第二十七章 赤い幻影と白馬
ノエイルとルクンは、その日のうちに、ヌフとジャハーンの先導で泉へと向かった。
最初、数日に渡る放浪生活で痩せてしまったバヤードを、ルクンは洞窟の留守番にしようとした。だが、当のバヤードは置いていかれることに、烈しく抵抗した。またルクンと別れるのかと思うと、寂しくて仕方なかったのだろう。
ルクンはバヤードに新しい口綱をつけ直し、ツァク・ラックの上から引いていくことにした。
こうして、五人と六頭の短い旅が始まった。
道中、ノエイルはセレンとずっと話し込んだ。別れてから再会するまでのことや、ミル・シャーンでの思い出話など、話したいことは語り尽くせぬほどにあった。
ふと、セレンがルクンの後ろ姿を見やり、声をひそめた。
「ノエイル、あの人のこと、好きなの?」
「な……」
何を言っているの、とノエイルは言おうとしたが、舌がもつれて、言葉が出てこない。赤面していると、セレンは感慨深そうに笑った。
「そうかあ、ついにノエイルにもそういう人ができたのね。実はね、ルクン殿に会う前は、ちょっとだけ不安だったのよ。でも、あの人なら大丈夫ね」
「そんなんじゃないの。わたしが勝手に好きなっただけで……」
それに、わたしは背中がこんなだから、という言葉が頭に浮かんだ瞬間、ノエイルは思い出した。ルクンがノエイルの背中を見たあとで、何と言ったのかを。同時に、昨日の出来事が頭をよぎり、ノエイルはどうしたらよいのか分からなくなる。
(……やだ。今はそんなことを考えている場合じゃないのに……)
困り果てたノエイルの耳に、ジャハーンの声が届いた。
「セレン、ノエイル、もうすぐ泉に着くぞ。そろそろ、おしゃべりは控えてくれよ」
ノエイルとセレンは、いたずらっぽく目を見合わせて口を
目の前には、ミル・シャーンが冬営地にしているような針葉樹の深い森が広がっていた。
「泉は、この森の中だ」
ヌフはそう告げ、一度だけ振り返ると、森の中に入っていく。ノエイルたちも、彼に続いた。樹々の間を何度か曲がると、やがて人一人が入れるほどの泉が、姿を現した。
「あれが、その泉だ」
泉との距離を充分に取って、ヌフたちは立ち止まる。
「分かりました。……それでは」
身体中に緊張を
「ノエイル、俺もいこう」
「ありがとう」
ノエイルは口元をほころばせた。ルクンが一緒にきてくれるのなら心強い。ノエイルたちは、泉のほとりに立った。透き通った泉は、水面に木漏れ日を反射させている。
その底知れぬ深さに目を凝らしていると、枯れ草を踏み荒らす馬蹄の音が響いた。
天を
それは、大きな白馬だった。リュヌドゥはマーウィルの標準的な牡馬より大きな体躯をしているが、今、ノエイルの前にいる白馬は、さらに一回り大きい。白い
その光輝く姿とは裏腹に、白馬からは妙な気配が立ち込めていた。野生の馬や家畜とも違う、リュヌドゥとも違う、瘴気に似た気配。
ノエイルは呆然と白馬を見つめた。白馬もノエイルを見つめ返した。
その青みがかった黒い瞳と目が合った瞬間、ノエイルの視界は赤と白の斑に染まった。目の前が、赤から黒へと移り変わっていく。
視界が完全に闇に包まれた時、ノエイルの意識は消えた。
***
「ノ……ル……ノエイル……大丈夫か?」
瞼を開けると、ルクンが切羽詰まった表情で、こちらを見つめていた。口を開きかけたノエイルは、意識が鮮明になるにつれて、ルクンの腕に抱き止められていることを知った。
大丈夫、と答える前に、先ほど味わった恐怖が、小刻みな震えとなってノエイルを襲った。
安堵に導くような声で、ルクンが言った。
「ノエイル、大丈夫だ。あの白馬は、もういってしまったよ」
ノエイルは頷いた。あの白馬の何が恐ろしかったのか、どうして意識を失ったのかは、まるで見当がつかなかったが、原因はあの馬以外にない、ということは
「──あの白馬は、何だったのかしら──」
ノエイルが呟くと、ルクンはためらいがちに口を開いた。
「あの馬は……ラグ・ソンだと思う。だが、俺が今まで会ったことのあるラグ・ソンとは、何かが違っていた。上手く説明できないが──気そのものが、違っていたんだ」
「あの馬は、やはり魔物なのか?」
すぐ傍に立っていたヌフが口を挟んだ。ルクンは首を横に振りかけて、やめた。
「魔物ではありませんが……魔物になりかけている──そういう気です」
ヌフは何か言いたげな顔になったが、「そうか」と言って、小さく頷いた。
ノエイルが視線を傾けると、泉が静かな光を湛え、横たわっていた。
***
ノエイルが旅立てるまでに回復し、ルクンたちと洞窟を発つことになったその日、ジャハーンとセレンが見送りに現れた。
それだけでもノエイルは嬉しかったのだが、ジャハーンたちは、自らタイナスまでの安全な道筋を案内してくれると言う。もちろん、ノエイルもルクンも、彼らの好意を喜んで受けることにした。
ジャハーンはこう言った。
「ノエイル、伯父からの伝言だ。『故郷の湖で、マンスールの死因について情報を得たら、あとで知らせて欲しい。その時は、謝罪の意味も込めて、あなた方を丁重にもてなそう』。本当は、伯父自ら伝えたかったんだろうが……」
「そのお言葉だけで充分です、と氏族長にお伝えして」
ノエイルは柔らかな笑顔で応えた。厳格で、いかにも不器用そうなヌフの真心を、確かに受け取ったような気がした。
タイナスへと向かう道すがら、ノエイルはアンディーンの泉がある、あの森を遠くに見つけた。
足が竦んだ。リュヌドゥが振り向きながら、ブルル、と鳴いた。リュヌドゥの青い瞳にも、怯えの色がある。あの白馬を恐れているのは、彼も同じなのだ。それでもリュヌドゥは、前へと進み続けた。
「白銀の馬 再び天に帰り 人人は悲しき歌 常しへに語り伝えぬ……」
不意に、泉の森を眺めていたジャハーンが、「白銀の馬」の最終節を口ずさんだ。皆の視線が彼に集中する。ジャハーンは決まり悪そうに、「マンスールが好きな歌だったんだ」とだけ答えた。夭折した従兄への追悼だったのだろう。
辺りが黄色く染まり始めた頃、ノエイルたちはタイナスの城門を見渡せる場所まで辿り着いた。
セレンたちとの別れが近づいていることを悟り、ノエイルは隣を歩くルクンと目を合わせた。構わないだろう、と言うように、ルクンが頷いて見せたので、ノエイルはリュヌドゥの足を止めた。
「……セレン、ジャハーン。もうここまでくれば大丈夫よ。あとは、わたしたちでいくわ」
振り返ったジャハーンとセレンは、互いに顔を見合わせる。セレンは何か言いかけたが、口を閉ざすと、ノエイルに馬を寄せた。
「気をつけてね、ノエイル。あなたに天と地と森羅万象のご加護がありますように……」
セレンにぎゅっと抱きしめられて、ノエイルの目尻に涙が浮かんだ。
「……セレンこそ、元気な赤ちゃんを産んでね。いつまでも、ジャハーンと仲良くね」
「ノエイルも、ルクン殿を逃がしちゃダメよ」
思わぬ不意打ちに、ノエイルが抗議しようと顔を上げると、セレンはくすくす笑いながら、ジャハーンの元へ逃げていく。笑いを噛み殺しながら、ジャハーンがノエイルたちに向き直った。
「じゃあな、ノエイル、ルクン。必ずまた会おうな」
「二人の赤ちゃんも産まれているはずだしね」
セレンへの意趣返しにノエイルがからかうと、珍しくジャハーンが赤くなった。ふっとほほえみながら、ルクンが言う。
「ジャハーン、セレン殿、世話になった。あなた方に水神のご加護があらんことを」
ジャハーンとセレンは、笑顔に少しばかりの寂しさを滲ませ、元きた道を戻っていった。二人の姿がだんだんと小さくなり、夕闇に浮かぶ黒い影となった頃、ノエイルたちはようやく、タイナスの城門に向けて馬首を巡らせた。
「ノエイル、少し急ごう。陽が沈めば、城門が閉ざされる」
ルクンに声をかけられ、ノエイルはリュヌドゥの足を早めた。言われてみれば、城門へと続く街道には、大勢の人々が羊のように群れをなしている。皆、城門が閉まらないうちに街に入ろうと、急いでいるのだろう。
石畳の敷かれた立派な街道に入り、一群に加わると、ほとんど氏族の中だけで育ったノエイルは、改めてその人の多さに驚いた。ミル・シャーンの氏族民の倍はいるだろう。一体、街の中にはどのくらいの人数がいるのか、考えるだけで気が遠くなった。
時折、ノエイルたちの前に割り込もうとする腹立たしい者もいたが、そのたびに、ルクンが相手を牽制してくれた。
ノエイルは少しずつ近づいてくるタイナスの城壁を見上げた。石を積み上げて造られた城壁は、リュヌドゥでも飛び越えられないほどに高くそびえ立っている。見る者を圧倒するような威容だ。
ノエイルたちは、城門のすぐ近くまできていた。水を湛えた壕の上に架けられた石橋を渡ろうとしたその時、開け放たれていた城門が、重い音を立てて内側から閉ざされ始めた。
ノエイルたちは急いだが、荷を背負ったバヤードを連れている以上、速度にも限界がある。ノエイルたちの目と鼻の先で、城門は閉じられてしまった。
ノエイルはとっさに、城内に声をかけようとしたが、ルクンが首を振って押し止めた。後列の旅人たちも、愚痴をこぼしながらも、仕方がない、という風情で野宿の用意を始めている。
「俺たちも、ここで野営をするしかなさそうだな」
「……そうみたいね」
街の宿を少し楽しみにしていたノエイルは、内心で落胆したが、ルクンは落ち着いている。
「意外ね」
ノエイルが言うと、ルクンはきょとんとした。
「何がだ?」
「ルクンは、宿に泊まりたいのかと思っていたから。残念じゃないのかな、って」
「……ああ、そういうことか。この時間にいい宿を探すのは、大変なんだ。安宿にあなたを泊めるわけにはいかないし、いい宿だと、部屋が空いていないことも多い。特に、二部屋取る場合はな。だから、いつも通り天幕に泊まるほうがいいかもしれない。外に気をつけなければならないのは、ここでも荒野でも同じだ」
「そういうものなの」
実感が湧かないままでいるノエイルにひとつ頷いて見せると、ルクンは野営するための場所を探し始めた。
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