第十章 水神の一族

 しばらく、沈黙があった。先に口を開いたのは、ルクンのほうだった。


「……あなたについてお話しする前に、何ゆえ、わたしがこの地に訪れることになったのかを、説明させて下さい。少々、事情が複雑なものですから」


 ノエイルが頷くと、ルクンは続けた。


「ありがとうございます。……全ては、十一年前に始まりました」


「十一年前……」


 ノエイルは思わず呟いていた。十一年前、ノエイルは今の父母に拾われた。一緒にいたというリュヌドゥとともに。しかし、ノエイルはその時のことを覚えていない。


 ノエイルの記憶は、ある時点を境に、ぷっつりと途切れている。幼い頃を思い出そうとすると、決まって最初に浮かぶのは、天窓から覗く空の記憶だ。幼いノエイルは、布団をかけられ仰向けになっている。傍らには母がいて、心配そうに自分を見守っていた。


 その記憶こそが、「フェルハトの娘ノエイル」の「始まり」だった。


 早く、それ以前の自分について知りたい。……じりじりと焦る気持ちはあったが、ノエイルはできるだけ冷静になろうと、深く息を吸った。今は、ルクンの話を聞く必要がある。


「わたしが宴席で話した、ハサーラの伝承を覚えておいでですか」


「はい」


 忘れるはずがない。あの話は、ノエイルの心を、強く掴んだのだから。


 ルクンは安堵したようだった。


「あの伝承にご登場あそばした、ハサーラを守護なさる水の女神の御名は、ローダーナ、とおっしゃる。

 十一年前、そのローダーナの御許に、聖湖の水の神々から、ある報せがもたらされました──まだほんの子供の、幼い弟妹が行方知れずになった。こちらでは、いくら手を尽くしても見つからない。是非、あなたにも捜索を手伝って欲しい──と」


「水神にも、子供と大人がおいでになるのですか?」


 ノエイルが目を瞬かせると、ルクンはほほえんだ。


「はい。厳密に申し上げると、神々や精霊に年齢はあらせられないのですが、お生まれになられて間もないうちや、力を制すことができるようになられるまでは、子供と称されるのだそうです。──だからこそ水の神々は、ご弟妹のことを、とてもご心配なさった。


 行方不明の幼い水神は、ローダーナにとってもご弟妹であらせられます。ローダーナは快くお引き受けなさいました。ですが、言い伝えにもあるように、ローダーナは長くハサーラを留守になさるわけにもいかない。

 ローダーナは、ハサーラに住まう善きシャンニーたちの助力を得られ、ご弟妹をお捜しなさいました。


 ……ですが、どうしても見つからなかった。ローダーナは、ついに、人間の力をお借りなさることをご決断なさいました」


「神さまが……人間の力をお借りなさるのですか?」


 ノエイルが知っているマーウィルの伝承には、神々が人間に力を貸し与えることはあっても、その逆はない。頭の中がこんがらがってしまったノエイルに、思慮深い顔でルクンが答えた。


「水神のお力は、とてつもなく偉大であらせられますが、世の事象全てをご制御できるわけではないのです」


 ノエイルは驚いた。水神に仕える神官が、そんなことを認めてしまってもいいのだろうか。


「そのために、我々【水の院】の神官がいるのです。ハサーラの民は、常に水神のお恵みを賜り、暮らしています。だからこそ神官は、水神から承ったことは必ず叶えようと動く。自分たちを慈しんで下さるお方のお役に立ちたい、と願うのは、ごく自然な感情ですから。……たとえば、子が親を想うように」


 そう言葉を切ったルクンの目は、穏やかに見えて、どこか寂しげだった。


 ルクンは腰帯から短刀を外し、そのつばをノエイルが見やすいように差し出してくれた。鍔には、水滴を象ったとおぼしき紋章が刻まれている。


「これは、【水の院】の紋章です。【水の院】は水神とハサーラのために存在し、聖ハミードとローダーナを祖とする院主によって束ねられる組織。ローダーナは院主に、ご弟妹の捜索をご依頼なさいました。

 その時、ローダーナはこう仰せられた──弟妹を無事故郷に連れ戻すにふさわしい者を、ハサーラの民より選び出し、然るべき時に出立させよ──と。

 

 ……ただ、その時がいつなのか、いずこに向けてその者を出立させるべきなのか──それは、ローダーナもご存じではあらせられませんでした。代わりに、占術の名手である院主が、吉日を選び、必要な情報を得るために占術を行いました。

 占術の結果は、こうです──十一年後の秋に、その者を供人ともびととして北西の地に向け出立させることこそ、最上の結果をもたらす──では、その任を預かる者とは誰か?


 院主は、占術によって幾人かの候補を選び出し、直接、ローダーナに誰が最もふさわしい者であるかを、選んでいただいたのです」


 ルクンは静かに微笑した。


「その結果、任を預かることになったのが、わたしです。我が名にある【ハードゥラ】とは、供人のこと」


 ノエイルは痛ましい思いでルクンを見た。いくら出発が十一年後とはいえ、子供がそんな大役を背負わされるなど、あまりにも残酷な話だった。


 そういえば、自分がルクンの正確な歳を知らなかったことに、ノエイルは気づいた。初対面の印象よりも、本当は大分若いらしい、ということは知っていたが、何となく、本人にも周囲にも訊き辛かったのだ。けれど、今は訊いておく必要があると思った。


「……あなたはその時、おいくつだったのですか?」


「ああ、わたしの歳は、お話ししていませんでしたね。あれは、十一の夏でした」


「十一……」


 それきり、ノエイルは何も言えなくなった。ルクンがこの十一年の間、どんな人生を送ってきたのか、彼の家族は今頃どうしているのか、想像してみようとしたが、それが酷い偽善のように思え、上手くいかなかった。


 ノエイルの動揺を感じ取ったらしく、ルクンはほほえんだ。


「そのようなお顔をなさらないで下さい。頑健な二十歳の青年も、十一年後には三十一歳の壮年になる。砂漠を越え、異境を旅するには、体力の充実した、今のわたしくらいの歳が妥当なのです。それに、準備は早いうちからしておくに、越したことはありません」


 ルクンの手にあった硬いたこを、ノエイルは思い出した。それに、出会った時に彼が見せた、圧倒的な強さを。


「でも、あなたは、この十一年の間、血の滲むような努力をなさってきたのでしょう? 二柱の水神を捜し出して、守るために……」


 ノエイルはルクンの瞳を見上げた。ルクンは軽く目をみはり、沈黙していた。そのうち、彼の表情が緩められ、呟くような言葉がまろび出た。


「……よかった」


「え……?」


「わたしの十一年間は無駄ではなかった。……やはり、あなたは、わたしが思っていた通りのお方であらせられます」


 そう言うなり、ルクンはその場にひざまずき、深く頭を垂れた。訳が分からず、ノエイルが呆然としていると、顔を上げぬまま、奏上するようにルクンが言った。


「今までの数々の非礼、どうかお赦しを賜りとうございます。……わたしがお捜し申し上げていた水神のご姉弟とは、あなたさま方であらせられるのです」


 自分がとりとめのない夢を見ているような気がして、ノエイルはただ呟いた。


「──わた……しが……?」


 言葉を発したあとで、ふと気づいた。ルクンは、さっき、「あなたさま方」と言った。その一人が自分であるなら、もう一人は誰なのだろう。辺りを見回しても、ノエイルの傍にいるのは、目の前のルクンとリュヌドゥしかいない。


「まさか……」


 思わず、ノエイルはリュヌドゥを見た。リュヌドゥは頷くように喉を鳴らすと、何かを訴えるように、鼻面でノエイルの肩をつつく。


「そのお方は、あなたの弟君であらせられます」


 まるで冗談のようなことを、顔を上げたルクンが、真剣な面持ちで言い切った。だが、ノエイルは笑えなかった。リュヌドゥは、記憶をなくす前からノエイルとともにいた。

 ノエイルはリュヌドゥのことを弟のように思っていたし、リュヌドゥもノエイルにしか懐かない。それに、リュヌドゥは不思議な馬で、年齢を重ねても、全く老いる気配もなければ、他の牡馬のように牝馬に興味を示しもしない。


「リュヌドゥも、口がきければいいのに……」


 ノエイルはリュヌドゥの頭を抱き締めた。これまで幾度かそう思ったことはあったが、今は心から願わずにはいられなかった。リュヌドゥなら、ノエイルが何者で、どこからきたのか、一番よく知っているはずなのに。


「『ラグ・ソン』──馬の御姿をした水神は、人間の馬具をつけられてしまうと、ご記憶は失わないまでも、霊妙なお力を奪われ、地上の駿馬になってしまわれるそうです。

 もっとも、アイスン殿にも確認致しましたが、弟君は元々、馬具を身につけておいでにならなかったとか。ラグ・ソンの本来の馬具は、成年になられるまでは与えられないと、ローダーナからは聴き及んでおります」


 気遣うようなルクンの声に、ノエイルは視線を戻した。

 

「ラグ・ソン……じゃあ、ラグ・メルというのは……」


「ラグ・メルとは、水神の女王の娘御を、広く指してお呼びする言葉です。全てのラグ・メルは、きらびやかに輝く髪と、湖水のような青い瞳、楽のような歌声、この世のものとは思われぬ美しい姿であらせられるそうです。……たとえば、あなたさまのように」


「……わたしは、美しくなんてないわ……」


 震える声で、ノエイルは言った。ノエイルは知っている。自分の身体が、どんなに歪で醜いか。


 ルクンの表情が、一瞬だけ揺れ動く。


「……あなたは、知っているのね? わたしの身体のことを……」


 反射的にノエイルがただすと、ルクンは再び頭を垂れた。


「──そのお話は避けるよう、アイスン殿から承っております。……ですが、それこそが、あなたさまがラグ・メルであらせられることの証」


「いらないわ! そんな証」


 言い放つと、ノエイルは両手で顔を覆った。その「証」とやらのせいで、自分が今までどれほど苦しんできたか、この人は知らないのだ。


 後ろからリュヌドゥが、心配げに身体をすり寄せてくる。ノエイルはリュヌドゥに背中をもたせかけていたが、やがて、崩れるようにしゃがみ込んだ。そうでもしなければ、とても耐え切れなかった。


   ***


 ……どれだけ経ったのだろう。少し気分が落ち着いてきて、掌を顔から外すと、相変わらず目の前にルクンが跪いていた。ルクンは呆れ果てて、とっくにこの場から去ってしまったものとばかり思っていたので、ノエイルは驚いた。

 冷静に考えてみれば、ノエイルのことを水の女神だと信じている彼が、そんな振る舞いをするはずがないのだが。


「大分、落ち着かれたようだ」


 静かにほほえみながらルクンが言ったので、ノエイルはどきりとし、段々、恥ずかしくなってきた。人に感情をぶつけることなど、普段あまりしないのに、知り合って日も浅い相手を前に、取り乱してしまったのだ。


「……あ、呆れたでしょう?」


 俯きがちにノエイルが訊くと、ルクンは首を横に振った。


「いいえ。突然、自分が神だ、などと断言されれば、誰でも驚くし、動揺もするでしょう。むしろ、何の疑問もなしに喜ぶほうが恐ろしい」


「わたしは本当に、あなたが捜している水の女神──ラグ・メルなの?」


「だからこそ、わたしはあなたさま方をお迎えに上がったのです。ご一族の待たれる聖湖に、あなたさま方をお連れ申し上げるために」


 和らいでいたルクンの眼差しが、真摯なものへと変わった。そうだ。この人は十一の時から、その任のためだけに生きてきたのだ。他にやりたいことも、たくさんあったろうに……。


「ごめんなさい……」


 事態を認識すると、罪悪感がどっと込み上げてきて、ノエイルはただ詫びた。


「……何ゆえ、あなたさまが、わたしにお謝りなさるのです」


 戸惑いを含んだルクンの声に、ノエイルはゆっくりと顔を上げた。ルクンは、本当に不思議そうな顔をしている。その表情が、人に牧されることを、甘んじて受け入れている動物たちと重なり、ノエイルは無性に悲しくなった。


「わたしが……わたしたちが、あなたのあるべき人生を、奪ってしまったから」


「わたしは、あなたさま方に何も奪われてなどおりません。かえって、多くのものを与えていただいたくらいです」


「与えた……?」


 思わずノエイルが問うと、ルクンは目だけで笑った。


「その話は、またいずれ。そろそろ、天幕エッルに戻りましょう。寒さが酷くなって参りましたし、アイスン殿も、きっと心配しておいでです」


 言われてみると、夜はすっかり深まり、寒気が絶えず頬に寄せてくる。ノエイルは立ち上がり、身震いした。


「本当。不思議だわ。今まで、気づかなかったなんて」


「無理もございません。あのような話を聞いてしまわれたのですから」


 ルクンもまた、衣についた土埃を払いながら立ち上がった。そのあとで、ふと真顔になって言う。


「……まだご動揺なさっておいでになるとは存じますが、なるべくお早く、お返事をお聞かせ下さい。今日明日とは申し上げませんゆえ」


 月明かりに照らされたルクンの顔は、静かだが、少し切羽詰まっているように見えた。彼には、まだ隠していることがある。閃くようにノエイルは思ったが、今は何も訊かずにいることにした。


 今夜は、あまりに多くのことを知り過ぎた。


 ルクンに頷いてみせると、ノエイルはリュヌドゥに向き直った。リュヌドゥが心配げに顔を寄せてくる。


(この子が、わたしの弟……)


 マーウィル人は、どこの部族の子であっても、孤児を我が子と同じように育てる。ミル・シャーンで、ノエイルが惨めな思いをしたことはない。だが、それでも時折、天幕の中を吹き抜ける隙間風のような疑問が、不意に入り込んでくることがあった。


 自分の本当の親兄弟は、どこにいるのだろう……。


 その答えは、すぐそこにあったのだ。愛しさが胸の奥から溢れ出し、ノエイルはリュヌドゥの首をそっと抱いた。

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