第四章 長老バーブル

 天幕エッルの内部は、簡素な外観と比べると、別世界かと思うくらい華やかだ。

 厚布の裏地には、細かな菱文が織り込まれ、その色鮮やかな壁際には、馬や駱駝の鞍と荷袋が置かれ、寝具が高く積み上げられている。

 移動しながら生活する遊牧の民は余計な家具を持たないから、たまに訪れる定住の旅人が意外に思うくらい、天幕の中は広く、天井も高い。


「ただいま帰りました、母上」


 ノエイルが天幕の布の扉を排すると、炉端で湯を沸かしていた母が、薄茶色の顔を上げた。ノエイルとジェラールの母であるアイスンは三十六歳。褐色の長い髪を襟足で束ねた美人で、きりっとした藍色の瞳は、穏やかな目元の息子とは対照的だ。アイスンは、ノエイルを見ると、ほほえんだ。


「お帰りなさい、ノエイル。──あら、ジェラールは?」


 ノエイルはルクンを天幕の中に入れると、彼と出会った経緯や、ジェラールがルトフィーと一緒に、迷子になった仔羊を捜していること、これからルクンとともに捕虜を連れて、バーブル長老の元へ向かうつもりであること、などを説明した。


 アイスンは、ちらりと心配そうな顔をみせたが、すぐに客人であるルクンに向き直り、一礼した。ルクンもアイスンに向けて、礼儀正しく頭を下げる。


「お招きに預かりまして光栄です。わたしは、南東の国ハサーラから参りました、ルクン・ラヒム・ラ・ハードゥラと申します」


「それは長旅でご苦労されたでしょう。狭苦しいところですが、我が家をご自宅だとお思いになってお休み下さい。わたしは先の氏族長フェルハトの妻、アイスン。ジェラールとノエイルの母です」


 アイスンの言葉は温かく、ルクンは感じ入ったように右手を胸に当てて、再び一礼した。


 アイスンに勧められ、ルクンとノエイルは熱いお茶ジュイを一杯だけもらうと、外へ出た。

 捕虜たちはルクンの脅しが応えたのか、寒空の下で神妙にノエイルたちを待っていた。天幕の傍に寝そべっていた犬たちが夕食を催促する鳴き声を上げたが、ノエイルが「もう少し待ってね」と苦笑すると、諦めたようにうずくまる。


 ノエイルが近づいていくと、寝転がって身体を休めていたリュヌドゥが跳ね起きた。リュヌドゥに跨ったノエイルは、ルクンがバヤードに乗るのを待ってから歩き出す。


 ノエイルの後ろでバヤードを進ませていたルクンが、ふと尋ねてきた。


「ところで、バーブル長老とは、どのようなお人なのですか? 捕虜の面倒を見て下さる、ということですが……」


「ミル・シャーンの最長老で、もっとも尊敬されているお方です。わたしたち一家も、ずいぶんお世話になりました。お若い頃、色々な地を旅して回られたという賢者で、マーウィル屈指の呪術師カムであり、高名な医師でもいらっしゃいます」


「ほう……それは」


 ルクンは驚きと感慨が、ない交ぜになったような顔をし、呟いた。


「お会いするのが楽しみです」


 バーブル長老の天幕は、ノエイルたちの天幕から南西の方向にある。馬を並足で歩かせて、千二百ばかり数えると辿り着く距離だ。


 樹々がまばらになり始めると、すぐに三張りの天幕が見えてきた。

 白樺で作られた一張り目はバーブル長老の天幕、二張り目は彼の末息子一家が暮らす天幕、三張り目は長病みの患者の施療に使われる天幕だ。

 かなり前に妻を亡くしたバーブルは、息子たちから「同じ天幕で暮らそう」と、さんざん言われていたが、弟子たちに身の回りの世話をさせ、気楽に過ごしている。

 

 ノエイルとルクンは鞍から降り、捕虜たちにも馬から降りるよう指示した。足を骨折している捕虜を仲間二人が支え、ノエイルたちのあとに続く。


「バーブル長老、夜分に失礼致します。フェルハトの娘、ノエイルが参りました」


 ノエイルが白樺の天幕に向けて呼ばわると、「入りなさい」という、老人のくぐもった声が聞こえてきた。ノエイルは同行者たちに頷いて見せ、天幕の中に入った。


 青いターバンカシュを巻いたバーブル長老が、炉の前であぐらをかいている。周囲には数人の弟子たちが控えていた。バーブルはうたた寝をしているかのように目を閉じていたが、ふっと薄目を開け、ノエイルを見上げた。


「よくきなさった。実は今朝、お前さんの夢を見てのう。一日中、待っておったところじゃったのよ」


 ノエイルは目をみはったが、すぐに微笑した。バーブルは祈祷師だ。夢見で来訪者を当てることくらい、造作もないことだろう。ノエイルはルクンを紹介した上で、今までの事情をバーブルに説明した。


 ゆっくりと頷きながら話を聞き終えると、バーブルは傍に控えていた弟子たちに、捕虜たちを施療用の天幕に連れていき、休ませてやるよう言った。驚きと不審をないまぜにした表情を浮かべる捕虜たちを見て、バーブルは小さく笑う。


「傷が癒えたら、少しずつ、わしの仕事を手伝ってくれ。家畜と違い、人は殺してしまえばそれまでじゃ。煮ても焼いても食えんし、毛皮にもできん。じゃが、寝食を整えて仕事を与えてやれば、色々と使い道はあるものでの」


 それが、バーブルの哲学らしい。彼の弟子たちからして、様々な事情でいき場を失い、ここに流れ着いてきた者ばかりだ。捕虜たちが弟子たちに連れられていってしまうと、バーブルはルクンを見つめた。


「……さて、お前さんがきなさることも、わしは知っておったよ。ルクン、と言ったかな。そこでは寒いだろう。こちらに座りなさい。さ、ノエイルも」


 礼を述べ、ノエイルとルクンは入り口で靴を脱いだ。絨毯を敷き詰めた床に上がると、客人の席である炉の西側に腰を下ろす。


 バーブルが手ずから乳茶ス・ジュイを淹れてくれたので、ノエイルはかしこまっていただいた。まだ、弟子たちが帰ってくる様子はない。旨そうに乳茶をすすっていたバーブルが、不意にルクンを見つめた。


「お前さん、わしと同業か」


 その途端、ルクンを取り巻く空気が、すっと鋭利になる。


(この人が、呪術師?)


 呆気に取られながらも、ノエイルには思い当たる節があった。全ての呪術師は祭司であると同時に、呪医でもある。捕虜たちの傷の手当てをした際、ルクンは患部を見なくても、怪我の状態をぴたりと言い当てていた。そして、そんな不可思議な見立てができるのは、呪術師以外に考えられないのだ。


 急変したルクンの雰囲気に気圧されることもなく、バーブルはのんびりと言葉を続ける。


「──ほうほう、お前さんは水精の守護を受けておるようじゃな。立派な水精じゃが、ふうむ、これは──」


 何かを考え込んでいるバーブルを、ルクンはただ凝視している。


 ややあって、バーブルは口を乳茶で湿した。


「……お前さん、【水の院】からきなさったのか?」


 ルクンが目を剥いた。


「【水の院】を、ご存じなのですか」


「多少、ハサーラの事情に通じている者なら、知らぬほうが珍しいじゃろうの。しかし、やはりそうか。あの院は、見かけ倒しの神官を一切置かぬことで有名じゃからな」


【水の院】とは、何なのだろう。その名やバーブルの言葉からして、水神や水精を祀っている、宮か何かのことだろうか。ノエイルは自分なりの想像を巡らせながら、二人の会話に耳を傾けていた。


 バーブルはため息をついたあとで、ちらりとノエイルのほうを見、それから再びルクンを見据えた。


「わしも呪術師の端くれじゃからな、お前さんがこの冬営地に立ち寄った理由は、大体見当がつく。だが、【水の院】のルクンよ、お前さんの望みを叶え、わしらの望みを伝えるためには、長い話し合いの場を持たねばなるまい。──それでもよいかね?」


「構いません。元より、そのつもりです」


 ルクンは静かに答えた。夜の静寂が、その場に満ちた。焚き火のはぜる音と、夜鳴雀よなきすずめの鳴き声以外は、何も聞こえない。

 

 だが、それはほんのわずかの間だった。穏やかな水面に投じられた小石の音のように、遠くから馬蹄の轟きが聞こえてくることに、ノエイルは気づいた。

 ルクンもはっと布の扉のほうに顔を向けた。

 バーブルだけが一人落ち着いて、乳茶を飲み干している。


 次第に大きくなってきた馬蹄の音が、天幕のすぐ近くで止まった。天幕のすぐ傍まで馬を走らせてくるのは、とんでもなく無礼なことだとされている。まして、ここはバーブル長老の天幕だ。


 胸騒ぎがし、ノエイルはバーブルに断りを入れて外に出る。ルクンが後ろからつき従う気配がしたが、振り向く前に、ノエイルは立ちすくんだ。


 むせ返りそうになるほどの、鉄の──血の臭いが風に乗って漂ってきた。月に照らされた闇の中を、べっとりと赤黒い血に衣を染めたルトフィーが、誰かを引きずるように背負い、天幕に向けて歩いてくる。


 あれは、羊ではない。人だ。


 全身が痺れたように動かない。


 ──どろどろと流れる生臭い赤い血。砕ける骨の音。大きな影。狂気に染まった瞳。


 ノエイルの目は、既に外の光景を映していなかった。

 突如として内側を駆け抜けた赤い夢に、ノエイルは囚われていた。


「大丈夫ですか?」


 力強い声に、ノエイルは顔を上げた。一瞬、自分の顔を覗き込んでいるのが誰か分からず、混乱する。


「動転なさるのも無理からぬことですが、お気を確かに。ほら、息を深く吸われるといい」


 言われるままに深呼吸をすると、目の前の相手がルクンだということが次第に分かってきた。


「あ……わたし……」


 ノエイルが目を瞬かせると、ルクンは安心したように目を細めた。その表情を一転させ、彼はルトフィーに駆け寄る。


「大丈夫か!」


 ノエイルは頭の隅で、ルトフィーに背負われているのがジェラールだと、ようやく理解した。


「ジェラールさまが、狼に肩をやられちまって──俺を──俺と仔羊を庇って……」


 半泣きになりながら、ルトフィーが言った。ルトフィーの馬の傍には、ジェラールの馬が落ち着かない様子で立っており、その鞍には頼りない声を上げる仔羊が括りつけられている。


 次第に、ノエイルの背筋を寒気が這い上ってきた。ジェラールの元に走っていきたいのに、足が言うことを聞かない。盗賊たちを手当てした時とは、明らかに事態が違っていた。


 ルクンは、だらりと下がったジェラールの手首を手に取り、脈を確かめた。それから、止血の施されたジェラールの右肩に目を凝らし、眉根を寄せる。


「……率直に言うと、芳しい状況じゃない。早く天幕に運び込もう。ああ、俺が背負ったほうが早いな。さ、代わろう」


 衣が汚れるのもいとわずに、ルクンはジェラールを背負った。


「こちらの天幕を使いなさい。施療用の天幕には、既に先客がいるでな」


 いつの間にか、バーブルが戸口に立っていた。ただならぬ事態に気づいたバーブルの家族や弟子たちも、あたりに集まってきている。バーブルは、彼らのほうを見た。


「ああ、お前たち、医療具をこちらに運びなさい。それと、水をたっぷりと用意してくれ」


 落ち着き払ったバーブルの言葉を聞いて、ノエイルは身体の痺れと冷えが弱まっていくのを感じた。さすがは、氏族民の尊敬を集める最長老だ。


 その場に居合わせた人々全てが、飛び立つ間際の鳥のように、慌ただしく動き始めた。

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