第三十三章 もうひとつの姿

 部屋を出たノエイルとリュヌドゥは、広間でカロルに会った。どうやら、カロルはノエイルが現れるのを待っていてくれたらしい。泣き腫らしたノエイルの顔に気づいたのか、カロルは気遣うように尋ねる。


「……心は決まった?」


「はい。お父さまは、カロルお姉さまが力を貸してくれるはずだ、と。お姉さま、是非お力をお貸し下さい」


 ノエイルが改まって頭を下げようとすると、カロルは手で制した。


「おやめ。わたしは元から、お前に協力するつもりなのだから。お母さまたちは、どうすればアンディーンが目覚めるとおっしゃっていたの?」


「アンディーンお姉さまが眠る泉の傍で、呼びかけ続けろ、と」


「そう……もう、それくらいしか方法がないんだね……」


 ひとつ息をつくと、カロルは瞳に決意を宿しながら言った。


「仕方ない。ノエイル、アンディーンの元へは、わたしが運んであげよう。リュヌドゥが運ぶよりも、そのほうが速い。いいね? リュヌドゥ」


〈……確かに、姉上のおっしゃる通りです。ですが、僕があとから追っていくことはお許しいただけますか〉


「もちろん、それは構わないさ。ただ、ちゃんと準備はしておいで。まずは、馬具を着けてもらうこと。……さて、ノエイル、とにかく水晶宮の外に出よう。もうそろそろ、リーエンが必要なものを揃え終わる頃だ」


 ノエイルは目を瞬いた。


「運ぶ……? お姉さまが、どうやってわたしを運ぶのですか?」


「ああ、そこまでは思い出していないんだね。すぐに分かるよ」


 そう言って、カロルは少し笑った。

 水晶宮入り口の扉付近まで進むと、リーエンが待っていた。よく見ると、綺麗な刺繍の入った袋を、鞍につけている。こちらに気づくと、リーエンは頭を動かした。


〈やはりいくのか。準備した甲斐があったというものだ〉


「そうだよ。一度決めたことはやり通そうとする。昔からこの子たちは、そうだったからね」


〈それはあなたも同じだ。わたしが忠告したにもかかわらず、あなたはローダーナと喧嘩をし、砂漠を去った〉


 カロルは細い眉をつり上げる。


「いちいちうるさいね。過ぎたことを」


〈本当はそう思っていないはずだ。今、ローダーナが苦しんでいるのは誰のせいか、あなたは誰よりも分かっているはずだ。だから、あなたはノエイルを助けることにした。そうだろう?〉


 カロルは黙ったまま、リーエンの鞍から袋を手に取った。


「──リーエン、リュヌドゥに馬具を着けてやっておくれ」


 リーエンが頷く仕草をしたあとで、カロルはノエイルを促す。


「ノエイル、ついておいで」


 ノエイルたちが入ってきた時と同じように、水晶宮の扉は独りでに開け放たれた。リュヌドゥがノエイルのすぐ傍まで歩み寄る。


〈ノエイル、気をつけて。僕も必ずあとからいくよ〉


「うん。ありがとう、リュヌドゥ。……わたし、アンディーンお姉さまを目覚めさせられるかどうかは自信がないけれど……できるだけのことはするから」


〈それでいいと思うよ。あいつが──ルクンが聞いたらどう思うのかは知らないけど、少しずつでも雨は降らすことはできるはずだ。それにね、ノエイル。無理に記憶を思い出すことはないよ。あの記憶にノエイルがどれだけ苦しめられたか、僕はよく知ってる。だからノエイル、これだけは覚えておいて。君が一番大切にしなきゃらならないのは、今の君自身だ〉


「ありがとう」


 ノエイルは小声で呟くと、リュヌドゥのたてがみをそっと撫でた。それから、リーエンのほうに向き直る。


「お兄さまも、協力していただいて、ありがとうございました」


〈いいんだ、気をつけていってきなさい。ノエイル〉


 リーエンの目が、優しく笑った気がした。ノエイルは兄に向けて軽く目礼すると、カロルについて扉の外に出ていった。扉が音もなく閉まる。

 ノエイルたちは再び、水草の絨毯の上に立った。今度は湖に入ったばかりの時とは違い、意識せずとも水中で呼吸ができる。


「あの……何故、肩胛骨に意識を集中すると呼吸ができるのですか? 肩胛骨についているもの……あれは何なのですか?」


 ノエイルが勇気を出して尋ねると、カロルはにやりと笑って見せた。


「それは、これから分かるよ。ノエイル、この袋を帯から下げておいておくれ。それと、わたしから少し離れて」


 ノエイルは言われた通りにした。

 突然、カロルの背が強い光を発する。一瞬、カロルの身体が弓なりに曲がったように、ノエイルには見えた。水底で感じた眩しさに、堪えきれずノエイルは目を瞑る。


 光が消え去ったように感じ、ノエイルは目を開けた。そこには、カロルの姿はなかった。


 ただ、一頭の素晴らしい牝馬がいるだけだ。鬣が黒い鹿毛の馬。背には翼が生えている。

 毛色こそ違えど、「白銀の馬」のようだ、とノエイルは思った。伝承にしか登場しない天翔ける馬が、どうして湖の底にいるのだろう。

 

馬の翼は、鳥のように柔らかなものではなく、硬質で、真珠のように淡い輝きを放っている。その形は、鳥の翼の輪郭に似てはいたが、どちらかというと、甲羅を連想させた。


 具合を確かめるように、馬は翼を折り畳む。畳まれた翼は、開いた二枚貝にそっくりだった。

 ノエイルの脳裏に、かつて泉に映し出した、自分の背中が蘇る。ノエイルは呼びかけた。


〈──カロルお姉さま?〉


〈おや、ようやく気づいてくれたかい。そう、これがわたしたちラグ・メルの、もうひとつの姿さ〉


 考えてみれば、当たり前のことだった。水馬の王を父に、ラグ・ソンを兄弟に持つラグ・メルが馬の姿に化生できても、何の不思議もない。


〈お父さまは人の姿になることができますけど、ラグ・ソンも人の姿になれるのですか?〉


〈歳を取って、化生の訓練を積んだラグ・ソンはね。リーエンも化生しようと思えばできるけど、まずしようとはしないね。馬の姿のほうが気楽らしいよ〉


〈ラグ・メルも同じようなものですか?〉


〈陸に遣わされたラグ・メルは、自然と化生できるようになるものなんだよ。お前も陸で過ごした期間が長いから、きっとできるようになるよ。飛行の仕方は、少し練習がいるけどね〉


〈何故、ラグ・メルにだけ翼があるのですか?〉


 ノエイルがさらに問いかけると、カロルは再び翼を広げた。


〈それは、いずれ分かるよ。そろそろ湖の上に上がろう。ノエイル、鞍の上に乗って〉


 確かに、少し質問しすぎたかもしれない。自分たちのもうひとつの姿を見せられて、気分が高まったのだろうか。自分も同じように化生できるとは、とても信じられなかったが、こんなに美しい姿になれるのなら悪くない、くらいには思えた。


 飛行の邪魔になるからか、カロルの水色の鞍からはあぶみが下がっていない。水草の絨毯からふわりと浮き上がり、ノエイルは鞍の上に飛び乗った。

 鞍は翼の後ろにあるが、翼を広げると跨ることはできない。ノエイルは本能的に膝を折って、鞍の上に座り直した。しかも、カロルはくつわも手綱もつけていない。振り落とされないよう、飛行中は細心の注意を払わなければならないだろう。


 カロルによると、この馬具は、ラグ・メルの魔法の衣が変化したものなのだという。

 カロルがこちらを振り向く。


〈準備はいいかい? 水上に出る時は、呼吸を切り替えるのを忘れずにね〉


〈はい〉


 ノエイルが応えるや否や、カロルは前足を高く上げ、水を掻き始めた。翼をゆっくりと羽ばたかせながら、湖面へと向かっていく。翼を使って加速しているせいか、泳ぐ速度もリュヌドゥやリーエンより速い。回遊する魚たちをすり抜け、光の射すほうへと上っていく。ノエイルはしっかりとカロルの首に捕まった。


 光が一段と強くなったので、ノエイルは瞼を閉じた。頭の天辺が空気に触れる。ノエイルは肺で呼吸する方法を思い出そうと努めた。途端に、息が苦しくなる。顔が完全に水から出、ノエイルは軽く咳込んだ。


 身体が重くなる。目を開け、周囲を見回したノエイルは息を呑んだ。カロルが湖の真上に浮いている。水晶宮に入ってきた時と同じように、自分たちの身体には水滴ひと粒ついていない。

 辺りを軽く旋回しながら、カロルが声をかけてきた。


〈上手く呼吸を切り替えられたようだね。次は空だ。上に上っていくにつれて息が苦しくなっていくと思うけど、お前が耐えられる高度でぶようにするからね〉


 空、と聞いて、ノエイルは身体を硬くし、空気を吐き出しながら頷く。


「……分かりました」


〈そう緊張する必要はないよ。まあ、できるだけ下は見ないほうがいいかもしれないね。気絶されても困るし〉


 絶対に下は見るまいと、ノエイルは心に決めた。


〈さあ、首に捕まって。くれぐれも、手を放すんじゃないよ〉


「はい!」


 叫ぶように応えると、ノエイルはカロルの首に回す腕に、力を込めた。

 カロルが羽ばたく。次の瞬間、ノエイルはカロルとともに飛翔していた。ノエイルは思わず下を見そうになり、慌てて前方に目を向ける。高度は、大樹の枝と同じくらいの高さにまで達していた。カロルはさらに高度を上げていき、大樹を見下ろせるくらいの高さまで翔んだ。北西から、一陣の風が吹きつける。


〈おや、いい風だね。いいかい? これから速度を上げるよ。身体は伏せていたほうがいい〉


「はい」


 言われた通り、ノエイルはカロルの首にしがみつくようにして伏せた。翼を羽ばたかせ、カロルは風に乗った。ほとんど翼を動かさず、身体の向きを少しずつ変えるだけで前へ前へと進む。まるで、空を駆けているようだとノエイルは思った。

 恐怖はさほど感じない。ただ身体の奥から湧き上がってくるような高揚を覚えていた。高所で風を受けることで、真冬の身を切るような寒さが増しているはずなのに、不思議とそれが心地よい。


 カロルが速度を緩めた。大きく旋回しながら、見覚えのある森の中へと降下していく。

 カロルが舞い降りた小さな空き地には、小さな泉があった。アンディーンがその中で眠りについているという泉が。

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