第三十四章 赤い夢

 ルクンは呆然と空を見上げていた。


 聖湖から現れ、空へと翔け上がっていった翼ある馬の姿と、日を受けて輝く白銀色の髪が、今も目に焼きついて離れない。背に乗っていたのは、間違いなくノエイルだ。


 ノエイルに別れを告げられたあとも、ルクンは湖のほとりから去ることができずにいた。寂寥せきりょうを振り払い、ツァク・ラックに乗って立ち去ろうとしても、ツァク・ラックもバヤードも、その場に踏み留まろうとするのだ。まるで、ノエイルとリュヌドゥの帰りを待ってでもいるかのように。


 仕方なく、大樹の根本で休んでいると、突如として、湖面から大きな生き物が飛び出した。あの馬が何であるのか、ルクンには分からない。【水の院】からも、ローダーナやシャールーズからも教わったことがない。


 天を翔ける馬の伝承はハサーラにも古来から伝えられている。だが、それはマーウィル、キルメジェトに伝わる「白銀の馬」と同じように、水神と関連づけられてはいなかったはずだ。


(いや、待て……)


 ふっと閃くものがあり、ルクンは記憶の糸を手繰り寄せようとした。こんなことをしても意味などないかもしれないが、今は考えることくらいしかできない。


 自問自答を繰り返すうちに、ルクンはようやく答えに辿り着いた。そういえば──東の国の文献に、「天に馬を見ると、大雨が降る」という伝承が載っていた!


 ということは、あの馬は翼を生やしたラグ・ソンなのだろうか。しかし、紡いだ雨糸をラグ・ソンが運搬するという話も聞いたことがない。


「──【水の院】で、もっと詳しく話を聞いておくべきだった……」


 そう呟いたあとで、ルクンは急に虚しくなった。今、自分にとって問題なのは、あの馬の正体ではないことに気づいたからだ。

 ノエイルの姿を見たのは、一瞬のことだった。それなのに、どうしようもなく胸が掻き乱される。もう一度、面と向かって言葉を交わしたいとさえ思ってしまう。


 頭巾イトゥバを掻きむしりながら、ルクンは押し殺した叫びを発した。


「何なんだ、俺は……!」


 手酷くノエイルを傷つけておきながら、もう自分の役目は終わったと分かり切っていながら、この場から動けずにいる。


 不意に、聖湖の中央に泡が立った。反射的に、ルクンは立ち上がる。

 泡を中心に波紋が大きく広がっていき、見る間に大きな影が躍り出た。水から上がってきたのに、全く濡れた様子すら見せない象毛色の馬。背には銀色に輝く鞍と、銀に縁取られた青い鞍敷きを着けている。


「リュヌドゥ!」


 ルクンが呼びかけると、一拍置いて、頭の中に聞いたことのない声が響く。


〈お前、まだいたのか〉


 おそらく、というか、確実にリュヌドゥの声だろう。シャールーズも音声ではなく、心の声で意思の伝達をしていたからだ。ルクンもシャールーズと話す時だけは、彼にならって心の声で会話をしていた。そうしたほうが、自分の言いたいことが素早く的確に伝わったからだ。


 だが、今のルクンには、心の声でリュヌドゥに応える勇気がなかった。自分の弱さが、そのままリュヌドゥに伝わってしまうことが怖かった。

 深く息を吸ってから、ルクンは言った。


「……お力を、取り戻されたのですね」


〈その話し方はやめろ。お前のその話し方が、どれだけノエイルを傷つけたか、分かっているのか〉


 リュヌドゥの返答は、烈しい怒りをはらんでいた。

 ルクンは押し黙るしかなかった。自分がノエイルを傷つけたことは事実だ。

 あの夜、ノエイルに吐露したように、ルクンには、もうどうしたらよいのか分からなかった。何故、誰にも知られたくなかった自分の過去を、他でもないノエイルに話してしまったのか。


 今なら分かるような気がする。自分は、ノエイルに話を聞いて欲しかったのだ。ノエイルの傍らに座り、話を聞いてもらえたことが嬉しかった。穏やかな彼女の寝顔を見ていると、安らぎを感じた。


 ノエイルが「あなたは、医師になるべきよ」と言ってくれた時、ルクンの胸は震えた。

 神官を辞し、どこか医師が不足している村にでも移り住み、診療所を開くことができたら、どんなにか心が満ち足りるだろう。一度捨てた少年の頃からの夢を叶えた時、自分の隣にノエイルがいてくれたら──。


 取るに足りない夢想だ。だが、ルクンには、ほんの一瞬でも、ノエイルを手の届く存在のように錯覚してしまった自分が赦せなかった。その怒りを、彼女にもぶつけてしまった。


 残酷なことをした。怒りなど、自分のうちだけにしまっておけばよかった。そうして、ノエイルが自分に望み続ける態度でいればよかった。どうせ別れなければならないのなら、せめて、彼女の望む姿でいたかった。


〈……もういい。お前の心の声は、強い上にうるさい〉


 リュヌドゥが、前の片足で地を蹴りつけた。

 今までの思考が、全て漏れていたのだと気づき、ルクンは血の気が引くのを感じた。よろけそうになるのを何とか堪えながら、ルクンは口走るように問いかけていた。


「教えてくれ──俺は、どうすればいい?」


〈僕に訊くな。姉上のおっしゃった通り、お前の役目はもう終わった。あとはハサーラにでも帰って、ローダーナ姉上を労って差し上げるしかないだろう〉


「そんなことはもう分かっている! 俺が訊きたいのは──」


 答えたあとで、ルクンは我に返った。答えは、既に自分の中にあったのだ。心の声に意思を込めて、ルクンは言った。


〈リュヌドゥ、教えてくれ。俺がノエイルのためにできることは、もう何もないのか?〉


   ***


 泉のほとりに降り立ったカロルは、化生を解き、人の姿に戻った。傍らで待っていたノエイルは、不意に異変を感じ、身体を強ばらせる。木立に隠れ、何かがいる。

 カロルが片眉をつり上げた。


「オーレボーンがきたようだね。……まあ、見ているだけで、何もしてこないだろう。人喰い馬になりかけているとはいえ、同族や兄弟を攻撃してくるようなことはしないから」


 カロルはそう言ってくれたが、ノエイルは不安だった。あの白馬を思い出そうとするだけで、身がすくんでしまう。恐怖を押し殺し、ノエイルは尋ねる。


「アンディーンお姉さまに呼びかけるための方法は?」


「音声でも思念でもいい。とにかく、意思を込めて呼びかけ続けることだよ。わたしが傍にいることで、お前の声の力を増幅はできる。わたしも、ともに呼びかけてあげたいところだが、わたしには別の仕事がある。ノエイル、その袋をいいかい?」


 ノエイルは預かっていた刺繍入りの袋をカロルに返した。カロルが袋から取り出したのは、一錘いっすい紡錘つむだった。


「これで雨糸を紡ぐんだよ。ここにいる間、わたしは糸を紡ぎ続ける。そうすれば、半日分くらいの雨を降らせるだけの糸ができるからね」


「お願いします」


 ノエイルが頭を下げると、カロルは怒ったような顔をした。


「何故そこまでするんだい? 姉妹とはいえ、お前とローダーナは一度も会ったことがない。お前はハサーラにだっていったことがないはずだ」


「それは……」


 ノエイルは口ごもった。カロルはため息をつく。


「本当は分かっているよ。お前、あの神官のことが好きなんだろう? だから、ハサーラを見捨ててはおけない。違うかい? お前は人間として育てられたから、仕方ないと言えば仕方ないけれど……」


 ノエイルは赤面した。思念を拾おうとしなくても、分かってしまうものなのだろうか。

 カロルが表情を緩める。


「……今は、そんなことを話している場合ではなかったね。ノエイル、少しだけ雨糸の紡ぎ方を見ておくといいよ。本来は、【雨糸を紡ぐ娘】にしか伝授されない技術だからね」


 泉から淡い霧が立ち上り、カロルの周りを包み込む。紡錘を左手に、カロルが右の指先に息を吹きかける。姉の指先で何かが光ったような気がした。目を凝らすと、透明に近い糸をカロルが指先で摘んでいる。


「これが導き糸」


 カロルは導き糸を、器用に紡錘に取りつけた。姉が右手を上げると、紡錘が地面に落ち、回り始める。宙から生まれた透明な糸は次々と生まれ続け、紡錘に巻き取られていった。養母のアイスンにもひけを取らない手際のよさだ。


 しばらく見惚れていたノエイルだったが、自分の役目を思い出し、カロルに告げた。


「では、わたしはアンディーンお姉さまに呼びかけます。どうか見守っていて下さい」


「ああ、頼んだよ」


 近場にあった岩に腰かけながら、カロルは頷いた。その姿を見届けると、ノエイルは泉に向き直る。緊張に胸を押し潰されそうになりながら、ノエイルは泉の前に膝を揃えて座った。


〈アンディーンお姉さま……聞こえておいでですか? わたしはノエイルです。あなたの末の妹のノエイルです……〉


 ノエイルは思念で呼びかけた。喉から出す声を使っても、泉の底にいるというアンディーンには届き辛い気がした。ノエイルは呼びかけ続けた。


〈アンディーンお姉さま……〉


   ***


 どのくらい時が立ったのだろう。集中力が続かなくなり、真冬の寒さが急激に身に沁みた。ルクンたちとともに旅をしていた頃や、故郷の湖の中では、まるで感じたことのなかった、凍えるような寒さだ。翼ある馬となったカロルに乗って空をんだ時でさえ、こんな寒さは感じなかった。


(一体、何が……)


 自分に問いかけた瞬間、ノエイルは悟った。

 これは、アンディーンを泉の底で苛み続けている寒さだ。こんなにも、彼女は辛い思いをしてきたのか。


(十一年前、何が起こったというの……?)


 残像が、目の前に浮かんだ。


 馬だ。立派な体躯の白馬。


 瞼を閉じると、像は鮮明になっていった。

 白馬は、人間の作った鞍を着け、口綱を木に結びつけられている。何とかして自由になろうとしたのだろう。馬の身体には、木の幹にぶつけたような痕や、枝で引っ掻いたような傷がいくつもあった。白い毛並みには、血がこびりついている。


 ──かわいそう。お兄さま、かわいそう。


 子供の声が聞こえた。小さな手が、鞍を取り外そうとしている。

 鞍が外れた。今度は、木の幹から口綱を解こうとする。きつく縛られていた綱が、子供が何か呟いたとたん、するすると外れ始める。


(だめ! 今外してはだめ!)


 ノエイルはとっさに心の中で叫んだ。

 その直後に、綱は外れた。白馬は、子供を労う素振りすら見せず、猛烈な勢いで走り去っていく。その目には、見る者をぞっとさせる光があった。


 ──リュヌドゥ、いこう!


 子供が呼びかけた。


 ノエイルはいつしか、自分の顎が小刻みに震えていることに気づいた。震えは全身に伝わっていき、ノエイルは無我夢中で目の前で展開される幻影から逃れようとした。これ以上、見てはいけない。そう思ったが、幻影は止まることなく流れ続ける。


 子供が乗った馬が、白銀のたてがみをなびかせる。白馬の姿が見え、子供は馬を止めた。

 物音に、白馬が振り返る。剥き出された歯は鮮血に染まり、顔が半分以上、白と赤の斑になっていた。


 子供が、声にならない声で叫んだ。

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