度会いたくなってくる。思い出が急激に頭の中を駆け巡り、ノエイルの面影が次々と浮かんでくる。


(そうか……)


 俺が今したいことは、神官を続けることでもなく、医師になることでもなく、ただひとつだけだ。

 ルクンは寝台から素早く身を起こすと、身なりを整え、ローダーナへの拝謁を願い出るために、部屋を出た。


   ***


 身重だった母が産気づいた時、ノエイルは出産の手伝いを自ら申し出た。母が人の姿で女の子を、翼ある馬に化生した姿で男の子を出産するのを見て、ノエイルの頬を涙が伝った。

 自分たちは、こうして産まれてきたのだ。


 ノエイルとリュヌドゥは、弟妹が産まれた直後に、故郷の湖に別れを告げた。両親もノエイルも、ほぼ同時に出立することになったので、カロルは寂しそうだった。


 ノエイルがまず目指したのは、デュラン氏族の冬営地だ。女の一人旅に見えてしまうと、何かと厄介なので、ノエイルはリュヌドゥと落ち合う場所を決め、翼ある馬の姿で空を移動した。もちろん、着替えを含めた荷物を背に負って、だ。


 移動しながら、ノエイルは悩んだ。デュランの氏族長ヌフには、マンスールの死因が分かったら教えて欲しい、と言われている。だが、その死因は、息子を誇りに思っていたヌフに聞かせるには、あまりに酷だと思ったからだ。

 合流後にリュヌドゥに相談したが、最後まで話すかはヌフの反応を見て決めよう、という結論に落ち着いた。


 ノエイルの訪問を、ヌフはセレンやジャハーンとともに歓待してくれた。セレンとジャハーンは男の子の両親になっていた。

 宴もたけなわになった頃、ノエイルはヌフに耳打ちをして、場を移してもらった。


 結局、ヌフは真実をありのままに聴くことを望んだ。

 話を全て聴き終えたあと、ヌフはこう言った。


「そうだったか……。息子は精霊の世界の掟に背いたのだな。しかし、それほどまでにアンディーンのことを──」

 

 そして、深々と頭を下げた。


「息子の軽挙がそなたたちの運命をねじ曲げてしまったようだ。すまない──息子に代わって詫びさせてもらおう」


 ヌフに謝罪され、ノエイルは慌てると同時に自らを恥じた。オーレボーンの馬具を外したことで、自分が責められても仕方ないと思っていた。けれども、そんなことをヌフがするわけがなかったのだ。


 護衛をつけようか、と心配してくれる、ヌフたちの好意を謝絶し、ノエイルはミル・シャーンの営地へと向かうことにした。セレンとは、必ずまた会おうと約束して。


 デュラン氏族の営地から、大分離れた辺りでノエイルはリュヌドゥから降りた。


「最近の天気や温度からして、ミル・シャーンは夏営地へと移動し始めているかもしれないわ。リュヌドゥ、夏営地の近くで合流しない?」


〈……僕は、ここまでにしておくよ〉


 リュヌドゥが言った。ノエイルは弾かれたように弟の顔を見る。


「どうして? リュヌドゥも夏営地の傍まで、一緒に……」


 ノエイルの言葉を遮るように、リュヌドゥが答える。


〈ミル・シャーンの匂いを嗅いでしまったら、ますますノエイルとの別れが、名残惜しくなる〉


「別れ」という、今まで避けてきた言葉をリュヌドゥの口から聞いて、ノエイルは胸をかれた。

 少し間を置いてから、ノエイルは口を開く。


「リュヌドゥ……本当に、湖に帰ってしまうの?」


〈ノエイルこそ、僕と一緒に湖に戻る気はないの?〉


 そう反問したあとで、リュヌドゥは寂しそうに言う。


〈……いや、今更言うことじゃなかったね。ノエイル、母上や父上とも、納得がいくまで話し合ったことじゃないか。君が人として生きていく道を選ぶならば、僕たちは別れるべきなんだ〉


 そう、ハサーラに雨を降らせたあと、湖に戻ったノエイルは、両親にこう尋ねたのだ。


 わたしが、人と同じように生きていける方法はありませんか、と。


 ラグ・メルの寿命は人よりもずっと長く、容姿は若い娘のままだ。しかし、それでは人の世界で生きることは難しい。

 何より、ノエイルは嫌だったのだ。ルクンと再会できた時に、彼と自分の上を経過した年月が、明らかなほどに違ってしまうことが。

 もちろん、二度と会えないという可能性もある。それでもノイエルは一縷いちるの望みに賭けたかった。


 ノエイルの想いを聴いた母は、こう尋ねてきた。


 ──ノエイル、あなたは、リュヌドゥと別れることができますか?


〈母上は、こうおっしゃっていたよね──ノエイルが僕からも、湖からも遠く離れて暮らすことができれば、ノエイルはじょじょにラグ・メルとしての力や翼、寿命も失って、人として生きていけるようになるって。でも、それはアンディーン姉上にも、ローダーナ姉上にもできなかったことだって──〉


 リュヌドゥの言葉を、ノエイルは噛みしめた。そうだ。わたしはもう決めていたんだ。

 ラグ・ソンが力を送ってくれているからこそ、ラグ・メルは【湖の子】として生きていられる。だから、オーレボーンは人喰いになりかけても、アンディーンを守るために、彼女の傍を離れようとしなかったのだ。


 母の胎内にいた時から常に一緒で、ずっと自分のことを守ってくれた弟。ノエイルにとって、リュヌドゥと別れることは、半身を失うに等しい。それは、リュヌドゥも同じだろう。これから二人は、ずっとその孤独を味わうのだ。

 だが、人の命は短い。ノエイルに比べ、リュヌドゥのほうがその苦痛も永遠に近いものとなる。


 そのリュヌドゥが、自分を送り出そうとしてくれている。ノエイルは深い感謝を込めて、リュヌドゥを見た。


「……そうね。馬鹿なことを言って、ごめんなさい」


〈いいよ〉


 そう言うと、リュヌドゥはノエイルに首を寄せてきた。ノエイルは何も言わずに、リュヌドゥの額と自分の額をぴたりと押し当てた。幼いころ、どんな喧嘩をしても、こうすれば仲直りできたものだ。ノエルの目から、涙がこぼれ落ちた。


 やがて、リュヌドゥはゆっくりと額を離した。


〈……じゃあ、僕はゆくよ。もし、会えたら、ツァク・ラックやバヤードや──あいつにもよろしく〉


「うん。必ず……」


 ノエイルはそう応え、リュヌドゥから荷物を下ろす。リュヌドゥは去り難そうに、前片足を二回蹴った。それから、くるりと背を向けると、リュヌドゥは去った。


 いつも彼の背に乗ってばかりだったから、気づかなかった。リュヌドゥほど速く地を駆ける生き物は、きっと他に存在しない。


 さよならは、言いたくなかった。ただ、いつか自分が人としての寿命を終える時がきたら、会いにきて欲しい。


 ノエイルがそう思う中、リュヌドゥの後ろ姿はもう、点のようになってしまった。

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