第十六章 キルメジェトのデュラン

「バヤード、逃げろよ!」


 ツァク・ラックを全速力で駆けさせながら、ルクンは少し遅れてついてくる相棒に向けて叫んだ。バヤードは寂しげな声を上げると、ルクンたちとは別の方向に駆けていく。


(運がよければ、また会える)


 ルクンは寂寥せきりょうを振り払うように振り向いた。


 こちらを半包囲するかのような三日月形の陣を組みながら、騎馬隊が追ってくる。強い指導者によって指揮された、一糸乱れぬ陣形だった。

 たった二人の旅人を掠奪するための襲撃にしては、あまりにも大げさすぎる。


(何が目的だ)


 不気味なことこの上ないが、敵の目的が掠奪ではないという一点が、かえってルクンを冷静にさせていた。相手は賊ではないのだ。


 ルクンは鞍にかけた鉄杖を構えた。今、弓を構えるのは現実的な策ではない。こちらが一矢放てば、十数の矢が返ってくるだろう。

 幸いなことに、ノエイルとリュヌドゥは、ルクンも騎馬隊も引き離し、ずっと先を走っている。


 このままではリュヌドゥに追いつけないことを悟ったのか、騎馬隊は途中から半月形へと陣を変える。その臨機応変さは、まさしく野戦に慣れた遊牧の民の戦い方だ。


 ルクンは彼らの動きを今まで以上に注視した。目を離した時が、自分の最期だ。陣を組み直しながら、騎馬隊が弓を構える様が、ルクンの目に映る。


 騎馬隊の前列から、揃って矢が射放たれた。


 凄まじい勢いで飛んできた矢を、ルクンは鉄杖で弾き飛ばす。ノエイルを狙った矢は、疾走するリュヌドゥに追いすがることができずに、地に突き刺さった。


 騎馬隊が放つ矢の雨から逃れるために、ツァク・ラックは全速力で駆けた。しかし、いくらよい馬とはいえ、ツァク・ラックはラグ・ソンではない。ツァク・ラックが疲れを見せた一瞬、じょじょに近づいていた騎馬隊との距離が、一気に狭まった。


 前列の騎馬のうち、すこぶる俊敏な一騎がツァク・ラックに追いつき、背後からルクンに斬りかかる。


 振り向き様、ルクンは相手の湾刀を受け流した。互いに体勢を変え、一合二合と打ち合う。その間にも飛んでくる矢を、ルクンは左手で抜いた短刀で切り払った。


「皆、一旦、武器を下ろせ!」


 太く厳めしい声が命じるなり、騎馬隊はいっせいに止まった。

 ルクンは呆気に取られたが、油断なく鉄杖と短刀を構えたまま、ツァク・ラックをゆっくりと進める。このまま駆け続けても、いずれ包囲され、殺されるのは目に見えている。


 ちらり、と、ノエイルの姿を捜すと、彼女は何事が起こったのか、と思ったのだろう。リュヌドゥの足を止めて、こちらの様子を窺っている。


(何をしている、逃げろ!)


 叫ぼうとした時、数騎の騎馬がルクンに近づいてきた。その中の一人の口髭の男が騎馬隊の指導者であることは、彼らの立ち居振る舞いを見ていればすぐに分かった。


 ルクンをしげしげと眺めながら、口髭の男が口を開く。


「背の高い砂漠の民──なるほど、ガリプの託宣通りの見てくれだ。……そなた、名は何と言う?」


 託宣という言葉に引っかかりを覚えはしたが、ルクンは素直に答えた。


「ルクン・ラヒム・ラ・ハードゥラ」


 口髭の男も、また名乗った。


「わたしは、キルメジェト部族がひとつ、デュラン氏族の長、ヌフ」


 ノエイルから、予め彼らの正体を聞かされていたこともあり、氏族長の名乗りにも、ルクンはさして心を動かされなかった。今のルクンの関心は、ただひとつ。ノエイルとリュヌドゥが無事に逃げられるか否かだけだ。


 だが何故、氏族長自らが動き、自分たちを追ってきたのだろう。しかも、ルクンへの攻撃をやめさせ、わざわざ名乗り合ってまでいる。


 ルクンは、ヌフという男の目を見据えた。


「では、デュランの氏族長よ。我々を追ってこられた理由を教えていただこう」


 ヌフは、顔の向きを変えた。その視線の先には、未だたたずんでいるノエイルの姿がある。ルクンは背筋に寒気を感じた。聖水文字ウルカリーサ占いでルクンが引いたふたつ目の石は、こう伝えてきたのだ。


 ──騒乱は、嫌疑によって引き起こされる。


「……彼女が何をしたというのだ」


 ルクンの声は掠れた。緊張で口内が乾ききっている。


「精霊を宿した氏族の呪術師カムは言った。あの娘は、我が息子の死にかかわっていると」


 予感と違わぬヌフの返答に、ルクンはかえって冷静さを取り戻すことができた。乾いた唇を舌で湿したあとで、再び尋ねる。今度は丁重に。


「ご子息が亡くなったのは、いつ頃のことですか?」


「十一年前だ」


(また、十一年前か……)


 奇妙な符号に、ルクンは引っかかりを覚えたが、今はその疑問を追求している余裕はない。


「では、わたしの連れが、ご子息の死にかかわっているはずがない。彼女は、まだ十七歳だ。十一年前、ほんの幼子だった彼女に、何ができよう」


「直接手を下したわけではなくとも、息子が殺される場を目撃しているやもしれぬ。──息子は惨い殺され方をした。首をほとんど咬み千切られるようにして、殺されていた……」


「首を……?」


 あまりに想像を越えたヌフの言葉に、ルクンは呆然とした。そんなことが人間にできるとは、とても思えない。だとすれば、下手人は獣だろうが──。


「わたしは、息子が何故そのような死に方をしなければならなかったのかを知りたい。知るまではとても死ねぬ。一体、どこの誰が息子を手にかけたのかも……」


 ヌフの口から迸る怨嗟の声に、ルクンの心は疼いた。肉親を無惨に殺された者の気持ちは、身に染みている。

 だからといって、ノエイルを彼の前に連れてくるわけにはいかない。今ここで足止めを喰らえば、旅は大幅に遅れてしまう。


 しかも、ノエイルにはミル・シャーンに拾われるまでの記憶が欠落している。仮にノエイルとヌフを対面させたところで、どうにもならないだろう。

 下手をすれば、ノエイルに記憶がないことを虚言と決めつけ、ヌフやデュラン氏族の者たちが激昂する可能性もある。


 やはりノエイルとリュヌドゥには、無事に逃げ切ってもらうしかない。しかし、事情が事情なだけに、デュラン氏族は、執拗にノエイルたちを追い続けるだろう。


(くそ! 何か手はないのか! ノエイルたちを安全に逃がす方法は!)


 ルクンは歯噛みしながら視線を落とした。外套の下に締めた、短刀を吊るすための革帯が目に留まる。


 ルクンの脳裏に、閃きが走った。


 ルクンは闘気を解き、鉄杖を鞍にかけた。鞘に納めた短刀ごと革帯を外し、両手でヌフに向けて差し出す。


「この革帯は、彼女の兄である、わたしの盟友アダッシャから贈られたもの。マーウィル部族がひとつ、ミル・シャーンの先の氏族長の息子、ジェラールの持ち物でした。ご確認を」


 ヌフは後ろに控えていた男と顔を見合わせた。ヌフが頷くと、男が主の代わりに、ルクンから革帯を受け取った。男から手渡された革帯を、ヌフは凝視する。


「確かに、この革帯に刻印された鷹は、ミル・シャーン氏族長の直系のみに許された印。……で、これを見せて、そなたはどうしたいのだ?」


 既に分かっているだろうに、意地の悪い質問だ、と思いはしたが、ルクンは苛立ちを抑えて答える。


「それは、わたしたちが素性の確かな者であるという証。あなた方は、ミル・シャーンの次の氏族長の妹御を包囲し、詰問なさるおつもりか」


 抑えたはずが、少し口調がきつくなった。ヌフの配下の者たちが、わずかに怒気を見せる。だが、当のヌフは微塵も動じる気配がない。


「わたしとて、ミル・シャーンの氏族長筋には、真っ当な敬意を持っている。だが、あの娘は、本当に氏族長筋なのか?」


 ルクンは内心で動揺した。まさか、この男は、ノエイルが人ではないことに気づいているというのか?

 デュラン氏族の呪術師が下したという託宣の全容が分からぬ以上、ルクンには判断がつかない。


「……どういうことです?」


「まず、ひとつ。何故、ミル・シャーンの先の氏族長の娘御が、異国人であるそなたとともに旅をしているのだ? ミル・シャーンの姫は美貌で名高い。その彼女が異国人とともに旅立ったとなれば、当然、噂が広まるはずだが。


 ふたつ。デュランとミル・シャーンの間には、かつて牧地を巡って諍いが起こった。十二年前のことだ。それ以降、我々とミル・シャーンは、互いの営地や牧地が重ならぬよう、固く誓い合った。

 それなのに、おかしいではないか? 何故、十一年前に、ミル・シャーンの姫がわたしの息子の死にかかわっている?


 みっつ。その革帯が、本当にジェラール殿のものかどうかは、細工職人に見せて、検証の必要がある。……理解できたか?」


(──喰えん男だ)


 いつの間にか、ルクンの掌は、じっとりと汗で濡れていた。この男は、口先だけで誤魔化せるような小物ではない。かといって、こちらの事情と目的を話し、納得してもらえるだけの時間は、ルクンにとって、ないに等しい。


(リュヌドゥ……一刻も早く、ノエイルを連れて逃げてくれ)


 ルクンは祈った。だが、リュヌドゥが駆け出す音は聞こえてこない。


(何をしている!)


 叫び出したい気持ちを堪え、ルクンは目まぐるしく頭を回転させる。ノエイルたちが追跡を受けずに逃げ延びる方法。それだけを考える。


(──犠牲)


 不意に、聖水文字占いで最後に引いた答えが、頭に浮かんだ。


 もう、この方法しかない。ルクンは目を上げて、ヌフを見据える。


「分かりました。あなたの疑念はもっともです。……ですが、彼女を呼び戻すわけには参りません」


「何」


 ヌフの太い眉が跳ねた。ルクンは深く息を吸ってから、言葉を継ぐ。


「ですが、代わりに、わたしがあなた方に身柄を預けましょう」


 ヌフはわらった。


「わたしが知りたいのは、そなたの連れが何を知っているか、だ。そなたの身柄を確保したところで、あの娘が逃げてしまっては意味がない。そなたを人質に、あの娘を呼び戻すという方法もあるが、それは本意ではあるまい?」


「おっしゃる通りです。そこで、提案があります。ミル・シャーンに使いを出し、あなた方が信頼を置ける人物をわたしの元にお連れ下さい。さすれば、全てがはっきりとするでしょう。それまでの、人質です」


「そなたは、よほどあの娘を庇いたいようだな」


「彼女は盟友の妹です。ならば、身を賭して守るのが道理というもの。……それに、これはあなた方にとっても、捨て置いてよい話ではないはずです。あなた方は、過去にミル・シャーンと約束をなさったのでしょう? 彼女に何かあれば、ミル・シャーンは黙ってはいない」


 ルクンは目と声に力を込めて言い切った。既に腹は決まっている。何があっても、ノエイルとリュヌドゥには聖湖に辿り着いてもらう。あとはヌフの返答を待つのみだった。


 しばしの沈黙ののち、ヌフは言った。


「……よかろう。ただし、そなたの話がもし偽りであった場合、相応の報いは覚悟しておくことだ」


「むろん」


 ルクンがきっぱりと答えると、ヌフはふっと笑った。部下たちに指示し、ルクンの前後両脇を固めさせる。バヤードに積んでいた積み荷を回収すると、ヌフに率いられた騎馬隊は、南西に向けて歩き出した。

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