第十三章 協奏
その日の夕刻、右腕を布で吊っていはいるものの、大分傷の癒えたジェラールが、片手で馬を操りながら
最初は反対の立場をとっていたアイスンも、ノエイルの決意が固いことを知ると、最後には折れた。ルクンはジェラールに説得され、出立の日までノエイルたちと寝食をともにすることになった。
翌日から、ノエイルとルクンは旅立ちの準備を始めた。
ノエイルがまずしたことは、氏族の寄り合いで、旅立ちの意志を皆に告げることだった。
生まれ故郷を探すためにルクンの旅に同行するという、真実に近い話を氏族の主だった者たちに伝え、それ以外の人々には、それぞれの天幕を一張りずつ訪問して、別れの挨拶をした。
無事帰郷できるよう祈ってくれる者、別れを泣いて惜しんでくれる者も少なくなく、ノエイルは涙が出そうになるくらい嬉しかった。
ノエイルが最も心配したのは、自分とルクンの関係が邪推されること──出発までの間、ルクンがミル・シャーンに居辛くなるのではないか──ということだった。
だが、それも杞憂に終わった。バーブル長老の仕事を手伝っていたルクンは、着実に氏族民の信頼を得ており、彼との別れを惜しむ声も、また多かったのだ。
ジェラールは、ルクンに一頭の馬を贈った。父から受け継いだ馬群の中から、彼に直接選ばせたのだ。
ルクンが選んだのは、
「いい馬を選んだな。そいつは調教ずみの馬の中でも、群を抜いてる。お前は駱駝だけじゃなく、馬を見る目もあるんだな」
ジェラールが満足げに笑うと、ルクンはツァク・ラックの鞍の上から遠慮がちに尋ねた。
「本当にいいのか? こんなにいい馬をもらっても」
「いいさ。これからの旅には、駱駝だけでなく、馬も必要になるだろう。──その代わり、といってはなんだが、ノエイルのことを頼む」
真剣な光がジェラールの藍色の瞳に浮かんだ。
「ああ、もちろんだ」
ルクンはしっかりと頷いた。
その日、ルクンとジェラールは、お互いの革帯を交換し、マーウィルに古くから伝わる「
旅立ちの前夜、ノエイルはルクンとジェラールとともに、バーブル長老の宴席に招かれた。ノエイルは途中で天幕に帰る約束で参加することにした。最後の夜くらい、母とゆっくり語らう時が欲しかった。
宴席のさなか、バーブルが言った。
「ルクン、メワを一曲吹いてはもらえんかの」
「はい」
ルクンは快く答えた。メワは芦で作られた縦笛で、吹くのが難しい楽器と言われる。ミル・シャーンの中で吹ける者は、確か一人か二人だったはずだ。今までノエイルは知らなかったのだが、ハサーラではメワのことをムワといい、ルクンはその名手らしい。
正面から見てメワを斜めに構えると、ルクンは瞼を閉じて吹き鳴らし始めた。
音は風のようにうねり、波紋のように広がっていく。素朴なようでいて複雑な旋律は深い音となって、ノエイルの心を木の葉のように揺らした。ノエイルが目を閉じて耳を傾けていると、ジェラールが耳打ちしてきた。
「ノエイルも、ルクンと一緒に演奏しろよ」
「ええ? だめよ。わたし、
ノエイルがうろたえると、ジェラールはからかうように笑う。
「バーブル長老から借りればいいだろ。それに、協奏するくらいで恥ずかしがるなよ。明日から、ルクンと二人で旅に出るんだから」
「リュ、リュヌドゥたちも一緒よ」
ノエイルが言い返す間にも、ジェラールはバーブルから撥弦楽器を借り受ける話をすませてしまった。ノエイルは渋々、用意された撥弦楽器を受け取る。
途中、ちょっとした騒ぎに気づいたルクンが、何事かと、演奏を止めそうになったが、バーブルに促され、曲を続けた。
気持ちを落ち着けながら、ノエイルは撥弦楽器をそろそろと爪弾いた。ルクンの奏でる旋律の邪魔にならないように、撥弦楽器を鳴らしていく。
ルクンがこちらに視線を向けた。目が合うと、彼は瞳だけで笑う。もっと大きな音で撥弦楽器を弾いてもいい、と言われたような気がして、ノエイルはメワの音に合わせ、撥弦楽器を掻き鳴らし始めた。
ふたつの音が交差し、束ねられていくに従い、心躍る感覚がわき起こってきた。ノエイルはルクンの音に自分の音を委ね、メワの音が余韻を残して終わるまで、撥弦楽器を弾いた。
まるで、自分の魂と彼の魂が合わさって、一体になってしまったかのようだった。
ふたつの音が完全に消えてしまうと、出席者たちの拍手が起こり、ノエイルは見慣れた世界に引き戻された。是非もう一曲、と皆から言われ、ノエイルはルクンと顔を見合わせた。演奏は楽しいし、皆の期待には応えたいが、いつまでも母を待たせておくわけにはいかない。
ノエイルが困っていると、ルクンが静かに言った。
「では、わたし一人でよければ奏でましょう。あいにく、ノエイルはそろそろ天幕に戻らねばなりませんので」
「そうしてくれ、ルクン。皆、すまないな。母が天幕でノエイルを待っているんだ」
ルクンとジェラールの説明に、出席者たちは納得したようだった。ノエイルはルクンとジェラールに礼を言うと、バーブルたちに挨拶をして天幕に戻った。
母は、宴席で夕餉をすませてきたノエイルのために、
母が川まで馬を走らせて、手ずから仕上げの洗いをし、今日の午後に、やっと乾かし終えたものだ。母の両手にのった色鮮やかな平織を見て、ノエイルは嘆声を上げた。
「すごいわ。母上の平織はどれもすてきだけれど、わたしは、これが一番好きです」
母は嬉しそうに、ほほえんだ。
「よかった……。ノエイル、これはね、あなたにあげようと思って織ったものなの」
「わたしに?」
「そうよ。あなたの嫁入り道具にと、織ったものよ。……結局、わたしはあなたをお嫁に出すことはできなかったけれど、せめて、帰郷の餞別として持っていってちょうだい。他にもたくさんあるから……」
そう言って、母は平織を畳み始めた。ノエイルは何も言えず、ただ母を見つめていた。切ないほどに胸の奥が熱い。
「……今まで話したことはなかったけれど、わたしはジェラールを産んだあとに、女の子を二人亡くしていてね、あなたをうちに迎えることになった時、本当に嬉しかったのよ。まるで、亡くした子供たちが戻ってきてくれたようでね……。フェルハトも、これも何かの縁だから、この子は何不自由させることなく育てようと、わたし以上に喜んでいたのよ……」
母は指先で目元を拭った。
ノエイルは胸の震えを抑えきれなかった。こらえていた涙が溢れ始める。
「母上……」
ノエイルは
温かい雫がノエイルの額に落ちた。嗚咽を押し殺すような声が、母の口から漏れ、優しい手がノエイルの背を抱きしめ返した。二人は、長いことそうやって互いを支え合って座っていた。
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