第三十二章 両親との再会
大広間の奥にある扉の先には、中庭を左右に臨む廊下があった。中庭では、ラグ・ソンたちが水草をはんだり、くつろいだりしている。
廊下を進み切った先に、円形の装飾が印象的な扉があった。ノエイルたちがその前で歩みを止めると、扉は自ずと左右に開かれていく。
大きな部屋の奥には紗幕が引かれ、その向こうに、長椅子に腰かけた女人の影が見えた。カロルが呼びかける。
「母上、父上、ノエイルとリュヌドゥをお連れしました」
「ええ、ありがとう、カロル、リーエン。さあ、ノエイル、リュヌドゥ、こちらにおいでなさい」
ノエイルとリュヌドゥは顔を見合わせ、おずおずと進み出る。カロルとリーエンは退出の意を伝え、部屋を辞した。
ノエイルとリュヌドゥは、紗幕の中に足を踏み入れた。
「ノエイル、リュヌドゥ。ずいぶん大きくなりましたね。あなたたちに会うのは、人間の時間でいうと、十七年ぶりかしら」
金の髪をした若い女人が長椅子から立ち上がり、ほほえんだ。お腹が大きく膨らんでいる。考えるよりも先に、ノエイルは歩き出していた。頭の奥が痺れたようになり、何も考えられない。喉が詰まり、言葉が出てこない。
ノエイルは、ゆっくりと女人の前に立った。湖面のように澄んだ青い瞳が、たおやかにノエイルを見つめている。自分とリュヌドゥは、この女人から産まれてきたのだ、と理性ではなく心の奥深いところでノエイルは感じた。
前へ進み出ると、母は柔らかな手でノエイルを抱きしめた。ノエイルの心は温かなもので満たされていった。生まれたばかりの頃、母に抱かれていた思い出。リュヌドゥとともに兄姉に育てられた思い出。
生まれてから六歳までの様々な優しい記憶が、ノエイルの内側で鮮やかに蘇り始めた。
これが母の力。瞬時に相手の記憶や思念を理解し、それを相手に送り返す力。
「大分思い出してきたようですね、ノエイル。ですが、辛い記憶は、まだ蓋を閉じたままにしておきましょう。必要な時に思い出せばいいだけのことですから」
そう言ってから、母はリュヌドゥに目を向けた。
「さあ、リュヌドゥもいらっしゃい」
ノエイルが母の前から一歩下がろうとすると、母はそれを押し止め、歩いてきたリュヌドゥの首を優しく抱きしめた。
〈母上……お久しぶりです〉
リュヌドゥの声が、ノエイルの頭に響いた。どこか懐かしい、少年の声。母の力で、リュヌドゥも自分の声を取り戻したのだ。
「二人とも、ずいぶん辛い思いをしてきたようですね。陸の者に近い姿をしているとはいえ、【湖の子】が陸の者として暮らすのは大変なこと。そして、あなたたちはアンディーンとオーレボーンを助けようとしている。それは、とても困難なことかもしれませんよ」
そう言って、母は長椅子の後ろに目を向けた。すると、白銀色の
長い白銀色の髪をした、見たこともないような美しい顔立ちの男だった。ゆったりとした衣は、白銀色の馬が着けていた鞍敷と同じ、暗褐色だった。歳は、三十前くらいだろうか。
「久しぶりだね、ノエイル、リュヌドゥ。わたしが誰だか、分かるかな?」
「──お父さま?」
「そう。君たちのお父さまだ」
父は長椅子を軽々と飛び越えると、ノエイルの両肩に手を置いた。どうしたらいいのか分からずに固まっているノエイルを、父はまじまじと見つめた。
「人間の匂いに染まり切ってしまっているようで、ノエイルはわたし似だなあ。十七年も放っておいてすまなかったね。もう思い出しているかもしれないが、妻はおおよそ十七年周期で子を産む。この水晶宮で過ごすのは、お腹に子を宿している一年間だけ。わたしなど、あとはひたすら、王として水馬どもを束ねなくてはならないんだ。妻はのんびりとできるというのに──」
「ドゥハルセ、長話はそのくらいにしておあげなさい。あなたも察しはついているでしょう。この子たちは、今とても困っているし、急いでいるの。オーレボーンについて、話してあげて下さい」
「……分かった」
母にたしなめられ、父は長椅子に座った。ノエイルも席を勧められ、両親の間に座った。リュヌドゥは立ったまま話を聞いている。
「オーレボーンは、アンディーンのラグ・ソンだ。彼は今、人喰い馬になりかかっている。──陸に上がったラグ・メルとラグ・ソンには、禁忌がふたつある。人間を食べることと、馬を食べること。他の肉を食べるのも、あまり良いことではない。肉の味を覚えてしまうからな。ノエイル、君も肉を食べるのは嫌だっただろう?」
「はい」
「それが、【湖の子】の本能だ。一度、人間や馬の血肉を口にすると、ラグ・ソンは狂い始める。ラグ・メルも肉なしでは生きていけなくなる。そうして人喰いや馬喰いになった者は、故郷から追放される」
「片方だけおかしくなった場合は、どうなるのです?」
「引き裂かれることになる。ラグ・ソンに守られなくなったラグ・メルは哀れだ。次第に力を失い、人間の女のように歳を取るようになる。ラグ・メルを失ったラグ・ソンは、永遠に孤独の道を歩むことになる……。配下の水馬たちによれば、オーレボーンは人間を噛み殺してしまったらしい」
ノエイルの背筋を怖気が走った。その人間とは、マンスールのことだろうか。
「その人間は、どうやらアンディーンにとっては思い入れの強い者だったらしい。泉の中で眠りについたアンディーンは、オーレボーンをはじめとした全てのものを拒絶している。オーレボーンは人喰い馬になりつつある自分自身と戦いながら、アンディーンが害されないように見守り続けている」
〈二人を救う方法はないのですか?〉
リュヌドゥの問いに、父はため息をついた。
「それが分かれば、苦労しないよ。我々だって、全てを知り得るわけではない。他の子供たちが、今まで彼らのために何もしなかったと思うか? 君たちのことも、皆必死に捜そうとしたのだよ」
「それなら、何故……」
ルクンが人身御供のように差し出されなければならなかったのか。ノエイルの内側を強烈な怒りが焼いた。何故、自分たちを、もっと早くに迎えにきてくれなかったのか。この十一年間、楽しい思い出もある。幸せな思い出もある。それでも、ノエイルには納得できなかった。
母がノエイルの手を握りながら言った。
「あなたが心の底に封じ込めている記憶が、わたしには見えます。あなたは、本当はここに帰りたくなかったのね。だから、あなたを捜しに遣わされた精霊たちも、あなたたちの正体に気づいた精霊たちも──ああ、どうやら、そういう人間もいたようね。バーブルという人──皆、あなたたちを湖に帰したくなかったのよ。帰って記憶が戻れば、あなたが辛い思いをするかもしれないと思ったのね」
それは、かつてルクンから聞いた、ノエイルたちが見つからなかった理由とは、大分違っていた。バーブル長老も、精霊たちも、ノエイルたちの素性を分かっていたのだ。
「あなたは、知らず知らずのうちに守られていたの。それだけは分かっておあげなさい。だって、あなたたちは人間に守られてここまで辿り着いたのでしょう? 恨みたいのなら、わたしとお父さまを恨んで……今まで味わってきたわだかまりは、忘れてしまいなさい」
ノエイルは泣いた。忘れることなんてできない、という思いと、忘れてしまいたい、何もかも洗い流してしまいたい、という思いがせめぎあい、涙が次から次へと溢れてきた。その間、母は背をさすってくれていた。
ノエイルの涙が落ち着いてくると、目の前に手巾が差し出された。顔を上げると、少しばつが悪そうな、しかし真摯な顔をした父が手巾を持っていた。
「ノエイル、さっきはあんなことを言ってしまったが、どうしてもアンディーンを目覚めさせたいのなら、彼女の傍にいき、気のすむまで呼びかけ続けることだ。多分、カロルが力になってくれるだろう。あの子はそういう子だ。口は悪いが、面倒見はいい」
ノエイルは頷くと、手巾を受け取った。涙を拭き終えたところで、母が憂いを込めた表情で言った。
「ノエイル、あなたはアンディーンにとても懐いていたの。アンディーンもあなたを可愛がっていたわ。それは、あなたの思い出が証明しています。アンディーンもあなたの呼びかけになら、応えてくれるかもしれません。
ですが、真剣に呼びかけ続けるというのは、決して楽ではないでしょう。それに、呼びかけている最中に、あなたが自分自身で封じ込めていた記憶が戻ってくる可能性もあります。それでも、いきますか?」
ノエイルは唾を飲んだ。自分は不可能なことをしようとしているのかもしれない。だが、答えはもう決まっていた。
「いきます。それしか方法がないのなら」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます