第三十一章 水晶宮

 水中に潜る時、カロルはこう告げた。


「肩胛骨に意識を集中して。そうすれば、自然と呼吸できるようになるよ」


「わたしに、そんなことができるのですか?」


 思わずノエイルが問うと、カロルは笑った。


「できるさ。お前は【湖の子】なのだから」


 その応答の間に、リーエンが湖の中に潜った。カロルも彼に続く。ノエイルは困惑したが、迷っていても仕方ないと覚悟を決めた。何より、ルクンに別れを告げた以上、後戻りはできない。


 泳ぎはそれほど得意ではなかったが、ノエイルは帽子を帯に挟んだあとで、湖の中に身体を、次いで頭を沈めた。カロルの言う通り、肩胛骨──つまり異物の辺りに意識を集中させる。そういえば、この異物の正体は何なのだろう。あとでカロルに訊けば、教えてもらえるのだろうか……。


(いけない)


 雑念を振り払うと、ノエイルは意識を肩胛骨に向け始めた。それは、ノエイルがフェルハトの娘になってから、初めて行うことだった。

 次第に、肩胛骨の辺りが、ほんのりと温かくなってくる。


〈そう、そのままゆっくりと口から息を吐いて〉


 頭の中に、カロルの声が響いた。

 水中でこぽり、と息を吐き出すごとに、呼吸を止めていた苦しさが、少しずつ消えていく。ノエイルはうっすらと瞼を開けた。水中で目を開いているというのに、刺激はほとんどない。戸惑いながらも視線を動かす。


 目の前にカロルがいた。彼女の長い黒髪が、水中でたなびいている。カロルはほほえむと、リーエンを呼び、その鞍に跨った。あたかも、陸の上で馬上の人になるように。


 肩をつつかれ、ノエイルは振り返る。肩越しに、リュヌドゥが浮いていた。まるで夢の中にいるようだ、とノエイルは思った。


〈これで安心だ。さあ、ノエイル、リュヌドゥ。水晶宮へ向かおう〉


 男の声が頭の中に響き、ノエイルは驚いた。カロルがくすくす笑いながら、リーエンのたてがみを撫でる。


〈さっきの声はリーエンだよ。ラグ・ソンは皆、心の声で会話するんだ。水の中では、わたしたちラグ・メルも心の声で喋る。心の声で話すには、口で話すようなつもりで、心の声を大きくすること。だけれど、水晶宮に入ったら、できるだけ心の声は小さくしたほうがいい。そうしないと、考えていることが筒抜けになってしまうからね〉


〈カロル、ノエイルを脅かすものじゃない。そんな不躾ぶしつけなことをする者はいないさ〉

 

 カロルをたしなめるリーエンの瞳は、とても優しかった。

 カロルとリーエンに先導されて、ノエイルとリュヌドゥは湖の底へと潜水していった。光差す青い水の中を、ノエイルの横でリュヌドゥがゆらゆらと泳いでいる。

 四肢で水を蹴りながら回遊するその姿はどこか不思議だったが、同時に、魚が泳いでいるような自然な優美さがあった。それに、リュヌドゥのほうが泳ぐ速度が速い。

 

 ノエイルが追いつこうとすると、リーエンに乗ったカロルが近づいてきた。カロルはひらりと下馬し、ノエイルの手を取った。カロルは空いているほうの手で、湖底を指さす。その先には、陽の光を受けてきらきらと輝く何かが見えた。あの光が水晶宮なのだろうか。


 カロルがリーエンに向けて、軽く頷いて見せた。すると、リーエンは流水に乗った魚のような速さで、湖底目指して駆け降りていく。リーエンに釣られたように、リュヌドゥもあとに続く。喜びを抑え切れない様子のリュヌドゥの後ろ姿を、ノエイルは唖然としながら見守った。


 故郷の記憶があるというのは、こういうことなのか。


 生家に焦がれ、一目散に駆けていけるリュヌドゥを、ノエイルは羨ましく思った。

 と、カロルが目配せしながらノエイルの手を引いた。自分たちも湖底に降りていくのだと分かり、ノエイルは彼女に従った。舞うように魚群が泳ぎ回る光景を眺めながら、ノエイルは湖の底へ底へと潜行していく。

 水草の揺れる湖底に近づくにつれ、水晶宮の輪郭がはっきりと姿を現した。


 タイナスで見た大きな建物とも違う、尖塔が何本も突き出た、背の高い城──その城全体が、水晶のように透明な輝きを、自ら発している。

 水晶宮に見とれていたノエイルの手が、強く引っ張られた。水底に着地するために、カロルが泳ぐ速度を上げたのだ。彼女についていくために、ノエイルは足と片腕を、力強く動かした。


 向こうから素早く泳いでくる魚たちとすれ違うたびに、ノエイルは、自分も彼らと同じひれのある生き物になってしまったかのような、奇妙な高揚感と安堵感に包まれた。それはまるで、風の吹き渡る夏営地の草原を、リュヌドゥの背に乗って駆け抜けている時のような感覚だった。


(やっぱり、ここがわたしの生まれ故郷なんだ……)


 それから、水草の生い茂る水底に降り立つまで、大した時間も労力もかからなかった。ノエイルの手を離したカロルがこちらを振り返り、ついてくるよう目配せをしてきた。


 カロルの足下には、空からの光の踊る緑の藻の絨毯が、まっすぐに伸びていた。その先にそびえ立っているのは、水晶宮の大きな扉だ。扉の前では、リュヌドゥとリーエンがたたずんでいた。

 リュヌドゥは早く水晶宮の中に入りたいらしく、そわそわと足踏みをしている。ゆっくりと藻の絨毯を音もなく飛び跳ねながら、ノエイルはカロルの後ろをついていった。


 扉の前に着地したカロルが、幾層もの複雑なきらめきを放つ、水晶の扉に触れた。その途端、分厚い扉が、内向きにゆっくりと開いていった。水はその中に入っていく気配すら見せない。


 扉が完全に開かれると、水晶宮の内側がはっきりと見えた。回廊に長い長い赤い絨毯が敷かれ、その先には、また水晶の扉があった。扉を囲む四方の壁も、床も天井も、全てが水晶でできている。


 カロルが水晶宮の中へ入っていったので、ノエイルも恐る恐る、あとに続いた。後ろから、リュヌドゥとリーエンがついてくる気配がする。


 扉が閉まる音がした。どうやら、必要な時に勝手に閉まる扉らしい。視線をカロルの背に戻したノエイルは、彼女の髪や衣が全く濡れていないことに気づいた。

 自分の衣を注意深く見ても、全く濡れそぼっていない。冬の衣を着たままで、ここまで泳いでこられたというだけでも驚きなのに、何ということだろう。


 振り返ると、リュヌドゥもリーエンも乾いた身体をしている。水晶宮に宿る力のせいなのか、ラグ・メルやラグ・ソンが持って生まれた力のせいなのか。


「ついておいで。兄弟姉妹たちと挨拶をさせてやりたいところだけど、あいにく、今はその時間もなさそうだ。まずは母上と父上に会いなさい」


 そう促し、歩き出したカロルに従って、ノエイルは水晶宮の回廊を進んでいった。次の扉が、カロルによって音もなく開かれると、青い光が射した。中に入るよう、カロルがこちらを振り向いたので、ノエイルは扉を潜った。


 そこは、まるで水中かと見まごうほどに青い大広間だった。四方の壁には、波打つような光が踊り、何とも言えず美しい。天井近くに、いくつもの青い球体が浮かび、それらが青い灯火で部屋全体を照らし出しているのだ。


「綺麗……」


 ノエイルが感嘆の声を上げると、リーエンの声が頭に届く。


〈ここは大広間だ。母上と父上のおわす部屋は、最も奥にある〉


 リーエンに伝わるよう、ノエイルは心の声を大きくした。


〈両親には、何とご挨拶すればよいのでしょう? リュヌドゥはともかく、わたしには記憶がありませんから……〉


〈何も説明する必要はない。母上は、目の前に現れた者の心のうちを、瞬時に理解なさることができる。記憶がないということを、負い目に感じる必要もない。今のお前をそのまま見せて差し上げればよい〉


 厳かに応えるリーエンに、ノエイルは頷いて見せた。

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