第九章 決行
寒い日が続いた。冬から春にかけては、家畜の出産の季節だ。特に、羊の出産は他の家畜よりも早い。山羊の牧者であるノエイルも、時には羊の出産に駆り出され、日々はせわしなく過ぎていった。
そんなわけで、ノエイルは未だにルクンと込み入った話をできずにいる。
一日の終わりを迎えるたびに、今日も話ができなかったことを、ノエイルは烈しく後悔するのだが、同時に安堵を覚えてもいた。いつもと変わらない日々が、このまま永遠に続いて欲しいとも思った。
(でも、このままじゃけいない。ジェラールとも約束したんだもの)
その日、とうとうノエイルは自分を奮い立たせた。山羊の放牧から帰ってきたあと、バーブル長老の
アイスンには心配をかけたくなかったので、ジェラールの見舞いにいったことにしてある。もし、アイスンが怪しんでも、ジェラールも口裏を合わせてくれる手筈だ。
同じくルクンの帰りを待つ駱駝のバヤードが、のんびりと草をはんでいる。
やがて薄闇の中、ルクンが施療用の天幕から現れた。ノエイルを認めたルクンは、驚いたようだった。足早に歩み寄ってくる。
「何か、あったのですか?」
「いいえ。……あなたと初めて会った日に約束をしたでしょう? そういえば、まだ、それを果たせていなかったな、と思って」
「約束……?」
ルクンは考え込んでいる。遠慮していたのではなく、本当に忘れていたらしい。
「ほら、うちの駱駝を見せる、という約束です」
「ああ……」
ルクンはようやく思い出したようだったが、どうにも腑に落ちない、という顔をした。
「……そのために、わざわざここまで……こんな寒い中を待っていて下さったのですか?」
正確には、駱駝を見せにいくというのは口実なのだが、ノエイルは頷いて見せた。ルクンの表情が、一瞬、揺らぎ、すぐに、いつもの生真面目な顔に戻った。
「お気持ちだけいただいておきます。駱駝のことは、また今度にして、帰りましょう。お身体に障ります」
どうしてこの人は、こんなにも自分のことを気遣ってくれるのだろう。
その疑問を解くのは、今夜しかないような気がした。ノエイルは首を横に振る。
「ありがとうございます。ですけど、見にいきましょう。わたしは牧者ですから、多少の寒さではへこたれません」
ルクンは困ったようにノエイルを見つめていたが、やがて根負けしたのか、首を縦に振った。
「……分かりました。できるだけ手短にすませましょう」
ノエイルはバヤードに乗ったルクンを連れ、自分たちの天幕の前を通らずに、直接、駱駝の寝床にいく道を進んだ。
リュヌドゥとバヤードが森の下草を踏みしめる音を聞きながら、駱駝の寝床へ近づいていく。足音に気づいた駱駝たちが、ゆっくりと長い首をこちらに向けた。
「──へえ、たくさんいますね」
ルクンが感嘆の声を上げた。
「うちのは十四頭だけれど、氏族全体の駱駝を合わせれば、数百頭になります。普段は、その数百頭の群れを放牧しているんです。男たちが交代で牧者をして」
ノエイルが説明する間に、一頭の黒い駱駝がむっくりと起き上がり、近づいてきた。嗅ぎなれぬ駱駝の匂いに気づいたらしい。
駱駝は優しげな風貌をしているわりに、気の荒い動物だ。リュヌドゥから降りると、駱駝を安心させる声をかけながら、ノエイルはそっと歩み寄る。駱駝が穏やかな目で頭を寄せてきたので、ノエイルは顔を撫でてやった。
「あなたも撫でてみますか? 今なら咬みつかれたりしないわ」
ノエイルが振り向くと、ルクンは目を細めて頷いた。バヤードと駱駝を挨拶させてから、ルクンは鞍から降りた。駱駝を撫でるルクンの瞳は優しい。今、声をかければ、その表情はすぐにでも消えてしまうのだろう。
ノエイルはためらったが、勇気を振り絞り、唇を開いた。
「あの日……」
ルクンが
「……はい?」
「あなたは、バーブル長老や母と、何の話をなさっていたのですか? あれ以来、母の様子が変なのです。何かご存じのことがあれば、教えて下さい」
ノエイルが頭を下げようとすると、ルクンは片手を挙げてそれを制した。
「あなたが、そのようなことをなさる必要はございません。答えろ、と仰せならば、いくらでもお答え致します。わたしは……」
ルクンの口元が、自嘲の形に歪んだ。
「わたしは、大切なことを後回しにしすぎたのかもしれません。バーブル長老は優れた
ノエイルが見守る中、ルクンは深々と頭を下げた。顔を上げたルクンは、恐ろしく真摯な目をこちらに向けた。
「あなたを悩ませてしまい、申し訳ございません。……端的に申し上げれば、わたしはあの日、ハサーラからこの地に訪れた理由を、アイスン殿にお知らせするために参ったのです。そして──あなたのご素性を、お知らせするために」
全身に伝わるくらい、心臓が大きな音を立て始めた。しっかりと地面に立っている感覚が失せてきて、自分がどこにいるのかが、
不意に、温かいものがノエイルの身体を支えた。いつも自分を守ってくれる、優しい温もり。
「……リュヌドゥ」
ブルルル、と鳴きながら、身体をすり寄せてくるリュヌドゥに掴まるようにして、ノエイルは大地を踏み締めた。
「やっぱり……」
ノエイルはルクンに視線を戻した。リュヌドゥがいてくれれば、恐れるものなど何もない。
「あなたは、わたしのことを知っているのですね」
最初に会った時、ルクンはこう問うてきた。
──あなたは、ラグ・メルであらせられるか?
だが、ノエイルはあの言葉の意味を、ルクンに尋ねなかった。訊いてしまうことが、知ってしまうことが、怖かったのだ。
(でも、もう後戻りはできない……)
だから、ノエイルは訊いた。
「教えて下さい。わたしは……誰なのですか?」
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