第二部 泉に棲まう水妖
第十五章 襲撃
炉の火が爆ぜた。
人々は、長方形の天幕の中に寄り集まり、炉の奥に座した男を、息を詰めて注視していた。壮年の男は、羽根飾りや磨き石の首飾りを身につけ、静かに瞑目している。
不意に、男の上体が、ぴくりと動いた。まるで力の入っていない、ふらふらした様子で上体を動かしながら、男は口を動かし始めた。
「十一年前の事件……」
炉の左側に座す壮年の男の眉間に、深い皺が刻み込まれる。その男は、黒い顎髭を蓄え、見るからに頑健で、並々ならぬ威圧感を放っていた。
羽根飾りの男は顎髭の男の変化には構わず、言葉を紡ぎ続ける。
「……マンスールの死にかかわった者……その者が……この地を訪れるであろう……」
「それは、いつだ?」
鋭い目つきで顎髭の男が問うと、羽根飾りの男は答えた。
「……近いうち……待つまでもない……」
「その者は、どんな姿をしている?」
顎髭の男は再び問うた。羽根飾りの男は、眉根を寄せ、瞼を閉じたまま何かを注視しているような仕草をした。
「……白銀の髪……駿馬に乗って……背の高い砂漠の民とともに──」
そこまで告げ終えると、羽飾りの男はぷつりと糸が切れたように前のめりに倒れた。顎髭の男の傍に控えていた男たちが、急いで羽飾りの男に駆け寄り、彼を丁重に横たわらせる。
顎髭の男は微動だにせず、しばし虚空を見つめていたが、ぼそりと声を発した。
「──ウマル」
「は、父上」
ウマルと呼ばれた青年は、羽飾りの男の介抱に当たっていたが、即座に父親の脇に参じた。顎髭の男は息子のほうは見ずに宣言する。
「わたしはこれより、ジャハーン以下十数騎を連れ、先程の託宣にあった者たちを待ち受ける」
「父上御自らでございますか」
「むろんだ。お前はわたしの代わりに、氏族を守り、統率しろ」
突き放すように言うと、顎髭の男は、傍らにあった湾刀を手に、立ち上がった。
***
頭に閃光が走る。眠りに落ちかけていたルクンは、はっと瞼を開け、起き上がった。火打石の火花を
ルクンはまず、荷袋から小さな
草地に立つと、イトゥバを被っていない頭に、冷たい夜風が吹きつけてきた。既に眠っていたリュヌドゥが、何事だ、と言うように跳ね起きる。バヤードとツァク・ラックは、のそりと顔を上げ、こちらを見た。
「すまない。起こしてしまったな」
ルクンは苦笑したあとで、手頃な場所を見つけ、砂の多い草地に座った。傍らに燭台を置き、周囲を照らす。
眠りかけた瞬間に何かが閃く時は、ルクンにとって、大抵が凶事の前触れだ。
(何が起ころうとしている……?)
ルクンは盥に水筒の水を半分ほど注ぐ。それから、丸石を連ねた首飾りを外し、紐を解いて石をばらした。ばらした石の数は、全部で二十二。ひとつひとつに、ハサーラで使われる
それらを不規則に水の中に落とし、瞼を閉じて何度か掻き混ぜる。掻き混ぜるたびに、ルクンの心は鎮まるどころか、かえってざわついた。もういいだろう、と思えたところで、ルクンはひとつの石を拾い上げる。
「バァタ……」
それは、騒乱の頭文字でもある聖水文字だった。ルクンは、さらにいくつかの石を拾った。石が暗示する文字は、どれもルクンにとって芳しくない。不安に苛まれながら、最後の石を拾うと、ルクンは深く呼吸をした。
「……ユクシ──犠牲」
ルクンは瞼を閉じた。
くるべき時がきたのだ。
最後の石を拾う瞬間、ルクンは事態の解決法を念じていた。
聖水文字占いは未来を映し出す鏡だ。特にルクンは、この占術を解き明かすのに向いており、【水の院】の中でも五指に数えられるほどだった。
目を開けると、ルクンは天を仰いだ。雲ひとつない満天の星空だった。ルクンは手元の巻物を開き、びっしりと書き込まれた星図と、夜空の星々とを照らし合わせ始める。
ある出来事がいつ、どこで起きるのかを予測するのに最も適した方法は占星術だ。【水の院】の神官たちは、見習いの頃から、星の種類や星々の運行の割り出し方、それらがどのようにかかわり合っていくのかを、徹底的に教え込まれる。
ルクンは帯に挟んでいた鳥軸の筆で、次々と砂地に数式を書いていく。筆先が砂を掻く音は、月が中天を過ぎたあとも夜の静寂に響いた。
***
旅立ちの日から、数えて四日目の朝、唐突にルクンが言った。
「ノエイル、貨幣を使ったことはあるか?」
ノエイルは首を横に振った。
「ないわ。わたし、買い物にいったこともないもの」
「そうか……そういえば、マーウィルでは市場に買い物にいくのは、男の役目だったな。では、貨幣を見たことは?」
「見たことくらいなら。父が持っていたの」
マーウィルは遊牧の民だから、武器は作っても貨幣は鋳造していない。物や家畜を交換すれば生活が成り立つ遊牧の民にとって、貨幣は必要のないものだった。
だが、先の氏族長だった父は、「これを持っていると、定住の民からの信用が得られる」と言って、様々な国や都市の貨幣を、少しばかり蓄えていた。
金銀銅でできた丸い硬貨は、細かな細工がされていて、穴を開けて紐を通せば、首飾りにでもなりそうだった。
「それなら話は早い。これからは、貨幣の使い方を覚えてくれないか」
有無を言わさぬルクンの言葉に、ノエイルは戸惑った。貨幣の使い方は、ルクンがよく知っているはずだ。ならば、わざわざノエイルが使い方を習う必要はない。ノエイルの表情に何を見たのか、ルクンはすまなそうにほほえんだ。
「大丈夫だ。あなたなら、すぐに使いこなせるようになる。あれほどたくさんの山羊を、正確に数えることができるのだから」
確かに、貨幣の使い方は、それほど難しいものではなかった。
だが、ルクンの要請は、それだけではなかった。彼の強い勧めで、ノエイルはバヤードに積んだ荷物から、必要なものを選び、リュヌドゥの鞍に積み直した。
もちろん、たくさんの荷を積めば、リュヌドゥといえども速度が落ちるから、本当に必要なものだけを選ばねばならない。母が持たせてくれた嫁入り道具を選別するのは、辛かった。
しかし、ルクンが用心するからには、何か強く危険を感じる理由があるに違いない。ルクンは優れた戦士であると同時に、あのバーブルが一目置いていた神官でもある。
修行で研ぎ澄まされた彼の感覚が、ノエイルには分からない何かを、察知しているのかもしれない。
ノエイルは不安だった。その不安は、聖湖への道筋を示した地図を、ルクンがノエイルに手渡そうとした時、頂点に達した。もしや、ルクンは「最悪の事態」を考えて行動しているのではないか……。
ノエイルは思わず訊いた。
「ねえ、わたしたち……みんな一緒に、聖湖へ辿り着けるわよね?」
ルクンは、しばらくの間、無言だった。
「……もちろんだ。心配しないで欲しい。俺はその地図を何度も見て、情報を頭に叩き込んであるから、あなたに預けるまでだ」
ルクンは羊皮の地図を広げながら、聖湖へ向かうまでの道筋にある、一点を指し示した。
「ノエイル、前にも話したが、俺たちが次に向かうのは、このタイナスの街だ。食料や
さらにルクンは、タイナスへいくために通るはずだった川沿いの街道へ出るのはやめて、迂回しながら荒れ地を進むことにしよう、と言った。
街道を通らないと、必然的に村や宿場からは外れてしまうが、幸いにも二人は露営に慣れている。荒れ地には泉が湧き出ているだろうし、食料もタイナスまでは持つだろう。
そう説明するルクンの表情は穏やかだったが、どこか淡々としていた。まるで、自らの死を予感した獣のように。
それは、冬営地を旅立ってから八日目の夕暮れ時だった。
当初の予定では、もうタイナスの門を潜っていてもよいはずだったが、街道を外れ、迂回路を選んだことが響き、ノエイルたちはまだ荒れ地を進んでいた。
「この分だと、タイナスにつくのは、明日になりそうだな」
西へと傾いていく赤い太陽に目を向け、ルクンが言った。
「このまま、何も起こらないでいてくれるといいんだけど」
ノエイルがそう応じた時だった。不意に、穏やかだったルクンの表情が険しくなる。押し殺した低い声で、彼は囁いた。
「……ノエイル、油断するな。つけられている」
ノエイルは何でもないような素振りで頷いた。
感覚を研ぎ澄ますと、何頭もの馬の蹄の音が、かすかに聞こえてきた。規則正しく聞こえてくる側対歩の音に、ノエイルは胸の奥に重苦しい痛みを覚えた。
側対歩は、片側の前足と後足を同時に動かすことで馬の揺れを抑える、乗馬のしやすい歩かせ方だ。リュヌドゥのように、生まれながらに側対歩ができる馬もいるが、大抵の乗馬は、何年にも渡る調教の末に、側対歩を習得する。
あんなに軽やかな蹄の音を立てられるのは、ノエイルの知る限り、遊牧の民の馬しかいない。
そして、最も側対歩の訓練に長けている遊牧の部族は、マーウィルよりも好戦的なことで知られる、西のキルメジェト部族だ。彼らは、時には狩りの代わりに掠奪をし、民の糊口をしのぐことがあるという。
心臓がどくどくと脈打つ音が耳に響き始める中、ノエイルは何かに
「……ルクン、お願い。彼らと話をさせて」
「しかし──」
「彼らはおそらく、キルメジェト部族よ。まだ、どの氏族かまでは分からないけれど、もしかしたら、ミル・シャーンの女が嫁いでいるかもしれない。マーウィルとはたいして言葉も変わらないし、彼らの目的が分かれば、争いを避けられるかもしれないわ」
「交渉が決裂したら、どうする?」
「え?」
「話し合いで解決できれば、それに越したことはないが、それは、相手にこちらの話を聞く耳がある場合だ。──悪いが、俺には『失敗してもいい』という選択肢は、最初から与えられていない」
ルクンの目は、かつてないほどの厳しい光に満ちている。ノエイルは言葉に詰まった。ルクンからすれば、ノエイルは故郷を救うために絶対に欠かせない存在だ。そのノエイルを危険に曝すような真似は、極力避けたいところだろう。
ノエイルは痛感した。ルクンが親身になってくれるのは、ノエイルたちのためではない。ハサーラと、死の危機に瀕しているローダーナのためなのだ。
考えてみれば当然のことなのに、ノエイルは頭を殴られたような衝撃を受けた。いや、正確には、無意識に気づかないふりをしていただけなのかもしれない。
そして、何故自分がこんなにも心を掻き乱されるのか、ノエイルにはようやく分かり始めていた。
(わたしは……)
「ノエイル!」
ルクンの強い呼びかけに、ノエイルは自失から立ち直った。
「リュヌドゥを全速力で駆けさせろ。リュヌドゥは地上でもっとも優れた駿馬だ。必ず逃げ切れる」
速度を変えずにツァク・ラックを進めながら、ルクンは言った。ノエイルは思わず顔を跳ね上げる。
「ルクンはどうするの? それに、バヤードは……」
「相手が攻撃してきた時に備えて、俺は
ルクンはちょっと笑ってみせたあとで、バヤードの横にツァク・ラックを寄せた。バヤードの鞍に積まれていた荷の綱を、手早く短刀で断ち切っていく。
そのたびに、乾いた土に荷が落ちる、どさり、という重い音が響いた。その中には、母が持たせてくれた荷物もあったが、今のノエイルには、どうすることもできない。
自分たちのあとをつける蹄の音が、少しずつ早くなっていく。ノエイルたちが彼らに感づいたことを察したのだ。
最後にバヤードの鞍が大きな音を立てて地面に落ちた時、ルクンが叫んだ。
「今だ!」
ノエイルが声をかけるまでもなく、矢のようにリュヌドゥが駆け出す。振り向くと、既にルクンたちとは一馬身以上も引き離されている。その後方から、烈しい土煙を上げて十数の騎馬が押し寄せてくるのが見えた。
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