第三章 ミル・シャーン
マーウィル部族には、ミル・シャーンを含めて七つの氏族がある。
ノエイルとジェラールの父であり、ミル・シャーン氏族の先の族長でもあったフェルハトは、半年前、急な病に倒れ、三十八歳の若さで死んだ。フェルハト亡きあとは、その妻であるアイスンが、子供たちや長老たちの助けを借りながら、族長代理を務めていた。
「ミル・シャーンの次の族長には、ジェラールがなるんです。父の一人息子だし、長老たちもジェラール以上にふさわしい者はいない、とおっしゃってくれました」
山羊の群れを追いつつ、
「なるほど。マーウィルでは、血筋の他に、当人の実力や人徳も重要視されるのですね。ハサーラと同じだ。……ジェラール殿は、いつ、氏族長になられるのですか?」
「花嫁を迎えてから、でしょうね」
「ほう。祝言を上げていない男は、氏族を率いるべき一人前とは見なされない……ということですか」
「ええ。それなのに、兄はまだ
「花嫁探しの……旅?」
聞いたことのない言葉だったのか、ルクンは目を丸くしている。驚いたのはノエイルも同じだ。彼の故国の男たちは、どうやって花嫁を探すのだろう。
「ハサーラでは、花嫁探しの旅はしないのですか?」
「しませんね。普通は、親の決めた相手と婚姻しますから。その相手も、親族の場合が多いですから、わざわざ旅に出て探す必要もないのですよ」
と、いうことは、ハサーラでは氏族内での婚姻は珍しくないのだ。部族内での婚姻が禁じられているマーウィルとは、そもそもの考え方が違うのだろう。
ノエイルは少し戸惑いながら、ルクンを見た。ルクンはノエイルの視線を受け止めたあとで、苦笑する。
「……しかし、マーウィルの男衆は大変ですね。自分で花嫁を探しにいかねばならないとは。ハサーラでは男女の別が厳しいゆえ、独り身の男は、大抵、女人とは馴染みが薄い。もし花嫁探しの旅に出たとしても、結果を得て戻ってこられるかどうか……」
「あなたも、そうなのですか?」
ルクンが独り身かどうかも分からないのに、思わずノエイルは訊いてしまった。が、ルクンは痛いところを
「はい、実は──こうしてあなたと話すのも一苦労なのです。ですから、ジェラール殿のお気持ちが、少しは分かるような気がしますよ」
ルクンがあまりにも素直に認めたので、ノエイルは少し笑った。
では、ルクンには花嫁探しは難しいだろう。むろん、ミル・シャーンでもハサーラのように親が子の許嫁を決めてしまうこともあるが、そういった例はあまり多くは見られない。
ノエイルにとって、それは救いだった。
相手を自分で決めていいということは、生涯、独り身でいてもいいということだ。だから、氏族を訪れた他部族の男たちの求婚を、ノエイルはことごとく断ってきた。相手があまりにしつこい時は、競べ馬を挑み、求婚を受け入れる条件とした。
そうすれば、こちらのものだった。リュヌドゥとノエイルに勝てる馬や騎手など、今まで誰一人現れなかったのだから。
(もし、わたしがこんな身体でなかったら……)
無意識に表れた心の中の呟きを、ノエイルは必死で振り払った。
何となく話すのが
山羊や羊が鳴き交わす声や、彼らがつけた鈴の音が、ひときわ大きくなったように感じられた。あたりは既に漆黒の闇に包まれ、月と満天の星々が、白々と大地を照らしている。
地形の起伏がじょじょになくなってくると、ほどなく二人の前に、闇よりも黒々と生い茂る、大きな森が現れた。この森こそが、ミル・シャーン氏族が天幕を構える冬の幕営地──即ち、冬営地だ。ミル・シャーンは春を除いて季節ごとに営地を移す。
ノエイルが説明すると、森を珍しがっていたルクンが尋ねる。
「春営地はないのですか?」
「ある、という言い方もできます。実際は、同じ営地にいる間も、少しずつ移動していて、わたしの氏族では、冬営地から夏営地に移る時に留まる場所のひとつを、『春の道』と呼ぶんです。もちろん、わたしの知る氏族や部族にも、春営地を構える人たちはいますけれど」
「そうですか。遊牧の民もそれぞれなのですね。いずれにせよ、一年の多くを旅に費やすことになる……大変だと思われたことは?」
ノエイルは首を横に振った。
「いいえ。漂白の旅をしているわけではないし、慣れてしまえば楽しいものです。それに、冬営地は丘陵地帯の深い森の中ですけれど、夏営地と秋営地は、もっと高台の、開けた場所にあるんです。特に夏営地は素晴らしいの。遠くに見える山並みを背に、どこまでも草原が広がっていて、好きなだけリュヌドゥを走らせることができる……」
抜けるような青く高い空の下、丈の高い草原を涼やかな風が吹き揺らしていく──瞼を閉じると、恋しいその風景がありありと浮かんできて、ノエイルの心は遠くへ飛んでいきそうになる。
家畜の出産期を迎える冬と春を、懸命に働いて無事に過ごせば、また、あの夏営地に戻ることができるのだ。その希望さえ胸にあれば、どんな苦労や悩みも、とても小さなことに思えて、ものの数ではなくなってしまう。
「そうですか。あなたは遊牧の生活が、心からお好きなのですね……」
呟くように言ったルクンの瞳は、複雑な光を湛えていた。
やがて、森に点在する空き地の中に、氏族民の天幕が、ぽつりぽつりと見えてきた。
柳の枝で骨組みを作り、その上から白い厚布を被せた天幕は、どれも短い円筒形の壁に、丸みを帯びた円錐形の屋根をのせたような形をしている。
ウルシャマ砂漠に住む遊牧の民の天幕は箱型をしているそうで、ルクンは沈黙を破って珍しがった。
天幕一張りを一家族とすると、その数はミル・シャーン全体で二十四張り。氏族民の総数は百七十人ほどだが、マーウィルの各氏族と比べれば、多いほうではない。
時折いき合う氏族民たちと挨拶を交わしながら、ノエイルは自分たちの天幕を目指した。氏族民たちはルクンや捕虜たちの姿を目に留めると、興味深そうな顔をするものの、あからさまに警戒したりはしない。ノエイルが危険な者を連れてくるはずがない、と分かっているからだ。
ノエイルたちは森の奥まった場所へと入っていった。先頭を歩いていた山羊たちが、寝床のある右の方向に進路を変える。ノエイルはルクンに羊の群れを見ていてくれるように頼み、残りの山羊たちを寝床まで連れていった。二頭の犬だけを連れてルクンたちの元に戻ると、今度は羊たちを寝床に連れていく。
仕事をすませたノエイルは、三頭の犬とルクン、それに四人の捕虜たちを先導しながら進んだ。
しばらくいくと、広大な空き地に張られた、二張りの天幕が見えてきた。手前にある天幕が、ルトフィーたち家臣一家の住まいで、奥にある天幕が、ノエイルたち一家の住まいだ。わずかに開いた天窓からは煙が薄く漂っている。母が火を
ノエイルはリュヌドゥから降りながら、ルクンを振り返った。
「あれが、わたしたちの家です。もう、母は牛の放牧から帰ってきているようだから、あなたの紹介をかねて、事情を説明します。それからあの四人を連れて、バーブル長老の天幕へ向かうつもりですが……あなたはどうなさいます?」
「わたしも、ぜひあなたに同行させていただきたい。怪我をしているとはいえ、奴らは盗賊です。用心するに越したことはない」
鞍上から、ルクンが捕虜たちをじろりと見やると、彼らの一人が、意を決したように口を開いた。
「……俺たちをどうするつもりだ」
「それは彼女たちがお決めになることだ。俺は、お前たちのような輩は
ルクンの口調も表情も、硬い氷のように冷淡だった。明らかに怯みながらも、捕虜の男は重ねて尋ねた。
「──なら、何故、俺たちを助けた」
「助けたかったから助けたわけじゃない。彼女がお前たちを助けようとなさったから、お力添えをしたまでだ。せいぜい、この地の神々に感謝することだ。彼女たちのような、慈悲も道理も持ち合わせた方々に、助けられたんだからな。──間違っても、邪心を起こすなよ」
地に響くような低い声で告げると、ルクンはバヤードを座らせ、鞍から降りた。
あまりの剣幕に、ノエイルはいすくまってしまった。
理由は分からないが、彼は広く盗賊を憎んでいる。先ほどの言葉は、彼の本音だったに違いない。だが、その険のある横顔は、やるせないほどの疲れが滲んで見え、ノエイルの胸を衝いた。
(わたしは、盗賊たちを助けないほうがよかったんだろうか……)
けれど、仮にそうしていたとしても、ルクンが喜ぶとは思えなかった。盗賊たちを迎え撃った時、おそらくルクンは手加減していたし、仲間を置いて逃げようとした盗賊には、怒りを露わにした。何より、嫌な顔ひとつせず、盗賊たちの怪我を丁寧に手当てしたルクンの姿を、ノエイルは知っている。
ノエイルは身体の緊張を解くと、
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