終章 響き渡る口笛

 全ての生あるものたちが、陽光を受けてきらめいていた。

 マーウィルの初夏は決して過ごしやすいものではないが、身体中の水分を全て搾り取ろうとでもするかのような砂漠の夏に比べれば、楽園に近い。それに、山道を高く高く登っていけば、次第に涼しくなってくるだろう。


「よし、いいぞ、バヤード」


 旅の道連れを励ましながら、ルクンは山道を登っていく。騎乗しているツァク・ラックは、この地で生まれただけあって、高揚を隠し切れない様子だ。手綱で抑えていないと、全速力で駆け出しそうになる。


 ミル・シャーンの冬営地で世話になっていた頃、次の営地である夏営地が、どの辺りなのかを聞いておいてよかった。


 再びハサーラに別れを告げたあと、ルクンが目指したのは、ミル・シャーンだった。もう一度、聖湖に向かう前に、ジェラールやアイスン、バーブル長老たちに会っておきたいと思ったからだ。

 皆、元気だろうか。


(ノエイルの話を、聞きたがるだろうな……)


 だが、今一番、ノエイルの状況を気にしているのは自分かもしれない。


(俺はノエイルに会いたい)


 そのために、ハサーラを発つ決意を固めたのだ。妹はルクンが旅立つことを残念がっていたが、結局は送り出してくれた。ローダーナやシャールーズ、それに師は、ルクンに新たな意思が生まれたことを、言祝いでくれた。

 新たな、というよりも、それは潜在的に眠っていた意思だったような気がする。


(ノエイルを愛している、と気づいた時から目覚めた──)


 ふと、山頂からの涼やかな風を頬に感じ、ルクンは顔を上げる。見れば、山道の先に高原が広がっている。おそらく、あれが山の中腹だろう。

 少し、バヤードとツァク・ラックをを休ませてやろう。


 そう思いついた瞬間、風に乗って、撥弦楽器バトの音が響き渡った。鈴の音や、群れた山羊の声音も聴こえてくる。バヤードはピンと耳を立て、ツァク・ラックは、より落ち着きをなくした。


 かつて、聴いたことがある。あれは、彼女の──。


 ツァク・ラックにせきたてられるように、ルクンは高原へと急いだ。

 高原に上がると、山羊たちがいくつかの群れに分かれながら、草をはんでいるところに出くわした。ルクンが忙しく視線を走らせると、小高い岩の陰に、一頭の乗馬の姿がある。岩の上では、騎手が撥弦楽器を弾いていた。


 帽子から覗く、お下げにした白銀の髪に、陽の光が反射した。遠目から見ても、背格好は間違いなく彼女だ。


「──ノエイル」


 自らに呟いたあと、ルクンは堪えきれず叫んだ。


「ノエイル!」


 少女が振り向いた。やはりノエイルだ。大きな瞳をみはり、こちらを見ている。


「ルクン……!」


 ノエイルもまた、叫ぶように応えた。

 岩から下りたノエイルが、撥弦楽器を置き、走ってくる。急ぎ下馬すると、ルクンも駆け出した。草いきれの匂いが、むっと押し寄せる。

 二人は息を切らしながら、向き合った。

 最初に口を開いたのは、ノエイルだった。


「どうしたの? ルクン。ハサーラに帰ったんじゃなかったの?」


「ノエイルこそ。聖湖にいるはずだとばかり思っていたが」


 ルクンは、ローダーナから任を解かれたこと、再び旅に出、ミル・シャーンに挨拶にいく途中であることを話した。さすがに、「あなたに会いにきた」とは、言い出せなかったが……。


 ノエイルの話は、ルクンのものより重大だった。特にリュヌドゥと離別し、人間として生きることにした、という話は、穏やかに聴いてはいられなかった。


「──ノエイルは、それでいいのか?」


 間を置いて、ノエイルも言った。


「ルクンも、それでいいの?」


「俺のことはいい。寿命が短くなるわけでも、兄弟と故郷から──」


 自分も、同じようなものかもしれない、と気づいたのは、話している最中だった。それに、聖湖に辿り着くまでは、ノエイルに会えないだろうと思い込んでいたのに、砂漠を出てすぐに願いが叶ってしまった。

 急にぼんやりしてしまったルクンを、ノエイルは怪訝けげんそうに見つめる。


「ルクン、大丈夫? 疲れていない?」


「いや、大丈夫だ。──ノエイルはリュヌドゥと話し合ったんだな?」


「ええ」


「それなら、いい」


「ルクンは、ミル・シャーンを出たあと、どこにいくの?」


 もっともな質問に、ルクンは考え込む。


「そうだな……さっきまでは決めていたんだが──分からなくなってしまった」


「何、それ」


 ノエイルは軽く吹き出した。こうしていると、本当に人間の娘のようだ。

 ルクンはほほえんだ。


「いずれにしても、ミル・シャーンの夏営地に着いてから決めよう」


 ──こうして、ノエイルにも会えたことだし。


 その言葉は呑み込んで、ルクンはツァク・ラックとバヤードを呼んだ。ノエイルの傍までくると、二頭とも嬉しそうに鳴いた。


「二人とも、疲れているでしょう」


 ノエイルが二頭を撫でる。

 心が穏やかになってきたせいか、ルクンはようやく気づいた。


「そういえば、ジェラールは? 姿が見えないが」


 ノエイルは、くすりと笑い、大きな岩を指し示す。


「昼寝中よ。あの辺りで」


「起こしてしまっては、悪いかな」


「いいのよ。せっかくルクンがきてくれたんだもの」


 そう言うと、ノエイルは馬に跨り、ジェラールを起こしにいった。

 何事か、と思ったのだろう。すっくと起き上がるジェラールに何かを伝えると、ノエイルはまたこちらに戻ってきた。もしかすると、ジェラールはこのまま山羊の番かもしれない。

 二人きりになるのだろうか、と考えてしまうと、言葉遣いもぎこちなくなる。


「夏営地まで、道案内を頼めるだろうか」


「もちろんよ」


 ノエイルは屈託なく笑うと、彼女の馬と、山羊たちを口笛で集め始めた。気持ちのよい口笛の音が、高原に響き渡る。

 その音を聴きながら、ルクンは、夏営地に着いて、皆に挨拶をすませたら何をしようか、考え始めた。また、バーブル長老の仕事を手伝いながら、医術や祈祷を習おうか。それとも、縦笛ムワを吹き鳴らして過ごそうか。

 様々なこだわりが、口笛の音とともに消えていく。ルクンにはそんな気がした。


 北からの涼風に吹かれながら、ルクンはツァク・ラックに跨ると、馬上の人となったノエイルに並んだ。


「いきましょう」


 ノエイルの涼やかな声とともに、ルクンはバヤードの口綱を引きながら、ツァク・ラックを歩かせ始めた。


『水の供人』──完

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水の供人 畑中希月 @kizukihatanaka

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