第十二章 ローダーナの命

 山羊たちの澄んだ鈴の音が鳴り響く。リュヌドゥの背で山羊たちを追いながら、ノエイルは物思いに沈んでいた。

 あの夜から、ずっと同じことをぐるぐると考え続けている。


 自分とリュヌドゥは、本当に水神なのか。ルクンに請われるままに、「故郷」へ帰るべきなのか。

 自分の本当の一族とは、どんな人たちなのか。

 自分がいなくなったら、アイスンやジェラールが寂しがるのではないか。働き手が足りなくなって、困るのではないだろうか。

 リュヌドゥは、どう思っているのだろう。


 そして、最後は決まって同じ問いに辿り着く。


(もし、わたしが故郷に帰ることを拒んだら、あの人はどうなってしまうんだろう……)


 ノエイルは、【水の院】という教団に、よい印象を持てずにいる。事情があるにせよ、危険を伴う旅に送り出すために、まだ十一歳だったルクンを、今までの生活から引き離した組織だ。故郷に帰らない、という道をノエイルが選択すれば、最悪──。


 急に胸の奥が苦しくなり、ノエイルは考えるのをやめた。


 思考を止めると、空白になった意識の上に、過去の残像が浮かび上がる。自分を盗賊から助けてくれた時のルクンの姿や、宴席で歌と撥弦楽器バトを誉めてくれた時の彼の笑顔が、次々と立ち上った。


(あの人が、そんな目に遭うなんて、嫌だ……)


 何故か泣きたくなるような気持ちで、ノエイルは思った。


「あ! 見て下さい。ノエイルさま!」


 山羊の放牧を手伝ってくれているスレイマンが、大きな声を上げた。スレイマンが振り向くほうを見ると、白っぽい駱駝に乗った人影がある。ルクンとバヤードだ。


 何があったのだろう。そう思う間もなく、ノエイルは言い放っていた。


「スレイマン。しばらく、山羊たちをお願い」


 スレイマンの返事を待たずに、ノエイルはリュヌドゥを疾駆させた。北風のような速さで、リュヌドゥはバヤードに乗ったルクンの正面に到着する。

 呆気に取られたような顔をしていたルクンが、急いでバヤードを座らせた。バヤードから降り、恭しくひざまずいた彼の前に、ノエイルも降り立つ。


「あの……」


 内側から迸るような勢いに押されて、ルクンに駆け寄ったものの、何と言葉をかけてよいのか分からない。ノエイルの困惑に気づいたのか、ルクンが心配そうに顔を上げた。その表情を見たとたん、言葉が飛び出した。


「わたし、故郷に帰ってみます。あなたと一緒に」


 ぽかん、と口を開けて、ルクンがこちらを見ている。ノエイルは一瞬、自分が何かおかしなことを口走ってしまったのではないかと思った。だが、心の中で反芻はんすうしてみても、妙なところは見つからない。ノエイルは問いかけた。


「あの……どうなさったんですか?」


 ルクンは我に返ったように、口元を引き締める。


「いえ、失礼致しました。まさか、わたしがお話を致す前に、色よいお返事がいただけるとは、夢にも思わなかったので……」


「話?」


「はい。これは、ハサーラの外には漏れないように、固く秘されている話なのですが──実は、我が故国ハサーラは、旱魃かんばつの危機に瀕しているのです」


 ノエイルは息を呑んだ。真っ先に浮かんだのは、以前、ルクンから聞いたハサーラの伝承だ。ルクンは続けた。


「……と申しましても、伝承のように、ローダーナが再び姿を消してしまわれたわけではないのです。ローダーナは、変わらずハサーラの地下水を守って下さる──が、肝心の雨が降らなくなりました。


 ハサーラでは、年に二回も雨が降ればよいほうですが、今年はまだ一回も降っておりません。ハサーラの地下水は、砂漠に降る雨をローダーナのお力により蓄えたもの。もし、これからも雨が降らなければ、ハサーラは死の国となり果てるでしょう──ローダーナも……」


「……ローダーナは、どうなるの?」


「地下水が完全に涸れてしまえば、ローダーナのお命も危険に晒されます。……旱魃の影響で、既にローダーナは病にせっておいでになります。人や動物が水なしでは生きていけないように、ラグ・メルには、常に清新な水がご必要なのです。今は、弟君のラグ・ソンのお力で、何とかお命を繋いでおいでになりますが──」


 ルクンは痛みを堪えるように、ぎゅっと眉を寄せた。


「いっそ、聖湖にお帰りあそばすよう、皆でご説得致そうとしましたが、聞き入れてはいただけませんでした──『いずれにしても、ハサーラの水は涸れる』と、頑なにおっしゃるのです。ご自分のお命は、常にハサーラとともにある、とローダーナは思し召しですから」


 悲しみを湛えたルクンの瞳に、ノエイルの胸は締めつけられた。何かを言うべきなのに、何をどう言えばよいのか分からない。草地を照らす柔らかな冬の光が、雲に遮られたのか、すっと消えた。


「──わたしに、何かできることはありますか?」


 ルクンがローダーナとハサーラを救いたいと願っているのなら、その力になりたい。自分でも不思議なほどに強い想いが、ノエイルを駆り立てていた。ルクンは憂いを含んだ眼差しのまま答える。


「……ご一族の住まう聖湖へとお戻りになったあとで、ハサーラに再び雨を降らせて下さるよう、わたしとともに姉君に頼んでいただきたいのです」


「姉……? 水神の女王ではなくて?」


「地上に雨を降らせて下さるのは、水神の女王ではなく、ラグ・メルなのです。ローダーナのように、地上に水を引いて下さる方を【源を司る娘】、雨を降らせて下さる方を【雨糸を紡ぐ娘】とお呼び申し上げます。

 ハサーラの【雨糸を紡ぐ娘】は、カロルという御名で、あなたさま方の姉君であらせられるお方。ところが、カロルはローダーナと諍いを起こされ、聖湖へと帰ってしまわれました」


 苦くなった顔を和らげるようにして、ルクンは言葉を継いだ。


「最初に断らせていただきますが、諍いの原因は、あなたさま方にはございません。ローダーナとカロルは、雨の降らせ方において、以前からご対立なさっておいでだったのです。

 ハサーラは四方より人々の集まる交易の国。人が集まり豊かになれば、様々な罪や争いなどのけがれが起こります。穢れが蓄積すると、力のある高位の精霊ほど、これをいとい、その地を去っていきます。


 ……ローダーナがお頼みなさっても、ウルシャマ砂漠の精霊たちがあなたさま方を捜し出せなかった理由も、おそらくはそこにあったのでしょう。精霊たちの力が、総じて落ちてきているのです。

 カロルは穢れをはらうためには、洪水を引き起こすほどの豪雨を降らすべきだとおっしゃいました。しかし、ローダーナは、反対なさいました。そうなれば、畑も獣も人家も流されてしまう、と。あのお方は、常にハサーラの民のお味方であらせられますから」


 長く、辛い話を終えたあとだというのに、ルクンは安らいだ顔をしていた。ローダーナという女神は、彼にとって誇りであり、希望なのだ。


 ノエイルは胸苦しくなった。そんな偉大な女神とハサーラが、たった今も危機に瀕していて、その命運を自分が握っている。もし、自分が帰郷しなければ、ハサーラとローダーナは滅びてしまうだろう。そうなってしまえば、ルクンは永久に帰る場所を失うのだ。


「出発はいつですか……?」


 できるだけ早くしないと、とノエイルは続けようとしたのだが、ルクンはやんわりと答えた。


「あなたさまが早めにご承諾下さったので、余裕ができました。あと数日は、準備に費やせます」


「本当に?」


「はい。シャールーズ──ローダーナのラグ・ソンは──春までにカロルがお戻りなされば、何とかなるだろう、とおっしゃっておいでになりましたから」


「そう……」


 張りつめていた力が抜け、ノエイルはぼんやりとルクンの顔を眺めた。家族や氏族の人々と別れを惜しむ時間が残されていることに、ただ安堵した。


 しばらく黙っていたルクンが、深々と頭を下げた。


「ご決断いただき、まことにありがたく存じます。以後、わたしはあなたさま方を無事に聖湖へお送り致すために、【水の院】より供人ともびとを拝命した者として、身命を──」


「待って」


 ルクンの言葉をノエイルは遮った。何というか、彼に命を賭けるような誓いを立てて欲しくなかったのだ。彼は自分たちのために身をなげうって神官になり、ここまでやってきてくれたのだから。


 怪訝けげんそうに顔を上げたルクンに、ノエイルは言った。


「わたしは、あなたのことを、一方的に仕えてくれる供人だなんて、思いたくはないのです。あなたは、わたしたちを故郷に連れていって下さる方。だから、わたしたちを水神だと思われるのは構いませんが、慇懃いんぎんに接していただく必要もないと思っています。……リュヌドゥも、それでいいわよね?」


 ノエイルが振り向くと、リュヌドゥは考え込むようにこちらを見つめていたが、やがて、仕方がない、とでも言うように、一声鳴いた。


 ノエイルは苦笑した。昔からリュヌドゥは、ああいう気位の高さがあった。きっと、水神としての記憶が残っているからなのだろう。

 そこまで考えて、ノエイルは疑問を感じた。水神だと告げられてから、そのことばかりに気を取られて気づかなかったが、どうして自分だけ、過去の記憶が失われてしまったのだろう。


「あの、わたしは一体、いくつなのですか? 一応、四年前に、成人の儀をすませてはいるのですけれど──十一年前、わたしは、自分とリュヌドゥの名前しか覚えていなかったんです。記憶が失われた理由も、何ひとつ思い出せない……」


 そんなことを訊くのは、酷く情けない気がしたが、ルクンは真剣な表情で答えてくれた。


「あなたさまは、今年で十七になられるとお聞きしております。……記憶が失われた理由は、申し訳ございませんが、わたしにも分かりません」


 では、自分は、ほぼ外見通りの年齢なのか。記憶が失われた理由は謎のままだが、ひとつ疑問が解けて、ノエイルは安心した。けれど、気になることはまだ残っている。


「あの……」


「はい?」


「慇懃な態度をとらなくていい、と、わたしとリュヌドゥは、先程、申し上げたはずですが」


 ノエイルがじっとルクンを見つめると、ルクンは心底困ったような顔をする。やがて、観念したように彼は言った。


「──では、こう致しましょう。あなたさまも、わたしに対して敬語を使うのはおやめ下さい。そうして下されば、わたしも態度を改めます」


「分かったわ」


 ノエイルは少しためらったあとで、ルクンの前に屈み込んだ。草地につけられたルクンの片手を取り、立ち上がらせようとする。

 ルクンは目を丸くし、手を引っ込めようとしたが、それではノエイルの手を振り払ってしまうとでも思ったのか、素直に身を起こした。


「これで、わたしたちは対等ね」


 ノエイルはほほえむと、ルクンから手を放した。

 ルクンは一言も発しないまま、ただ目をみはっていたが、じょじょにその表情はほどけていった。すると、少しの構えもない、本当に優しい顔になる。


 ノエイルは何だか恥ずかしくなって、俯きがちにつけ加えた。


「あの、それと……」


「まだ、何か?」


「あなたは、わたしの兄弟姉妹だという人たちの名前は呼ぶのに、どうして、わたしとリュヌドゥの名前は呼ばないの?」


「ああ、それは……わたしたち神官は、許可を得ることなく、みだりに水神の御名をお呼びしてはいけないことになっているから──だ」


 急に言葉遣いがたどたどしくなったルクンの様子に、ノエイルは思わず吹き出しそうになった。


「……じゃあ、わたしたちの許可があればいいのね?」


「そう……だな」


「分かったわ。わたしのことは、ノエイルと呼んでね。リュヌドゥも、呼び捨てにされてもいいわよね?」


 ノエイルの呼びかけに、リュヌドゥは面倒そうに尾を振りつつ鳴いた。ノエイルは少し笑うと、ルクンに向き直る。


「わたしはあなたのことを、何て呼べばいいのかしら」


「……ルクンでいい」


 慣れぬ衣を無理矢理身につけさせられたかのような、居心地の悪そうな顔で、ルクンは答えた。その直後に、ノエイルの肩越しを見やって言う。


「そろそろ、放牧に戻ったほうがよさそうだ。スレイマンが待ちくたびれている」


 慌ててノエイルは振り返る。見ると、岩に腰かけたスレイマンが、睡魔と戦いながら山羊たちを見張っている。


 リュヌドゥの背に跨りながら、ノエイルはふと思った。

 何故、ルクンはあの夜に、ハサーラやローダーナの危機を話してくれなかったのだろう。

 猶予があるといっても、本来なら一刻も早く、たとえ強引な手を使ってでも、ノエイルたちを聖湖に連れていきたかったはずだ。それなのに、何故、その場で返事を急かさなかったのだろう。


(わたしを、追い詰めたくなかったから……?)


 本来なら、あの時に、いや、もしかしたらそれよりもずっと前に、考える暇もなく決断を迫られていても、おかしくなかったはずなのに。


「……ルクン」


「うん?」


「ありがとう」


 振り向かずに、ノエイルが呟くように言うと、ルクンの戸惑うような声が返ってきた。


「俺は、あなたに礼を言われるようなことは、何もしていない」


 ルクンの生真面目さに、ノエイルはそっとほほえんだ。


「じゃあ、そういうことにしておいて」


 ノエイルは走り出そうとした。


「ノエイル」


 はっきりと自分の名を呼ぶ声が、後ろから聞こえた。


「礼を言わなければならないのは、俺のほうだ。決断してくれて、ありがとう」


 その言葉は、ノエイルの心の深いところまで届いていき、ノエイルが走り出したあとも、温もりを保っていた。

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