第十一章 葛藤
「痛みは、どうだ?」
ジェラールの肩口の傷を診ながら、ルクンは尋ねた。狼に咬まれた傷は、未だに生々しくはあったが、既に抜糸もすませ、順調に塞がりつつある。
ジェラールは笑った。
「大分よくなったよ。そりゃ、動かすと痛いけどな」
「では、まだ右腕は吊っておいたほうがいいな」
「……まだ吊るのか?」
「早く、確実に治したいのなら、そうすることだ」
ルクンが、にっと笑ってみせると、ジェラールは不承不承といった
「ただ、朗報をバーブル長老から言づかっている。お前が希望すれば、今日明日にでも、帰宅していいそうだ」
ジェラールの顔が、ぱっと輝いた。
「本当か!」
「ああ。ただ、しばらくはこちらに通ってもらうことになる。俺も、早朝と夜しか、お前の
「それは構わないさ。馬で通えばいいんだから。……ところで」
ジェラールの声色が唐突に変わった。包帯を巻き直しながら、ルクンは顔を上げる。
「うん?」
「ルクン、お前、そろそろミールーザーの天幕に泊まるのをやめて、うちにこないか? 俺が戻ってお前がくれば、男二人、女二人になって、ちょうどいいだろ」
予期せぬジェラールの申し出に、ルクンは思わず、包帯を巻く手を止めた。わずかに答えあぐね、ようやく口を開く。
「……だが、お二人にとって、俺は招かれざる客だ」
あの夜、ノエイルと話をしたあとの
ルクンとノエイルの帰りが遅かったことから、アイスンはその事情を明確に察したらしく、ただでさえ気まずい雰囲気が、いっそう濃くなってしまったのだ。
もちろん、アイスンもノエイルも、ルクンを天幕から追い出すような真似はしなかったが、ルクンはいたたまれず、今では
包帯を巻き終えたルクンが手を放すと、ジェラールは少し怒ったように言った。
「そんな風に自分を卑下するな。お前は、故郷と、崇敬する水の女神のために、ここまでやってきたんだろう。俺がお前の立場だったとしても、きっと同じことをするさ」
ルクンはほほえんだ。ノエイルを迎えにきたという事情を知りながら、自分のために怒ってくれる、ジェラールの優しさが嬉しかった。
ルクンの顔を見て、ジェラールは呆れたように呟く。
「……お前とノエイルは、よく似てるよ。いつも、自分のことより、人のことばかり考えてる」
その言葉は、ルクンを苦笑させた。ジェラールも似たようなものだ。常に氏族民のことを考え、今もルクンのことを思いやってくれている。多分、深く考えずとも、人のために立ち回れる質なのだろう。
彼のそういった心映えは、氏族民たちにもきちんと伝わっているらしく、ジェラールの見舞いにくる者は、家族以外にもあとを絶たない。
ジェラールには、周囲を惹きつけずにはいられない、徳のようなものがあった。だから、ルクンも安心して、ジェラールに様々なことを話せる。
「お前、ノエイルに『あのこと』を話さなかったんだってな」
軽い憤りのこもったジェラールの声に、ルクンははっとした。
「まさか──あのお方に、お前からお話ししたのか?」
「いいや。ただ、昨日ノエイルが見舞いにきた時に、相談を受けてな。あいつはまだ迷ってる。故郷に帰るべきか。それとも、ここに残るべきかどうか」
「……そうか」
あの夜から、早くも五日が経っている。
返事は今日明日でなくともいい、とは言ったものの、ルクンは内心で焦れていた。「あのこと」を、正直に話せばよかった、と何度も思った。だが、あの夜のルクンには、不思議とそれができなかったのだ。
リュヌドゥに細い身体を支えてもらうようにして、恐怖と不安に押し潰されそうになりながらも、彼女は必死にルクンの話を聞いていた。その姿が、今でも目に焼きついている。
不意に、宴席で挨拶をしてくれた時の、ノエイルの手の温もりが蘇る。
ラグ・メルの手を自ら取ることが許されていた、あるいは許されている人間は、ローダーナの夫、聖ハミードと、彼の子孫である院主の一族だけだ。
院主一族以外で、ラグ・メルの許可を得ずにその身に触れた者は、不敬行為を働いたと見なされ、身分や地位を問わず、厳しく罰せられる。
あの時、進退窮まったルクンは、とっさにノエイルから祝福を受けた形にし、心を空にすることで、戒律を破らずにすんだ。
ラグ・メルに邪心を抱くこともまた、不敬行為のひとつと見なされるからだ。
だが、その時は平静を保つことができても、記憶は残る。本来、繊手であるはずのノエイルの手は、冬の家事と労働で荒れ、あかぎれができていた。
その手を、ルクンは美しいと思った。
(──俺は、どうかしている……)
心の中で頭をひとつ振ると、ルクンは現実に意識を戻した。
「ジェラール、お前に訊きたいことがある」
「何だ?」
「もし、俺が『あのこと』を話せば、あのお方は旅立ちを決意なさるだろうか?」
ルクンの問いに、少し考え込んだあと、ジェラールはほろ苦い顔をした。
「……多分な。ノエイルは、そういう奴だよ」
ジェラールから回答を得て、ルクンは自分がノエイルに「あのこと」を話さなかった理由が、分かったような気がした。
「ならば……話さないほうがいい。話せば、あのお方のお優しさを利用することになってしまう」
「脅迫をするみたいで、嫌か?」
「……そうだ」
ジェラールは何でもお見通しと見える。バーブル長老が、ジェラールに期待をかけるのも、無理からぬ話だ。ため息をひとつついたジェラールは、目を鋭くした。
「じゃあ、お前に訊くが、お前はハサーラが滅びてもいいというのか?」
「そんなことは思っていない!」
気づくと、ルクンは吼えるように言い返していた。胸の奥が、唸りを上げてざわついていた。
動じる様子も見せずに、ジェラールは言う。
「それなら、ノエイルに話せ。俺がお前の立場だったら、俺はそうする。どうにかできる手段を自分が持ってるのに、故郷が滅んでいくのを黙って待つなんてこと、俺はしたくない。……たとえ、ノエイルに重荷を背負わせることになってもな」
深く息を吸ってから、ジェラールは続けた。
「ルクン……お前は、何のために、十一年間努力して、ここまできたんだ?」
ルクンは答えられなかった。
十一年間、いつか出会う水神の姉弟を守るために、武器を握り、暗誦できるようになるまで経典を読み続けた少年の頃の記憶が、泡のように浮かんでは消えていった。
それらの記憶の中で、
神官が修得すべきものとして、切望していた医術を学んだこと。
ローダーナに悩みを聞いてもらったこと。
厳しい師が、時に優しい情愛を示してくれたこと。
自分が
「俺は……」
ルクンは口を開いた。
「俺の十一年間は、あのお方たちをお捜し申し上げ、お仕えするためにあった。むろん、この窮状を解決するためでもあるが、事態がこんな風に動いたのは、ごく最近のことだ。たとえ、ハサーラが窮地に陥っていなくても、俺はあのお方たちを聖湖へお連れするために、ここを訪れただろう」
「なら、それを、そのままノエイルに伝えればいい」
ジェラールはほほえみ、静かに促した。ルクンは目の前に光明を感じた。
「ありがとう、ジェラール」
「礼には及ばない。この太陽の高さだと、ノエイルは今頃、お前と初めて出会った辺りまで、山羊たちを移動させてるはずだ。……気が変わらないうちに、話してこいよ」
「……本当にいいのか?」
「いいさ。無理やり引き離されるのと、自分から進んで故郷を出ていくのは違う。マーウィルの娘は特別な事情でもない限り、氏族を出ていくものだ。──な、ノエイルが迷わないですむように、全部話した上で決めさせてやってくれ。頼む」
いつしかジェラールの顔は、次の氏族長としてのものから、一人の兄としてのものに変わっていた。
ルクンはもう一度、心のこもった礼を述べ、深く頭を下げた。
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