第一章 砂漠からの旅人

 冷たく乾いた風が丘の麓を吹き抜ける。幾重にも重ねた衣を貫く風に、鞍の上でノエイルは軽く身震いした。膝丈の上衣の下に履いたロンズボンと革の長靴が、この上なくありがたく感じられる。


 愛馬のリュヌドゥが振り向き、首をすり寄せてきた。


「リュヌドゥも寒いの?」


 優しく声をかけ、ノエイルはリュヌドゥの長い首を撫でた。リュヌドゥの首は温かく、心地よい草の匂いがする。ノエイルのお下げ髪と同じ色の、青みがかった白銀のたてがみが、柔らかく掌をくすぐる。


 象牙の毛色をしたリュヌドゥは、氏族の誰もが認める、素晴らしい牡の駿馬だ。年齢は、ノエイルにも分からない。とうに十歳は超えているはずだが、それにしては若い馬のように毛艶がよく、体力も衰えていない。


 だが、氏族の者たちが不思議がるこの謎は、ノエイルにとっては些細なことだった。リュヌドゥがリュヌドゥでありさえすれば、それでいい。ノエイルはそう思っている。


「お前たち、本当に仲がいいな。リュヌドゥは他の者なんて、寄せつけもしないのに」


 兄のジェラールが馬を寄せ、笑いかけてきた。褐色の髪に藍色の瞳、日に焼けた肌、幼い頃から乗馬と狩りで培われた、均整のとれた体格──十八歳のジェラールは、ちょうど少年から青年へと移り変わるただ中にいた。


 ノエイルもまた、笑顔を返した。


「リュヌドゥは気難しいところがあるから。……それよりもジェラール、もう少し山羊たちを移動させない? ここは寒すぎるわ」


「そうだな、山羊たちの身体に障る」


 ノエイルたちが今いる場所は、灌木かんぼくと草地が広がる丘の麓だ。周りでは、いくつかの集団に分かれた黒毛の山羊の群れが、互いに鳴き交わしながら草をはんでいる。

 森と丘が連なるばかりのこの地は、すっかり冬に包まれていた。丘の上から吹く突風は、容赦なく生き物を凍えさせる。


 ジェラールは馬首を翻し、山羊たちに向けて、移動を告げるかけ声をかけ始めた。山羊たちの耳がぴんと動き、一カ所に集まり始める。のそのそと草をはんでいる山羊たちを急かしながら、ノエイルたちは彼らをひとつの群れにまとめ直した。


 時には放牧用の杖を使い、かけ声とともに、馬上から山羊を追っていると、大地を蹴る馬蹄の音が響いてきた。土煙を上げながら、一騎の騎馬がこちらへ向け、走ってくる。


 ノエイルとジェラールは緊張して馬を止めたが、近づいてきた騎手の姿を見て、表情を緩めた。彼が家臣一家の長男坊、ルトフィーだったからだ。ルトフィーは、今年、成人式を終えたばかりの十三歳だったが、なかなか優秀な牧者で、ノエイルの家が所有する羊の放牧を任されている。


 嫌な予感が、ノエイルの胸をよぎった。いつもなら南西の丘の麓で羊を放牧しているはずのルトフィーが、何故、こんなに急いで自分たちに会いにきたのだろう。


 ルトフィーは馬を止めると、乱れた息を整えもせずに、大声で叫んだ。


「大変です! 旅人が盗賊に追われてる!」


 ノエイルとジェラールは顔を見合わせるや否や、頷き交わした。ジェラールがルトフィーのもとに駆け寄る。


「盗賊の数は?」


「四人です。でも、旅人は一人で……」


「分かった。急ごう。ルトフィー、案内を頼む」


 ジェラールはルトフィーとともに駆け出していく。ノエイルは山羊たちに寄り添う二匹の牧羊犬を振り向いた。


「しばらく留守にするわ。あなたたちは、山羊たちをしっかり守るのよ」


 尾を振りながら、元気よく鳴き声で応える犬たちを後目に、ノエイルは手早く杖を鞍に引っかけ、手綱を引く。


「いくよ、リュヌドゥ」


 リュヌドゥは高らかにいななくと、飛ぶように走り出した。離れていたジェラールたちとの距離が、一息に縮まっていく。ノエイルは姿勢を低く保ち、頬を刺すような冷風に耐えた。あっという間に、ノエイルは先頭を駆けていたジェラールを追い越してしまう。


「気をつけろよ! ノエイル」


 後ろに遠ざかっていくジェラールの声を聞きながら、ノエイルはリュヌドゥの脇腹を足でしっかり挟み、鞍にかけておいた弓矢を両手に取った。


 南西の丘を背に、羊の群れが見えてきた。群れの向こうで、刃が陽光を受け、白く光っている。リュヌドゥを走らせながら、ノエイルは弓に矢を番え、射るべき相手を探した。


 最初に目についたのは、白っぽい駱駝に乗り、紺色の頭巾イトゥバ(砂漠の民の男性が愛用する)を被る男だった。その男を、馬に乗った男たち四人が取り囲んでいる。盗賊とおぼしき男たちは、手に手に湾刀を持っていた。


 このあたりには、南のウルシャマ砂漠からやってくる隊商を狙う盗賊や家畜泥棒が、昼夜を問わずうろついている。彼らを追い払い、放牧地や旅人を守るのも、立派な牧者の仕事なのだ。牧者たる者、女でも馬術や武術が必要とされる所以だ。


 ノエイルはリュヌドゥの速度を落とすと、旅人を恫喝している最中の、一番手前の盗賊の利き腕に狙いを定めた──その時。


 頭巾姿の男が、急に駱駝を前進させた。盗賊たちが面食らった隙をつくように、男は盗賊の一人目がけて、片手を繰り出す。男の手に握られていた杖がノエイルの視界に映るのと、盗賊が落馬するのとが、ほぼ同時だった。


 残りの盗賊たちが怒りの喚き声を上げた。一人が、男の後ろから湾刀を叩き込む。だが、男はその一撃を難なく受け流した。滑らかな動きで杖を翻し、相手の鳩尾みぞおちを打つ。盗賊は、のけぞるように落馬した。


 残った二人の盗賊のうちの一人が、やけくそに近い雄叫おたけびとともに、男に向かって斬りかかる。隙だらけのその攻撃を、男はひょい、と避け、盗賊の首筋に杖を打ち込んだ。昏倒した盗賊が、派手な音を立てて馬から落ちる。


 男は「さあ、どうする?」とでも言うように小首を傾げ、最後に残された盗賊のほうを向いた。


 男の技の冴えに、すっかり怯えてしまったのだろう。盗賊は馬腹を蹴ると、逃げ去ろうとした。


「仲間を置いて逃げるのか!」


 男が叫んだ。異国なまりはあるが、充分に聞き取れる発音だった。が、盗賊は振り返りもしない。男は「待て!」と声を張り上げながら、盗賊を追い、駱駝で駆け出した。


 今まで、男の一挙手一投足に見入っていたノエイルは、はたかれたように我に返った。あろうことか、盗賊の進路の先には、羊の群れがあった。


(まったく、今は身重の羊が多いっていうのに……!)


 ノエイルは即座にリュヌドゥを走らせた。何とかして、あの盗賊を止めなければ。そうすれば、盗賊を追っている男も、自然に止まるはずだ。


 混乱しているのか、こうしたほうが男を引き離せるとでも思ったのか、盗賊は羊の群れに乱入していく。びっくりした羊たちは、鳴き喚きながら逃げ惑い、牧羊犬がけたたましく吠えたてる。


 羊たちに足を取られながらも、男は巧みに駱駝を操って盗賊に肉薄していく。だが、砂の上ならともかく、平地ではどうしても、駱駝よりも馬のほうが速さに分がある。逃げ遅れた羊を踏み潰しそうな勢いで、盗賊は逃げ去ろうとしていた。


「止まりなさい!」


 やや迂回して羊たちを避け、時には彼らの間を縫うように走ってきたノエイルは、難なく盗賊の前に立ち塞がった。前にも後ろにも逃げられなくなった盗賊は、女のノエイルなら倒しやすいとでも思ったのだろう。抜き身の湾刀を振り上げ、ノエイルに斬りかかってきた。


 予め抜いておいた短刀で、ノエイルが斬撃を受け流そうとした途端、盗賊の身体が前のめりに崩れ、落馬した。騎手を失った馬が、ノエイルを避けて駆け去っていく。


 一瞬、ノエイルは何が起きたか分からなかったが、目の前に杖を構えた駱駝の騎手を認め、得心がいった。盗賊は後ろから男に殴られ、昏倒したのだろう。


「女人に斬りつけるとは──やはり、賊は賊だな。……怪我はありませんか?」


 怒りを含んでいた男の声が、気遣うようなものに変わった。


 駱駝の背は、馬よりも高い。その上、どうやらこの男は、かなり上背があるようだった。ノエイルは大木を見上げるような気持ちで男と目を合わせ、礼を言った。


「わたしは大丈夫。あなたが助けて下さったのね、ありがとうございました」


 男は返事をしなかった。ただ呆然と、まるで魂が抜けてしまったかのように、ノエイルを見下ろしている。


「どうかしましたか?」


 ノエイルが問いかけると、男の黒い瞳に、我に返ったような光が浮かぶ。


「──あなたは、『ラグ・メル』であらせられるか?」


「……ラグ、メル?」


 初めて聞くはずの、不思議な響きを口にすると、何故かノエイルの胸が、疼くように熱くなった。だが、それは一瞬のことで、ノエイルはすぐにその感覚を忘れてしまった。


 ラグ・メルとは、何のことだろう。人の名前か、それとも、どこかの部族や氏族の名か。


「いいえ、わたしはマーウィル部族のひとつ、ミル・シャーン氏族の先の族長フェルハトの娘、ノエイルといいます」


 怪訝けげんに思いながらもノエイルが丁寧に答えると、男の顔に、落胆が浮かんだ。その表情を打ち消すように、男は深く頭を下げた。


「……それは、失礼を致しました。わたしは、南東の国、ハサーラから参りましたルクン・ラヒム・ラ・ハードゥラと申す者」


 男がマーウィルの敬語を使いこなしたことにノエイルは驚いたが、同時に、彼の丁重すぎる態度に違和感も覚えた。確かにノエイルは氏族長筋の娘だが、異国の者に特別な敬意を払われるような身分でもない。


 ノエイルは改めて、ルクンと名乗った男を見た。


 年齢は、ノエイルより七、八歳上だろうか。引き締まった、浅黒く彫りの深い顔立ち。その鋭い顔つきとは裏腹に、黒い瞳は穏やかで、静謐せいひつな雰囲気を纏ってさえいる。


 顔の輪郭を包む頭巾の長い裾で、襟巻きのように首元を覆い、砂で汚れた紺色の外套と、踝まで届く長衣を着込んでいた。

 帯の上には革製の剣帯が巻かれ、反り返った短刀が下がっている。彼の右手に握られた杖は鉄製で、見た目よりもかなりの重さがありそうだった。


「ノエイル!」


 ジェラールが一足遅れて馬を寄せてきた。後ろのルトフィーに、逃げ散った羊たちを集めるよう指示を出すと、ジェラールは安心したようにノエイルを見、次にルクンに向き直った。


「……どうやら、俺たちが手助けする必要もなかったようだ。あなたは恐ろしく強いな」


 ジェラールの口調は固く、緊張していることが見て取れた。片手には弓矢を握ったままだ。ノエイルに何かあった時のために、馬を駆けさせながら矢を番えていたのだろう。


 警戒するジェラールとは反対に、ルクンは落ち着き払っていた。


「そうか、あなた方は、わたしのために駆けつけて下さったのか。ご厚情、感謝致します」


 ジェラールの口元に、苦笑が浮かぶ。


「余計なお世話だったみたいだけどな。……俺はマーウィル部族のひとつ、ミル・シャーン氏族の先の族長フェルハトの息子、ジェラール。ここにいるノエイルの兄だ。あなたの名は?」


「──ほう。わたしはルクン・ラヒム・ラ・ハードゥラ。南東の国、ハサーラの者です」


 その時、「うう」という誰かの呻き声がした。


 振り向くと、意識が戻りかけているのか、地面に転がった盗賊の一人が、痛みに苦しみながら、手で空をかいている。その姿は哀れだった。


 考える前に、ノエイルはリュヌドゥから降りると、傷薬や包帯の入った革袋を手に取り、盗賊に駆け寄っていた。


「大丈夫よ、すぐに手当てするわ」


 声をかけながら、ノエイルが盗賊の具合を診ようとすると、急に頭上が陰った。顔を上げると、ルクンがこちらを覗き込んでいる。


「代わりましょう」


 ノエイルが答える間もなく、ルクンは素早くしゃがみ込んだ。盗賊の衣をはだけると、ルクンは痛々しい青痣の浮き上がる患部を診始めた。


「ふむ、こちらは軽く打っただけだから、見た目ほど大したことはないな。……おい、他に痛むところはないか?」


「……せ、背中が……」


 ルクンはじっと目を凝らして、盗賊の胸部を見ていたが、しばらくすると確信に満ちた声で言った。


「心配ない。ただの打撲だ。まずは肩を冷やそう」


(どうして、背中を診てもいないのに、怪我の具合が分かるんだろう……)


 ノエイルが唖然としている間に、ルクンは手に持った革袋から道具を取り出した。打撲傷を水筒の水で冷やし、軟膏を塗り、包帯を巻く。一連の動作を、いとも鮮やかにやってのけた。


 邪魔にならないように気をつけながら、ノエイルはルクンに声をかける。


「あなたがこの人を手当てしている間、残りの三人はわたしが診ます。手が空いたら、是非手伝って下さい」


 手を休めぬまま顔を上げたルクンは、少し困ったような表情をした。ノエイルは有無を言わせず、他の怪我人に駆け寄る。


「ノエイル、俺も手伝おう」


 ジェラールが申し出てくれたので、ノエイルは手分けして、昏倒している盗賊たちの具合を確かめた。ルクンの攻撃の影響は、今のところないようだったが、落馬したせいで、一人は足を骨折し、あとの二人は腕や足を脱臼していた。この場に留まった盗賊たちの馬が、遠巻きにこちらの様子を窺っている。


 ノエイルたちが添え木を布で巻いた応急処置をすませると、手当てを終えたルクンが感嘆の声を漏らした。


「ああ、的確なご処置だ。助かります」


 ルクンは丁寧に盗賊たちの怪我を見定め、包帯を巻き直しつつ、患部を再度固定した。


 手当てが終わる頃には、夕暮れが辺りを包み始めていた。赤い光を浴びながら、ジェラールがふと思い出したように、ルクンに尋ねた。


「ところで、あなたの生業は何だ? どう見ても商人には見えないが、医者にも見えない」


 何人もの盗賊を、一人であっという間に倒してしまう医者など、聞いたこともない。ジェラールは冗談のつもりで言ったのだろうが、ルクンは微苦笑を浮かべただけだった。


 ノエイルとジェラールは、思わず顔を見合わせた。ジェラールが小声で耳打ちしてきた。


「……あまり詮索しないでおこう。何か事情があるのかもしれないしな。それに、今までの様子から見て、無法者ではなさそうだし」


「うん……」


 少し引っかかりを感じたものの、ノエイルは頷いた。それに、ルクンという男は謎めいてはいるが、無頼の輩ではない、ということだけは確かに思えた。


 二人の会話が終わるのを待っていたのだろう。ルクンが口を開いた。


「ついでに、と申し上げるのも何ですが、あなた方にお願いがございます。マーウィル部族では、旅人を泊める習慣はおありですか? できれば、しばらく宿を貸していただきたい」


 宿を求める旅人を天幕エッルに招き入れ、もてなすのは、遊牧の民マーウィル人の大切な義務のひとつだ。ジェラールは、ルクンの前に一歩進み出て言った。


「分かった。ルクン殿、今夜から、あなたは俺たち氏族の客人だ」

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