第二章 駿馬と駱駝

 ノエイルたちが怪我人の手当てをしている間、せっせと羊たちを集めていたルトフィーが、青い顔をして戻ってきた。


「申し訳ありません、ジェラールさま、ノエイルさま。一番チビの仔羊が、どうしても見当たらないんです。足跡を見る限り、ずいぶん遠くにいっちまったようです。どうしよう、もうすぐ夜だっていうのに……」


「お前のせいじゃない。それに、一頭だけなら、すぐに見つかるさ」


 ジェラールは、ルトフィーを安心させるようにほほえむと、少し考え込んだあとで、ノエイルに顔を向けた。


「ノエイル、俺はルトフィーと一緒に、いなくなった仔羊を捜す。お前は客人を案内しながら、羊と山羊の群れを連れて、天幕エッルに戻ってくれ。母上への伝言を、頼んだぞ」


 ノエイルは首を横に振った。


「いいえ、わたしがいく。いなくなった動物を捜すのなら、わたしのほうが得意よ」


 ジェラールとルトフィーが優れた牧者であることは十分に知っているが、何となく胸騒ぎがしたのだ。


「いや、俺がいく。確かにノエイル、お前の動物を扱う腕は、群を抜いてる。でも、夜の放牧にも慣れてる俺とルトフィーがいったほうが、見つかりやすいと思う。それに、合わせて五百頭を越える群れを、天幕まで移動させるのは、俺やルトフィーには無理だ。な、ノエイル。これはお前にしかできない仕事なんだ」


 諭すようなジェラールの言葉に、ノエイルは反論の糸口を失った。二人のやり取りを見ていたルクンが、静かに発言した。


「では、わたしがいきましょう。元はといえば、わたしが発端となって起こったことです」


「いや、気持ちはありがたいが、俺たちのほうがこのあたりの地理にも詳しいし、羊だって、見知った人間が迎えにいったほうが安心するからな。俺たちがいくよ」


 ルクンの申し出を断ると、ジェラールは再びノエイルを見た。


「──そうそう、盗賊たちは馬に乗せて、バーブル長老の天幕まで、連れていってやれ。あの方なら、面倒を見て下さるだろう。命にかかわるような怪我じゃないが、ここに置いていって、獣に襲われたり、凍え死なれでもしたら、後味が悪い」


 相変わらず、不安が胸のうちにくすぶっていたが、ジェラールの言うことはつくづく正論で、ノエイルは頷くしかなかった。


「分かった。──気をつけて、ジェラール。ルトフィーもね」


「ああ、お前もな、ノエイル。ルクン殿、あなたをゆっくり案内できなくて、申し訳ない。分からないことは、妹に訊いてくれ」


「とんでもない。僭越せんえつながら、道中、妹御の御身はわたしがお守り致しますゆえ、ご安心を」


 ルクンの物言いは、まるで大部族の姫君でも護衛するかのように大仰だった。普段は鷹揚おうようなジェラールも、さすがに返答に窮したようだ。


「あ、ああ、よろしく頼む。……ルトフィー、仔羊の足跡がどこまで続いてるか、教えてくれ」


 短い打ち合わせのあと、ジェラールとルトフィーは、それぞれの馬に飛び乗り、赤く染まった稜線へと向けて、駆け出していった。


   ***


 ノエイルは幾度か口笛を吹きながら、山羊の群れが散らばっている丘の麓へとリュヌドゥを歩かせた。後ろから、ノエイルたちが捕虜にした盗賊たちが、三頭の馬に乗り合って、とぼとぼとついてくる。


 四人とも、ルクンを恐れているのか、互いに口をきく時も囁くような小声だ。その背後を囲むように、一匹の牧羊犬に守られた羊の群れが、ぴったりと固まって歩いている。


 やがて、口笛の音を聴いた山羊たちが、周りにぞろぞろと集まってきた。ノエイルの横で駱駝を歩かせていたルクンが、魔法でも目にしたように、黒い瞳をみはった。


 ノエイルは誇らしい気持ちで、リュヌドゥから降りた。羊の群れに紛れ込まないよう、山羊たちに口笛で呼びかけながら、杖の先端で地を指し示した。さらに号令をかけ、山羊たちを数十の列に並ばせていく。山羊たちは騒々しく鳴きながらも、ノエイルの指示に従った。


 ルクンはひたすら感心していたが、ノエイルが山羊の数を数え始めると、駱駝から降りて手伝ってくれた。二人で数え終わった頭数を合計し、ノエイルは安堵の息をついた。


「三百八……よかった、全員、無事ね」


 ノエイルは山羊たちを守っていた二匹の犬を呼び寄せ、干し肉をあげて労った。顔を両手で包み込むように撫でてやると、犬たちは、千切れそうになるくらい尾を振った。羊たちを守っていた犬も、自分にも干し肉をちょうだい、と甘え声を出しながら前足を差し出してくる。


「可愛いですね。それに、よく懐いている」


 いつの間にか、ルクンが後ろに立っていた。しゃがみ込んでいたノエイルは、ちょっと驚いて立ち上がった。振り返ると、思いがけず、正面から向き合う形になる。背丈の高いルクンの背筋はすっと伸びており、間近で顔を合わせると、初見よりも若く見えた。


 自分でも理由の分からぬまま、ノエイルはどぎまぎしてしまい、動揺を悟られぬようにするために、ルクンの脇をすり抜けた。不思議そうにこちらを見るルクンからは、砂漠の民が好んでつける乳香のような、渋味のある、甘い芳香がした。


 そそくさとルクンから離れたノエイルは、彼が乗っていた、白っぽい、こぶがひとつの駱駝を見上げた。


「この子の名前は?」


「バヤード、といいます。仔駱駝の頃から、わたしが世話をして育てました」


 ルクンが首を撫でてやると、バヤードは眠たそうな目を細め、満足そうに、グー、と鳴いた。よほど可愛がっている駱駝なのだろう。ルクンは今までで一番安らいだ顔をしている。


 そういえば、過酷な環境でも生きてゆける駱駝は、ウルシャマ砂漠の民にとって宝のようなものなのだ、と聞いたことがある。マーウィルにとっての馬と同じように。

 ノエイルの顔が、自然とほころんだ。


「わたしの家にも駱駝がたくさんいるから、あとで見にいらして」


「ありがとうございます。楽しみだな」


 ふと、ルクンが微笑を収め、リュヌドゥに視線を向けた。


「……彼の名は?」


「リュヌドゥです。わたしが小さい頃から、ずっと一緒だったの」


 ノエイルが答えたあとも、ルクンはじっと、リュヌドゥを見つめていたが、しばらくすると諦めたように視線を逸らせた。ノエイルは少し不安になった。素晴らしい駿馬であるリュヌドゥを欲しがる者は、氏族の内外にもあとを絶たなかったからだ。


 だが、例え財宝を山ほど積まれても、リュヌドゥを売り払うなど、ノエイルには考えられないことだった。ノエイルにとって、リュヌドゥはどんなものでもあがなえない──命そのもののような存在なのだ。


「リュヌドゥが、何か?」


 ノエイルができるだけさりげなく尋ねると、ルクンは不意打ちを受けたような顔になった。


「……どうも、いらぬ誤解を招いてしまったようです。確かに、わたしの態度は不躾ぶしつけでした。お赦し下さい」


 ルクンはそう言って、生真面目に頭を下げた。ということは、ノエイルの考えは全くの勘違いだったのだ。


「いいえ、こちらこそ邪推してごめんなさい」


 ノエイルは赤面してルクンに詫びた。ルクンは静かにほほえんで応えてくれた。

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