第十四章 旅立ち

 森を出ると、朝の眩しい光が辺り一面に広がって、冷たい風が吹き抜けた。馬上の人々は、思い思いに目を細めたり、手でひさしを作ったりして、眩しさをやり過ごしている。


 先頭のジェラールが立ち止まり、振り返った。


「ノエイル、もう少し先までいこうか?」


「ううん、ここまででいいわ」


 ノエイルは首を振った。少し後ろで、馬上からバヤードの口綱を握っていたルクンも、歩みを止めた。

 今後、荷運びに徹するバヤードは、たくさんの荷物を背負っていた。その中には、旅に必要なものだけでなく、母からノエイルに贈られた餞別の数々も含まれている。


 今、ノエイルが着ている衣は、晴れやかな朱色を基調としていた。よその部族からマーウィルに嫁いでくる時に身につけていた花嫁衣装を、ノエイルの丈に合わせて、母が自ら直してくれたものだ。

 遠いマーウィルまで、母が無事に嫁いでこられたように、ノエイルにも何の煩いもなく帰郷して欲しい──そんな願いが込められた衣だ。


 母とは、天幕エッルの前で別れた。もし、ここまでついてきてもらっていたら、別れの辛さは、かえっていや増していただろう。「道中、ノエイルを頼みます」と深々とルクンに頭を垂れていた母の姿は、今もノエイルの瞼に残っている。


「皆、止まってくれ。ノエイルとは、ここで別れる」


 ジェラールがよく通る声で、あとからついてきた氏族の民に呼ばわった。ノエイルとルクンを見送るために、集まってくれた人たちだった。

 人々が次々に馬を止める。隣で馬を歩かせていたバーブル長老が、ノエイルに耳打ちした。


「ノエイル、皆に別れを言ってやってくれんかの」


「はい……」


 ノエイルはリュヌドゥに合図を送り、人々の前まで歩かせた。きてくれた一人一人と挨拶を交わす。やがて、スレイマンとルトフィーが、ノエイルの前に現れた。


「さようなら、ノエイルさま。お元気で」


 そう言ってくれたルトフィーの声は、ジェラールが怪我をする前よりも、ずっと力強かった。ノエイルは目頭を熱くさせながら応えた。


「ええ、あなたもね、ルトフィー。今までありがとう……これからも、母とジェラールを助けてあげて」


 ルトフィーはしっかりと頷いた。

 兄たちの挨拶が終わったのを見て、すかさずスレイマンが元気な声を上げる。


「ノエイルさま、また氏族に遊びにきて下さい! それまでに、兄さんがもらった羊、僕たちで大切に育てます。ルクンさんも、また縦笛メワを聴かせて下さいね!」


 少し離れたところから、ルクンが笑顔で頷くのが見えた。その姿は、ノエイルのうちに雲のように垂れこめていた不安に、一条の光を投げかけた。


 そうだ。先のことは分からないが、何年先になってもいい、必ずここに戻ってこよう。ノエイルは、密かにそう決意した。


 ノエイルが見送りの人々との挨拶を終えると、バーブルが旅立つ者の幸先を祈る祝詞を唱えてくれた。祝詞を結んだあと、バーブルは小声で言った。


「まあ、わしが祈るまでもないことじゃが。……ノエイル、お前さんは、尊き水神の子。自分の運命を信じなさい。たとえ、どのようなことがあろうともな」


 その言葉は、まだ自分を水神だと信じ切れていないノエイルの胸の奥にも、深く響いた。今まで、何くれとなく相談に乗ってくれた長老に、ノエイルは心からの感謝を込めて答える。


「はい、バーブル長老。長い間、本当にありがとうございました」


 深く頭を下げ、別れを惜しみながら馬首を前に向けると、ジェラールと目が合った。


「ジェラール……」


 兄の名を口にしたとたん、喉がつかえたように動かなくなり、ノエイルはそれ以上、言葉を続けることができなかった。ジェラールは一瞬だけ、辛そうに眉を寄せたが、小さく笑った。


「ノエイル、気をつけてな。……今まで、ありがとう」


 今まで、自分を慈しんでくれたのが養父母なら、守ってくれたのはジェラールだった。


「……兄上」


 思わずノエイルがそう呼びかけると、ジェラールは少し寂しそうにほほえんだ。

 ジェラールはルクンのほうに顔を向け、生真面目に頭を下げる。


「ルクン、妹を頼む」


「確かに承った」


 ルクンもまた、律儀に礼を返した。

 ジェラールは名残惜しそうにしていたが、やがて心を決めたように告げた。


「それじゃあ、ノエイル、ルクン。どこにいても、お前たちの無事を、いつも祈っている──また会おう」


「うん──必ず」


 溢れそうになる涙を堪えながら、ノエイルは言った。後ろ髪を引かれないよう、押し殺した声で、リュヌドゥに「いって」と声をかける。

 足早に歩き出したリュヌドゥとノエイルのあとを、ツァク・ラックに乗ったルクンが、バヤードを引きながらついてくる。他についてくる者は誰もいない。


(ああ、わたしは本当に氏族から離れていくんだ──)


 不意に、そんな思いが込み上げてきて、ノエイルの胸を揺さぶった。

 リュヌドゥに揺られながら、ノエイルは北東の山並みを見つめた。そこにはミル・シャーンの夏営地があり、初夏には膝丈まで、草が青々と茂るのだ。

 高い空の下、あの草原をリュヌドゥやジェラールとともに駆け回った夏の日が、繰り返し、ノエイルの瞼に浮かんでは消えた。


 ふと、嫁いでいった幼なじみたちも、似たような気持ちを味わったのだろうか、という考えが、頭を掠めた。旅立つ娘たちへのはなむけに、その母や祖母たちが歌っていた古い歌が、泉が湧き出るように、ノエイルの唇を通して流れ出た。


 冬の日に 嫁ぐ娘の悲しさよ

 されど 嘆くにはあたわず

 白雪が牧地を覆い尽くそうとも

 ふるさとを懐かしむ心尽きずとも

 春がきたれば 自ずと雪は解けゆかん……


 ノエイルは山並みから目を逸らすと、もう後ろは振り返らずに、朱の衣の裾を翻し、駆けていった。

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