第二十八章 昔語り
ノエイルたちは天幕を城壁に沿って張った。
気づくと、ノエイルはどこかで見たような覚えのある、湖の真ん中に立っていた。足下の感触は確かに水なのに、その上に立っている不思議さにも、ノエイルは特に何も感じず、ぼうっと
ふと視線を落とすと、水面に黒い影が映った。その影が翻った瞬間、水が赤く染まり始める。
「何……」
おののいたあとで背中に違和感を覚える。ノエイルは背に手を伸ばした。右手で左の異物に触れてみて、ぞっとする。
異物が、以前よりも膨らんでいるような気がしたのだ。
気のせいかと思い直し、もう一度触ってみると、異物はさらに大きくなっていた。それどころか、どんどん尖っていく。
ノエイルは慌てて左手を伸ばし、右の異物に触れた。右も、左と全く同じだった。
「嫌……」
ノエイルの呟きと重なるように、メキ……メキと怖気を震うような音が、背中から発せられた。音は次第に大きくなっていき、身体が揺れるほどの振動が伝わってきた。
異物が、大樹の枝のように広がっていく。
見なくとも、ノエイルには、何故かそのことが分かった。
自分の身体が変わってしまう。その恐ろしさから逃れるために、ノエイルは絶叫した。
***
「うるさい!」という聞き覚えのない怒鳴り声が聞こえた。その声はノエイルをますます混乱させる。涙がこぼれ、頬を伝っていく。
「ノエイル!」
ルクンの声がした。間仕切りを跳ねのけるようにして、ノエイルの傍に座り込む。
「大丈夫か……? 嫌な夢でも見たのか?」
酷く心配そうなルクンの顔を見て、ノエイルはようやく悟った。
(そうか、わたしは夢を見ていたんだ……)
「──大丈夫……ごめんね」
掠れ声でノエイルが答えると、ルクンは安心したような、困惑したような顔で頷いた。
「いや……気にするな」
しばらくすると、ルクンは立ち上がりかけた。
「待って」
ノエイルはとっさに声をかけていた。眠るのが恐ろしかった。眠れば、また恐ろしい夢を見てしまうかもしれない。誰かに、傍にいて欲しかった。まるで、小さな子供に戻ってしまったかのように。
再び腰を下ろしたルクンに、ノエイルは弱々しくほほえみかけた。
「何か、話をして」
「話……?」
「前に聞かせてくれた、ハサーラの昔語りでいいの。とにかく、何か話を聞かせて」
「……分かった」
以前聞いた話だからだろうか。『水の女神と聖ハミードの話』を聞いているうちに、ノエイルの瞼は次第に重くなってきた。
うとうとしていたノエイルが目を開けると、ルクンはまだ傍にいてくれていた。彼もまた眠そうに頭を傾けていたが、ノエイルと目が合うと、気まずそうに笑った。
「……もうひとつ、話をしようか」
「ええ」
「俺が子供の頃の話だ。母は俺が七つの時に亡くなった。俺は父と妹とともに暮らしていた。医師である父は、俺の自慢だった。いつか父のような医師になりたい──そう思っていたんだ。何故なら父は、治療代をろくに払えないような貧しい者でも、見捨てないような医師だったからだ」
「立派な人ね」
ノエイルが心から応えると、ルクンは暗い顔をした。
「どうかな……。もらうべき相手から費用を受け取らないということは、自分や家族を豊かにできないということだ。父は患者にとっては立派な医師だったかもしれないが、家族にとっては、そうではなかったのかもしれない。今ではそんな風に思うこともある。子供だった俺は、まだそのことに気づいていなかった。──いっそ気づかなければよかったんだがな……」
そう言ってルクンは苦笑した。胸が痛んだ。理由は分からない。ノエイルはルクンの話がまた始まるのを待った。
やがて、ルクンは話を再開した。
──ある日、父は隣の村に旅立つことになった。その村の村長の息子は長患いをしていて、村の医師ではお手上げだった。どうしても、よそから医師を招く必要があった。そこで、父が呼ばれることになったというわけだ。
例え近場ではあっても、砂漠の旅は危険が伴う。幼い子供を二人も残して父が旅出った理由のひとつは、村長が約束した礼金だった。父には、金が必要だったんだ。
俺だけでなく、父も俺が医師になることを望んでいた。医師の免状を得るためには、医術学院を卒業しなければならない。そのための学費が、俺たちには必要だった。
だが、村から帰る途中、父が同行していた隊商は盗賊団に襲われてしまった。生き残った者もいたが、父は、殺されてしまった。もちろん、礼金も奪われた。……俺は父の仇を恨んだ。
しかし、現実はそれどころではないほうへと転がり始めていた。父の葬儀のあと、俺と妹は祖母に引き取られたが、家財を売り払い、父の遺産を合わせても、医術学院に入るのは無理だった。父を奪われ、夢も絶たれ、俺は絶望した。
そこに救いの手が差し伸べられた。
ある夜、俺はローダーナと出会った。翌日には【水の院】の神官が家を訪れ、俺を水神に選ばれた子だと言ったんだ。祖母は俺を神官見習いにすることに反対した。【水の院】の掟は、とても厳しいものだったからだ。
けれど、俺は一も二もなく、【水の院】に入ることを決めた。神官見習いになれば、医術を学ぶことができると知っていたからだ。
俺が神官見習いになる代わりに、【水の院】の神官に持ちかけた条件はふたつ。ひとつ目は、家族に生活費を送金すること。ふたつ目は、父親の仇を捜し出し、自分が罰する機会をもらうこと。
俺は、その時十一だった。まだ十一だったが、もう、そこいらの大人には絶対に負けないという自負を持ってしまった。負ければ最後、全てを奪われると思っていたんだ。
その自負が挫かれたのは、十六の時だ。捜し求めていた盗賊団の首領が、ついに捕らえられ、目の前に引き出される日がやってきたんだ。
【水の院】では無意味な殺生は禁じられているが、死罪は許されている。俺は、首領を死罪にする権利を与えられた。俺にとって、待ちに待った瞬間のはずだった。
だが、俺は首領を前にして、酷く戸惑ってしまった。目の前の男は、やつれ果て、生気の失せた──怒りや憎しみよりも、哀れみを誘う姿をしていたからだ。
──この男が、本当に父さんを殺したんだろうか?
その疑いが合図だったのかもしれない。
俺は刀で男を殺そうとしたが、手が震え、切っ先が定まらない。
結局、俺は仇を殺せなかった。男の刑は別の者によって執行された。
俺は、今までの鍛錬で積み上げてきた自信も自負も、ことごとく失ってしまった。
ただ、抜け殻のような日々が続いた。ようやく復調してきた頃、武芸を教えてくれた師が言った。
──そなたは後悔しているかもしれぬが、わたしはあれでよかったと思っている。そなたが、本当は医師になりたかったことを、わたしはよく知っている。医を志す者が、人を死罪に処すことは、何か間違っているのではないか。……少なくとも、わたしはそう思った。
その言葉が、どれほど俺を救ったかしれない。
しかし、俺はのちに気づいた。人を殺したいと思ってしまった時点で、自分が医師を志す資格は、既に失われていたのではないか……。
「俺には、最初から医師になる資格などなかったのさ」
そう呟いたルクンの表情は、自嘲に溢れていた。
「すまない……変な話をして。余計、目が冴えてしまったかな」
ノエイルは頭を横にしたまま、首を振った。彼が──少年の日のルクンがいとおしかった。
「そんなことないわ。でも、わたし、こう思うの。あなたは、医師になるべきよ。今からでも」
「……何故?」
「あなたは人の命の重さについて、よく知っている。人を殺すことがどんなに恐ろしいことか、よく知っている。だから、人の命を救うことができると思うの」
「もう、無理だと思うが」
「そうかしら……」
ノエイルの目から、自然と涙がこぼれた。さっき泣きすぎて、涙もろくなっているのかもしれない。ただ、悲しかった。自分から未来を閉ざしてしまっている彼を見るのが、辛かった。彼の強さの正体が、「諦め」であることを、ノエイルは初めて知った。
「あなたは、よく分からない方だ」
不意にルクンが言った。
「強いように見えて弱い。弱いように見えて強い。こんなことを言うのは、不敬に当たるが……俺にも、俺自身が分からない。何故、こんな話をしてしまったのか。誰にも知られたくない話をしてしまったのか」
ノエイルが目を上げると、ルクンの顔が泣き出す寸前の子供のように歪んだ。
「──お願いだから、俺の心をこれ以上かき乱さないでくれ! 今の俺には、あなたが女神ではなく、人間の女に見えてしまう。
あなたは、俺にとって恩人だ。俺が医術を学ぶことができたのは、あなたのお陰だ。あなたが姿を消してくれたお陰だ。今、俺がここにいられるのも、あなたが俺を助けてくれたお陰だ──だが、もう、俺をそっとしておいてくれ。
今の俺は、ハサーラやローダーナのことを考えるだけで、精一杯なんだ。俺も【水の院】も、あなたが無事に聖湖に辿り着いてくれれば、何も望まない。だからせめて、俺をただの
押し殺した声で訴えるルクンを、ノエイルは呆然と見つめていた。ノエイルには、彼の言わんとしていることの意味が、半分も分からなかった。だが、これだけは分かった。自分は彼に近づきすぎるべきではなかったのだ。
ルクンを解放してあげたい。聖湖についたら、すぐにでも解放してあげたい。辛い役目から解放して、一介の神官に戻してあげたい。
「……分かったわ」
振り絞るように、ノエイルは答えた。
ルクンは何も答えなかった。ただ衣擦れと、間仕切りをはためかせる音がしただけだ。
全身から震えが込み上げてきて、ノエイルは顔を覆った。嗚咽を噛み殺しながら、ノエイルはいつまでも泣き続けた。
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