第二十三章 落雷

 この洞窟の中には、数々の泉がある。温泉の湧き出す洞窟の奥に近づくほど、水温は高くなっていき、入り口に近づくほど、飲み水に適した温い水になっていく。


 入り口付近の湧き水の水面を、ルクンは覗き込んでいた。呪文を唱えながら、霊石を静かに水中に沈める。波紋を描き始めた水面の動きを追うように、ルクンは呪文を唱え続けた。


 波紋が、緩やかに像を結び始める。


 いっそう声に力を込め、ルクンは休みなく呪文を唱えたが、現れそうになった像は、やがて波紋が広がった時と同じように、崩れて消えてしまった。


(また、失敗か……)


 ルクンは落胆のため息をついた。

 この洞窟に逃れてから、ルクンは毎日、こうしてハサーラにいるシャールーズと連絡を取ろうとした。シャールーズならば、アンディーンというラグ・メルが実在するかどうか、知っているはずだからだ。


 ハサーラを出発し、ミル・シャーンの冬営地に滞在していた頃までは、ルクンは水鏡を介し、シャールーズと話すことができた。しかし、冬営地を発ってから数日もすると、全く連絡がつかなくなった。


(こんなことは考えたくないが……もしや、ローダーナに何かあったのだろうか……)


 春がくる頃までに雨を降らせることができれば、ローダーナは助かる、とシャールーズは言った。ルクンはハサーラを出たあとも、一日が終わるたびに記録を取り、暦を忘れないようにしていた。暦の上では、今はまだ冬のはずだ。


 しかし、暦はあくまで暦だ。春の訪れが暦より早いこともあれば、遅いこともある。まして、ハサーラの春の訪れは、北の地に比べるとずっと早いのだ。


 急がなければ。一刻も早く、聖湖に辿り着かなければ。


 そう思うのだが、まだ身体が回復していないノエイルを急かすことは、絶対にできない。


 ハサーラの民は、今どんな状況なのだろう。ルクンが旅立った頃は、よそに移り住むのはごめんだ、と気丈に振る舞う者が多かった。だが、水をよそから買うといっても、砂漠では限度がある。飲み水が高値になれば、水も買えず、かといって移住もできない貧しい者たちは、渇き死ぬしかなくなる。


 そうなってしまえば、議会や軍は、民の信を失い、暴動は避けられない。ハサーラの宗教的支柱である【水の院】の権威も、失墜するだろう。


 民が【水の院】を敬うのは、院主を盲信しているからではない。かつてハサーラを救った聖ハミードの子孫である院主ならば、必ず自分たちを守ってくれると信じているからだ。

 その信頼が失われてしまえば、ハサーラは旱魃かんばつではなく、人の手によって滅ぶことになるだろう。


 悲惨な想像が次々と黒い翼を広げていくのを止められず、ルクンはしばらくの間、立ち尽くしていた。


   ***


 四肢に力を入れ、ノエイルは身を起こした。傍に座っているリュヌドゥが、ブルルル、と力づけるような声を上げる。かけ布団をどけて、二本の足で立つと、少し、足元がふらついた。心配そうに寄り添うリュヌドゥの首を、ノエイルは撫でた。


「大丈夫。久しぶりに自分の足で歩くから、ちょっと頼りないけど。それよりリュヌドゥ。この洞窟にきてから、あなたもツァク・ラックも、外を走り回っていないんでしょう? このままじゃ、あなたたちが病気になっちゃうわ。ここにはルクンもいることだし、二人で遠出でもしてきたら?」


 リュヌドゥは迷うように目を瞬かせた。ノエイルはリュヌドゥの鼻面に、自分の頬を当てる。


「わたしに遠慮することはないのよ。リュヌドゥは、いつもわたしのことばかり優先して……わたしのためだと思って、たまには羽を伸ばしてきて」


 リュヌドゥはまだためらっていたようだが、やがてノエイルから顔を離すと、高くいなないた。洞窟内を反響する嘶きに、新たな嘶きが重なる。ツァク・ラックが返事をしているのだ。


 ほどなくして、通路からツァク・ラックが姿を現した。リュヌドゥとツァク・ラックは鼻先を寄せ合って何事か話し合っていた。相談がまとまったらしく、二頭はノエイルにしばしの別れを告げ、連れ立って歩いていく。


 二頭を見送ったノエイルは、身体のだるさを押して布団を畳み、長靴を履いた。それから、ふと呟く。


「ルクンは、まだ戻ってこないのかな……」


 彼は大分前に「少し用がある」と言って、姿を消してしまった。その間に、ノエイルは起き上がる練習をしていたのだが、リュヌドゥやツァク・ラックが外出したこともあり、目的を果たしてしまうと、途端に寂しくなった。


 退屈しのぎに、自分のいるほらの中を、ぐるりと見回す。最初に目についたのは、衣類一式の入った袋だ。その横に、母から贈られた朱色の上衣があった。あの衣は、矢を受けて、どんな状態になってしまったのだろう。


 思わず近寄って広げてみると、染み抜きだけはルクンがしてくれたらしく、血は綺麗に落ちている。穴はそのままだった。

 多分、こればかりはノエイルが縫ったほうがよいと、ルクンが判断したのだろう。彼の心遣いが胸に染みて、ノエイルはしばらくの間、ぼんやりと上衣を眺めていた。


(わたし……ルクンが好きなんだ……)


 それは、不思議な実感だった。少し前まで、自分がそんな気持ちになるなど、夢にも思わなかったのに。


 だが、どうしたらよいのか、分からない。自分が彼と旅をしているのは、生まれ故郷に帰り、ローダーナとハサーラを旱魃から救うためだ。それなのに、こんな想いを抱いていてもよいのだろうか……。


 ノエイルはため息をついた。そうしてみると、ため息すらも、心なしか熱いような気がして、ノエイルは慌てて上衣を畳んだ。


「ルクンは、どこにいるんだろう……」


 畳み終えたあとで、ノエイルは呟いた。口に出してしまうと、無性にルクンに会いたくなった。


 ノエイルは何かに憑かれたように立ち上がると、彼を捜して歩き始めた。

 隣の洞に入った瞬間、ノエイルは足を止めた。遙か向こうで、雨音が聞こえたような気がしたのだ。大分調子が戻ってきた足で、入り口があるはずの方向へ歩いていくと、通路の先に、白っぽい穴が見えてきた。


 さらに歩みを進めていくと、ちょうど騎馬が通れるほどの高さがある入り口があり、壁に手をついたルクンが、背を向けて立っていた。外では、この季節には珍しく、大粒の雨が降っている。土埃が雨に濡れた時の、むわっとした臭いが辺りに漂っていた。


 何となく声をかけ辛くて、ノエイルはルクンからやや離れたところで立ち止まり、荒野に雨の降る様をただ、眺めていた。


(リュヌドゥとツァク・ラックは大丈夫かしら……雨が降るなら、外出を勧めるんじゃなかった……)


 それに、行方知れずのバヤードはどうしているだろう。この辺りにいたとして、慣れない雨に震えているのではないだろうか。


 そんなことを思っていると、ルクンが振り返った。


「ノエイル……いつから、そこに?」


「え、少し前からだけど……」


 ルクンが人の気配に気づかなかったことに、ノエイルは驚いた。一体どうしたのだろう、と考えて、はっとする。


 ルクンはこの雨を見て、旱魃に苦しむハサーラに想いを馳せていたのだ。


 それは、どれだけ苦しい想いなのだろう。ノエイルには想像もつかなかったが、そう思うだけで、胸がきつく締めつけられた。


「……そろそろ戻ろう。ここにいては感冒になる」


 他ならぬルクンに促され、ノエイルは小さく頷いた。


「そういえば、リュヌドゥとツァク・ラックの姿が見えないようだが……」


 ノエイルと並んで歩きながら、思い出したようにルクンが言った。ノエイルは苦笑する。


「二人で外に出てる。わたしが勧めたの。こんなことになるのなら、外の様子を確認しておけばよかったけれど……」


「仕方ないさ。リュヌドゥたちが帰ってきたら、温泉に入ってもらうといい」


「その温泉、そんなに広いの?」


「馬一頭くらいなら入れる」


「へえ……。そうね。二人とも、きっと喜ぶわ」


 リュヌドゥとツァク・ラックが温泉でくつろぐ姿を想像するとかわいらしくて、ノエイルはちょっと笑った。すぐに笑みを消すと、ノエイルは「ねえ」と話題を変える。


「リュヌドゥたちが帰ってきて、温泉にも入れて、雨もやんだら、すぐにでも、ここを出ない?」


「……無理はしないでくれ。まだ本調子ではないだろう」


 労るようにルクンは言った。


(ああ、そうか……)


 ルクンがハサーラのことを心配しながらも、ここに留まろうとするのは、ノエイルのことを気遣ってくれているからなのだ。

 自分が足手まといになっているのは辛い。だが、ノエイルが身体を回復させないことには、ルクンの負担は増すばかりだ。

 結局、今自分にできることは、ここで養生することだけなのだろうか──。


 突然の轟音が耳をつんざく。


 ノエイルの頭は真っ白に塗り変えられた。

 恐怖が身体を駆け抜けていき、とっさにノエイルはしゃがみ込む。

 雷、という言葉が、ようやく頭に浮かんだ。

 マーウィルの民にとって、雷は畏怖の対象だ。特に、周りに灌木かんぼくくらいしかない草原では、雷は容赦なく人や家畜を襲う。

 

 洞窟の中にまでは落ちてこない。そう分かってはいても、ノエイルにとって雷の音は恐怖以外の何ものでもない。ノエイルが自分を抱きしめるようにして震えていると、頭上から声が降ってきた。


「──ノエイル、大丈夫だ。冬の雷は、たいてい一度切りだと聞く。もう落ちてこないさ」


 ノエイルが恐る恐る顔を上げると、傍らに座るルクンの顔が、すぐ間近にあった。ルクンの頭巾イトゥバから、黒髪の一筋がこぼれ落ちている──はっきりと、そう分かるほどに。


 ノエイルは吹い寄せられるように、ルクンの黒い瞳を見つめた。ルクンもまた、ノエイルの瞳を覗き込むように見つめてくる。


 まるで、時の流れが止まってしまったようだった。どちらが先にそうしたのかは分からない。いつの間にか、二人の唇は、重なる寸前まで近づいていた。


 だが、二人の距離は、唐突に離れた。ルクンがノエイルの頬に添えようとしていた右手とともに、そっと顔を離したのだ。

 ノエイルが息を詰めて見守る中、ルクンは悲しげに首を横に振った。


 ノエイルも、悲しかった。拒絶されたからではない。彼の立場ではそうせざるをえないことが、痛いほど理解できたからだ。


 急速に辺りの音が戻り、洞窟の入り口から、馬蹄の音が聞こえてきた。

 リュヌドゥたちが帰ってきたのだ。ノエイルは思わず腰を浮かせかけた。悪いことをしたわけではない、と思うのに、心臓が速く重い音を立てていた。


 ルクンも硬い表情で頷いてみせると、生真面目な動作でノエイルの手を取って、立ち上がるのを助けてくれた。その手の確かな温かさを、ノエイルは長い間忘れることができなかった。

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