第二十二章 夜光蝶

 仰向けになったノエイルは、自分が予備の衣に着替えさせられていることに気づき、また赤面した。母から譲り受けた衣は、矢を受けて穴も空いただろうし、血もついているだろう。染みを抜いて、繕って、また着られるようにしなければ……。


 ルクンが料理を作っている間、ノエイルはすることもなく、物思いに耽りながら洞窟の天井を眺めていた。そのうちに、ノエイルは気づいた。天井で、何かが、ぼうっと緑色に光っているのだ。暗い洞窟内を照らしているのは、どうやらこの光らしい。


 無数の光は、最初、石か何かに見えた。けれど、じっと目を凝らすと、そうではないことが分かった。光は天井をゆっくりと移動したり、飛び回ったりしている。


(……あれ、生き物なんだ)


 一体、何のために光っているのだろう。ノエイルが思いを巡らしていると、足音とともに、いい匂いが漂ってきた。芳香に刺激され、今まであることすら忘れていた胃が、空腹を訴え始める。


 椀と大きな皿を両手に持って、ルクンが現れた。


「待たせたな。……身体を動かすのが辛いなら、寝たまま食べるか?」


 寝たまま食べるということは、ルクンに食べさせてもらうということだ。返答に困ったノエイルが顔を赤らめると、脇に座っていたリュヌドゥが立ち上がった。ノエイルの後ろまで移動すると、リュヌドゥはまた座り込む。


「……あ、大丈夫。リュヌドゥが背もたれになってくれるって」


 ノエイルが答えを返すと、ルクンは「そのほうがいい」と生真面目に頷いた。

 ただひとつ、困ったことに、ノエイルは自分では起き上がれない。ノエイルの傍に座ると、再び断りを入れながら、ルクンは背に手を添え、上半身を起こしてくれた。

 ルクンの手は温かい。意識が遠のいていた時、何度もこの手に助けられたような気がする。


「あ、ありがとう……」


「……いいや、気にしないでくれ」


 リュヌドゥにもたれかかったノエイルの脇に、ルクンは織物の食卓を敷き、その上に、いい香りのする飲み物と、溶かしたチーズパローに絡ませたパンタユの皿を載せた。パンタユはノエイルが食べやすいように、小さく切り分けられている。


「ありがとう……おいしい」


 初め、ノエイルはルクンの前でがつがつ食べないようにしていたが、だんだん我慢できなくなり、話すのを惜しんで食べ続けた。


「足りなかったら言ってくれ。たっぷり眠ったあとは、体力をつけないとな」


 ルクンは嬉しそうに笑った。お腹が膨れてきたノエイルは、飲み物に口をつけたあとで、気になっていたことをいくつか確認した。


 ツァク・ラックは無事だが、バヤードはまだ見つかっていない。そう聞いて、ノエイルは気落ちした。

 だが、誰よりもバヤードを心配しているルクンが落ち着いている以上、塞ぎ込んでばかりもいられない。またリュヌドゥに乗れるようになったら、必ずバヤードを捜しにいこう、とノエイルは心に決めた。


「わたしは、どのくらい眠っていたの?」


「意識を失ってから、今日で四日目だな」


「四日……?」


 ノエイルは絶句した。さっき、ルクンはノエイルの矢傷は綺麗に塞がったと言った。たった四日で、あれだけの痛みをもたらした傷が癒えるわけがない。


「あなたの傷が早く癒えたのは、清水のおかげだ。どうやら、新鮮な水は、ラグ・メルの傷の回復を助けてくれるらしい。ただ、いいことずくめではないようだ。今のあなたは、傷の痛みがないのに、身体の自由が利かないんだからな。おそらくは、急激な回復の反作用だろう。……まあ、しばらくは、ここでゆっくり休むことだ」


 ルクンの言葉を聞きながら、ノエイルは自分がラグ・メルなのだという事実を、改めて自覚した。ラグ・メルと人間は姿が似ているとはいえ、全く別の生き物なのだ。


 ルクンは、すぐ隣にいて、自分と話し、料理を振る舞ってくれている。それなのに、急に彼との間に大きな隔たりができてしまったような気がして、ノエイルは視線を落とした。


「……これは……?」


 毛布の上に、ノエイルは緑の光を見つけた。天井を覆っていたあの光だ。


 光の正体は、ノエイルの掌の半分ほどの大きさをした、蝶だった。四枚の翅のうち、後ろの二枚だけが、ぼんやりと明滅している。声を失ってノエイルが見入っていると、ルクンの声が聞こえた。


「驚いたろう? 夜光蝶という、珍しい蝶だ。この蝶のおかげで、洞窟の中でも、明かりに不自由しないですむ」


 ノエイルは驚いて顔を上げた。


「まさか、洞窟中にいるの?」


「ああ。だが、別に襲ってくるわけじゃない。たまに、こんな風に降りてくるだけだ。焚き火を起こす時は、こちらが気をつけてやる必要があるがな」


 夜光蝶を見るルクンの目は優しい。多分、ルクンは駱駝だけでなく、あらゆる生き物が好きなのだろう。ノエイルは、再び夜光蝶を見つめた。


「不思議な蝶……」


「夜光蝶はな、冬になると、集団で身を寄せあい、岩屋で暮らし、つがいになる。春になるといっせいに洞窟から飛び立って、外で卵を産む。孵化した卵は、成虫になると、また洞窟に戻ってきて、ここで冬を越す。湧き水を飲みながらな」


「どうして、光っているのかしら」


「異性の気を引くためだ、というな。生き物の中には、獲物をおびき寄せるために光るものもいるが、蝶にその必要はないから、まあ、妥当な説だろう」


「そう……」


 ならば、夜光蝶にとっての美しさとは、翅の色や大きさなどではなく、どれだけ強く光り輝けるかなのだろう。人の世界も、蝶の世界も、結局は同じようなものだ。


 では、水神の世界はどうなのだろう。何が美しいとされて、どのように恋をし、子孫を繋いでいくのだろう……。


 思い出したように、ルクンが言った。


「ところで、この洞窟だが、冬場なのに、やけに暖かいと思わないか?」


「ええ、火もないのに不思議だと思っていたわ」


「この洞窟はとても深くて、その最奥には、大きな温泉が湧き出ているらしい。その熱が、他の穴も暖めてくれているんだ。だからなのか、ここの湧き水は、入り口に近いものでも、普通の泉よりずっと温かい」


 ルクンの口ぶりに、ノエイルは目を瞬かせた。もしかして、ルクンは誰かに教えられて、この洞窟にやってきたのだろうか。


 ノエイルの疑問に答えるように、ルクンは静かに言った。


「ノエイル、キルメジェト部族のひとつ、デュラン氏族のジャハーンを覚えているか? あなた方や俺をここに匿ってくれたのは、彼だ」


 その名を耳にしたのは、一年ぶりだろうか。


 ジャハーンは、二年ほど前、マーウィルに花嫁を探しにきた若者だった。本来ならば、彼は自ら花嫁探しなどせずに、縁故のある部族から、裕福な娘を妻に迎えることのできる立場だったが、一族の権力争いに巻き込まれることに嫌気が差し、マーウィルまでやってきたらしい。


 ジャハーンは最初、ノエイルに気があったようだ。もちろん、ノエイルはその気になれず、彼に競べ馬を挑んだ。ジャハーンは競べ馬に負けると、潔く引き下がってくれた。その後、彼はノエイルの幼友達、セレンと恋仲になり、彼女を連れて氏族に帰っていった。


(ということは、わたしを追ってきたのは、デュラン氏族だったのか……)


 では、自分たちは幼なじみのセレンが嫁いだ氏族と、事を構えてしまったのだ。あらかじめ、その可能性を考えていたとはいえ、ノエイルは暗い気持ちになった。ジャハーンは才覚のある若者だったから、セレンに害が及ぶような不注意は犯さないだろうが……。


「そう……ジャハーンが……」 


「あの時は、奥方が早産しそうになって、氏族長に同行できなかったらしい。だが、こうして、あなたに心を配ってくれた」


「セレンは──彼女は無事なの?」


 ノエイルが思わず大声を上げると、ルクンはほほえんだ。


「ああ、無事だそうだ」


「よかった……」


 セレンは母親になろうとしている。その話は、冷えたノエイルの心を温めるには充分だった。


 それにしても、何故、デュラン氏族はノエイルを追ってきたのだろうか。

 ノエイルが尋ねると、ルクンは淡々と答えた。


「以前、デュランの氏族長の息子が、何者かに殺されるという事件があったそうだ。最近、デュランの呪術師カムが、その事件に関与した者がこの地にくる、と予言した。そこで、たまたまこの地を訪れた俺たちが、疑われることになった──かいつまんで話すと、そういうことらしい」


 ルクンの話を聞いて、ノエイルは違和感を覚えた。

 ルクンがデュラン氏族にわざわざ連行されようとしたのは、ミル・シャーンと連絡を取って、ノエイルの潔白を証明するためだろう。あの状況を説明するには、筋の通った話だ。


 しかし、デュランの氏族長の息子が殺されたのは、いつ頃のことだ、という具体的な事実を隠すのは、ルクンらしからぬ話ぶりだった。


 それに、おかしいと思った。単に疑われただけだったのなら、何故、ルクンはデュラン氏族が襲撃してくる前に、あれほど警戒していたのだろう。


 ルクンはあえて、話から肝心な部分を取り除いている……?


 ルクンのことは信頼している。だが、どうにも納得がいかなくて、ノエイルはルクンの黒い瞳をじっと見つめた。


「ルクン、何か隠していない?」


 ルクンは怯んだように口を閉ざした。

 ノエイルは息苦しくなった。これでは、ルクンと出会ったばかりの頃と同じだ。ノエイルに余計な心配をさせないために、彼はこうやって本当のことを隠しておきたがるのだ。ルクンは何でも、自分一人で抱え込もうとする。


「お願い、話して。わたしはもう、さっきのように取り乱したりはしないわ」


 懇願するようにノエイルは頼んだ。しばらくの間、ルクンは眉を寄せていたが、やがて観念したように、ぽつりぽつりと語り始めた。


「これは、デュランの氏族長、ヌフ殿や、ジャハーンから聞いた話だ。それに、俺自身の意見が入っていることも、忘れないでくれ。実は──」


 ノエイルは手が冷たくなっていくのを感じながら、最後までその話を聞いた。

 自分と似た、姉妹かもしれない人が、ヌフの息子の死に、深くかかわっている。しかも、凄惨な事件が起こったのはノエイルがミル・シャーンに身を寄せた十一年前だという……。


 酷く胸騒ぎがした。だが、この話を聞いてよかった、という思いもあった。


「そうだったの……」


 息をつくように呟いた後で、ノエイルは再びルクンの顔を見つめた。


「話してくれてありがとう。ううん、それだけじゃない。ありがとう、わたしを助けてくれて……それなのに、わたしは、恩を仇で返すようなことを言ってしまって……」


 慌てたように、ルクンは首を振った。


「気にしないでくれ。あなたの身の安全を守ることは、俺の役目だ。……その意味では、俺は供人ともびと失格だな」


「そんなことないわ。それに、わたしはルクンを供人だなんて思ったこと、一度もないもの」


「しかし……」


「わたしは、確かにラグ・メルかもしれないけど、あなたの主人が務まるような者じゃないわ。本当なら、あなたに守ってもらうような価値もないと思う」


 ノエイルが自嘲気味に笑むと、ルクンの目が真剣な光を帯びた。


「あなたには、十分にその資格がある。初めて会った時から、俺はあなたにお仕えできることを、嬉しく思っていた。俺が怒りに任せて、盗賊たちを見捨てずにすんだのは、あなたのおかげだ。このお方ならば、身命を賭すに値する。俺はそう思ったんだ。……それに、デュラン氏族から俺を助け出してくれたのは、ノエイルだ」


 ノエイルは信じられない思いで、ルクンの瞳を見返した。


「でも、あれは、わたしが勝手にしたことで……。あなたは、わたしを逃がそうとしてくれたのに──ルクンは不愉快じゃなかった……?」


「当たり前だ。助けられて感謝しないほど、俺は冷たい人間じゃない。……ありがとう、ノエイル」


 ルクンがほほえんでくれたので、ノエイルはまともに彼の顔を見られなくなった。

 ハサーラやローダーナのことだけではなかった。ルクンの中には、ちゃんとノエイルがいたのだ。

 胸がいっぱいになり、ノエイルは小さな声で、どういたしまして、と応えるのが、やっとだった。


 ふと、目線を下げると、夜光蝶が光の尾を引きながら舞い上がっていく姿が、目に映った。

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