第三十六章 アンディーン

 涙を流したまま、ノエイルは泉の中に溶けるように沈んでいく。目線を下げると、泉の底で泣いている娘がいた。ルクンの縦笛メワが彼女にも聴こえていたのだろう。

 ノエイルは、ふわりと彼女の前に降り立った。


〈──アンディーン、お姉さま?〉


 しゃがみ込んでいた娘が、のろのろと立ち上がり、ノエイルを見た。


〈──あなたは──ノエイル? ああ、やっぱりノエイルだわ。大きくなって……お母さまにもお父さまにも、よく似ている……〉


〈ええ、ノエイルです。お姉さま〉


 二人はしばしの間、互いを懐かしみあいながら、見つめあった。だが、そのうち、ノエイルはアンディーンの青い瞳を直視できなくなった。突き刺すような痛みが胸を穿つ。マンスールのことを、どう詫びればよいのか、この期に及んで分からなくなってしまった。


〈ノエイル、もうそのことは考えないで。わたし、全てを知っているわ。……オーレボーンの馬具を外したのは、マンスールなの〉


 アンディーンの瞳は茫洋としていた。だが確実に、彼女はノエイルの心を読んでいる。


〈わたしたちはオーレボーンからも、マンスールの一族からも婚姻を反対されていたわ。オーレボーンは、わたしたちに条件を出したの。もし、マンスールの一族を説き伏せることができれば、二人の婚姻を認めよう、と。そうして、わたしたちをデュラン氏族の元に送り出したの〉


〈けれど……〉


〈そう、けれど、わたしたちは説得に失敗した。オーレボーンには、そうなることが分かっていたのよ。──マンスールは、二人で駆け落ちしよう、と言い出した。氏族長の地位になど、何の未練もない、と。

 ……嬉しかった。とても嬉しかったけれど、わたしは困ってしまった。何故なら、説得に失敗した以上、オーレボーンは、決してわたしたちの仲を認めないだろうと思ったから……〉


 アンディーンは、目を伏せた。


〈でも、マンスールは何とかなるだろうと思ってしまった。ラグ・ソンの恐ろしさを知らなかったのよ。だから、わたしのいない隙に、オーレボーンの馬具を……。馬乳酒を飲ませて、前後不覚にさせたそのあとで──〉


 それで、オーレボーンはマンスールを殺してしまったのだ。半身ばかりか、誇りである馬具までも奪われて、怒りに任せ──。

 思い出すのも恐ろしいものが、また視界にちらつきそうで、ノエイルは身体をさすった。

 アンディーンも押し黙ってしまった。


 ノエイルは、あの事件のことを思い出したくなかった。だが、もうそんなことは言っていられない。心の底で渦巻いている濁流に、飛び込む時がきたのだった。


〈……お姉さま、あのあと、わたしはどうなったのですか? わたし、全ての記憶を取り戻したわけではないのです〉


〈わたしから話してしまってもいいの?〉


〈ええ。お姉さまがお話し下さったほうが、得心がいきます〉


 アンディーンは短い沈黙のあと、話を続けた。


〈あのあと、あなたはんだのよ。誰にも教わっていないのに。わたしには、あなたの心の中の記憶が見えるわ。あなたは、本当に恐ろしかったのね。だから、その場をとにかく離れようとして翼を生やした。リュヌドゥは必死にあなたのあとを追いかけたのね。──そして、あなたたちは、人間に助けられた〉


〈わたしに記憶が残っていなかった理由は──〉


〈あなたは、オーレボーンのおぞましい姿を消してしまいたかったのね。それ以外にも、あの記憶にまつわるたくさんのことを〉


 オーレボーンの記憶を消してしまうためには、自分とリュヌドゥ以外の全てを忘れてしまうしかなかったのだ。


(翔んだ──)


 ノエイルは自分の背中に、醜い何かが生えてくる夢を思い出した。あれは実際にあったことだったのだ。あの翼を、ようやくノエイルは美しいと思えるようになった。けれど、忌まわしい事件と重なって、帰郷するまでラグ・メルの背中は、ノエイルを怯えさせ続けた。


〈──ノエイル、あなたも辛かったのね〉


 アンディーンは悲しげに呟いた。


〈あなたに恐怖を与え、人間のようにしてしまったのは、わたしとオーレボーンの責任です。リュヌドゥも、どんなに辛かったか──〉


〈でも、元はといえばわたしが──!〉


〈それ以上は考えないで、と言ったでしょう。あの時のあなたにとって、それが真っ当なことだったのよ。わたしがあなたの立場でも、同じことをしたでしょう。それに──ラグ・ソンの馬具の秘密をマンスールに話してしまったのは、わたしよ〉


 アンディーンの瞳は遠くを見ていた。


〈全てを思い出したあなたは、信じてくれないかもしれないけれど、あの人は素晴らしい人だったの。わたしはあの人と出会ったことで、怖いくらいの幸せというものを初めて知ったわ。それに、全てを失う絶望も──〉


 ノエイルはアンディーンが不憫だった。心や記憶を読む力に長けているがゆえに、知りたくもない恋人と兄弟の闇を、知らなければならなかったのだ。

 アンディーンは、改めてノエイルを見つめた。


〈ノエイル、あなたは雨糸が欲しいのね。砂漠をすぐに潤せるだけの。──でも、わたしには雨糸を紡ぐことは、もうできないでしょう。わたしのラグ・ソンは、人の血肉の味を知りました。双子の片割れであるわたしの手も、既に血で汚れています。そんな雨糸は、風精も受け取ってはくれないでしょう〉


〈お姉さま、でも、お姉さま以上の紡ぎ手はいないと──〉


〈あなたが紡ぐのです、ノエイル〉


 アンディーンは、初めてにこりと笑った。


〈わ、わたしが?〉


〈あなたに、わたしの紡錘つむと技法を授けます〉


 言うなり、アンディーンはノエイルの手を取った。しっとりとした姉の手から、たくさんの雨糸を短時間で紡ぐ方法が伝わってくる。それは、ノエイルがアイスンから学んだ糸の紡ぎ方と融合し、ついにはひとつになった。

 アンディーンがノエイルから手を離した時、既にノエイルの手には紡錘が握られていた。水晶のように美しい、だが、強い魔力を感じる紡錘だった。


〈わたしの役目は、これで終わりです〉


 アンディーンは寂しそうに呟いた。


〈わたしは、ただここで嘆き悲しんでいるだけではないのよ。オーレボーンとわたしが、再び故郷の湖に帰れるようになるまで、身を清めているの。わたしのみそぎが終われば、オーレボーンも人喰い馬にならずにすむでしょう〉


〈お姉さまは、オーレボーンお兄さまを遠ざけている、と聞きましたが……〉


〈遠ざけてなどいないわ。オーレボーンの鞍を見つけて、彼に返したのは、わたしだもの〉


 だから、オーレボーンは正気に返り、力を取り戻すことができたのだ。

 陸の馬具をつけられたラグ・ソンが元に戻る方法は三通りある。

 自分の馬具を再び身につけること。故郷の湖でしばらく過ごすこと。そして、両親に会って力を分け与えてもらうことだ。


〈オーレボーンが、わたしに近づくべきではない、と思い込んでいるだけよ。今は、そのほうがいいわ。長い時間がわたしたちを癒すまで──さあ、ノエイル〉


 姉のかけ声とともに、ノエイルの身体は少しずつ浮き出した。


〈あなたを愛する人が、あなたを待っているわ〉


〈お、お姉さま……!〉


 それは、もしかしてルクンのことだろうか。そんな。彼が自分のことを愛しているだなんて。

 言葉を額面通りに受け取れなくて、ノエイルは慌てると同時に、頬が熱くなるのを感じた。

 アンディーンはほほえんだ。


〈わたしが愚かだったように、愚かでない者など存在しないのかもしれない。けれど、ノエイル。あなたはきっと、わたしたちとは違う可能性を導けるはず〉


 気づくと、ノエイルの身体は水面近くまで上昇していた。


〈さようなら、ノエイル。ありがとう、またあの歌を──彼が好きだった歌を聴かせてくれて〉


〈お姉さま──〉


 ノエイルは、さよならは言いたくなかった。だが、ノエイルの身体は容赦なく泉の中から弾き出され、靴の裏は水面に浮いていた。いつの間にか、「白銀の馬」の旋律もやんでいる。ルクンとリュヌドゥはどうしているだろう。


「ノエイル! 大丈夫かい?」


 急な声に振り向くと、カロルが泉のほとりに立っていた。ノエイルは泉の中で起こった出来事を話した。

 カロルは憂えるようにため息をついた。


「──そうか……。禊ぎのつもりで、今まであの中にいたのだね、アンディーンは。終わるまで、いつになるともしれないというのに……」


「結果的に、それが一番よい方法だと思われたのでしょう」


「そうだろうね……」


 カロルは森を振り返りながら言った。オーレボーンの気配がするのだ。まだ魔性に染まりきっていない、澄んだ気配だ。むしろ、十一年前より清浄に近づいているような気さえする。


 兄とも話したほうがよいのかもしれないが、今は雨糸を紡ぐほうが先だった。ルクンたちもまだ到着していなかったが、ノエイルはカロルの背に乗り、再び水晶宮へと戻った。

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