第十八章 印

 日は、既に暮れていた。その宵闇の中にそそり立つ巨大な岩が、月の光を受け、闇よりも濃い影を作り出している。


「リュヌドゥ、もう追っ手は振り切ったようだ。そろそろノエイルの手当てをしたい。この岩陰で休んでいこう」


 闇に紛れながらツァク・ラックを走らせていたルクンが、前方のリュヌドゥに声をかけた。リュヌドゥが応じるように速度を緩める。


 ツァク・ラックが止まり切らぬうちに、ルクンは鞍から降り、すぐさまリュヌドゥに駆け寄った。ノエイルの背には矢が刺さったままだ。額に汗をびっしょりかいて、リュヌドゥの首にしがみついている。


 ルクンは一瞬、唇をぐっと引き結び、眉根を寄せたが、声には優しさを込めた。


「もう大丈夫だ、ノエイル。あなたは必ず、俺が助ける」


 ルクンはリュヌドゥの鞍に積んであった毛布を下ろし、岩陰に敷いた。さらに、自分の鞍から医療具入れの大きな袋を下ろし、火打石と火口ほくちを使い、蝋燭へと火を点ける。燭台を毛布の脇に置くと、再びルクンはノエイルに近づき、呼びかけた。


「ノエイル、鞍から降りよう」


 それから、少し逡巡したあとに、こう続けた。


「……俺に、掴まってくれ」


 ルクンの声に、ノエイルは薄目を開けた。見る者を思わずはっとさせるような、澄んだ青の瞳だ。ノエイルは何とか腕を伸ばそうとしたが、もう、その力も残っていないようだった。


 今度はルクンが腕を伸ばした。矢傷を刺激しないよう気をつけながら、ノエイルを抱き抱える。ぐったりしているわりにノエイルの身体は軽く、衣越しに羽毛のような柔らかな感触が伝わってくる。

 ほんのりと、甘い汗の匂いがした。ルクンは軽く頭を振って、心に起こったさざ波を振り払った。


 慎重にノエイルを運ぶと、ルクンは静かに毛布の上に下ろし、うつ伏せに寝かせた。毛布の傍にリュヌドゥも近づき、心配そうにノエイルを見守っている。


 ルクンはノエイルの背中に目を向ける。出血はさほど多くはなかったが、ノエイルの朱色の衣には、肩胛骨の真下にある傷口を中心に、赤黒い染みができていた。

 さぞかし痛むだろう。ルクンは顔をしかめた。さらに、この衣が、アイスンから贈られた特別なものであることを思い出し、ルクンの胸は痛んだ。


「とにかく、矢を抜かなくてはな……麻酔を使いたいところだが、あれは効果が出るまでに時間がかかる……」


 短い間に、ルクンは決断した。安心させるように、ノエイルに語りかける。


「ノエイル、これから刺さった矢を抜く。……痛むだろうが、我慢できるな?」


 ノエイルが目で頷くのを待ってから、ルクンは矢の本に両手をかけた。一気に引き抜いたが、ノエイルはわずかに呻いただけだった。気丈な方だ、とルクンは思う。


「ノエイル、よく頑張った。もう矢は抜けてしまったよ」


 毛布を固く握りしめ、激痛に耐えているノエイルに労りの言葉をかけながら、ルクンは衣の上から矢傷をじっと見つめた。ルクンは、直接見なくとも、人の患部を透視することができる。生まれつき、シャンニーを見ることのできるルクンの才が、【水の院】での修行で、さらに開花したものだ。

 しばらくすると、ルクンは安堵の息をついた。


「……よかった。矢は内臓には届いていない。骨と筋が守ってくれたんだな」


 ルクンは表情を明るくしたが、間もなく、とんでもないことに気づいた。


 ノエイルの傷を治療するためには、彼女の衣をはだけさせなければならない。それは間違いなく、【水の院】の禁令に触れる行為だった。


 それに、背中はラグ・メル特有の「印」がある部位、と聞く。ノエイルも気にしている場所だ。ルクンがその秘密を目にすることで、ノエイルの心を傷つける結果になるかもしれない……。


 ルクンは途方に暮れた。


 なかなか治療を始めようとしないルクンに痺れを切らしたのか、横にたたずんでいたリュヌドゥが鋭く鳴いた。右前足で何度も地を蹴りつけて、「何をもたもたしている」とでも言わんばかりだ。


 観念しながらリュヌドゥに頷いてみせると、ルクンは表情を引き締めた。ノエイルからの責は、あとで受ければよい。


 ノエイルを横向きに寝かせ直したあとで、ルクンはまず、短刀の下がった彼女の革帯を外し、続いて帯を解いた。ノエイルの意識は既に朧気おぼろげで、衣をはだけさせても、全く反応がない。だが、ルクンは心を張りつめながら、彼女の傷口を隠している布地を取り去っていく。


 ノエイルが身につけている肌衣には、簡素だが、美しい花模様の刺繍が施されていた。前で合わせる形の上衣や下衣とは対照的に、頭から被って着脱する、袖のない短衣だ。冷たい汗をかいた手で、ルクンは用心深く、肌衣の裾を傷口までたくし上げた。


 ほんのりと茶色い肌が、蝋燭の灯に照らし出された。滑らかな肩の辺りで、何かが薄ぼんやりと光っている。


 ルクンは目をみはった。


 ノエイルの両の肩胛骨の上に、ひとつずつ、それはあった。二枚貝の左右のような形をした、握り拳ほどの大きさのものが、ノエイルの肩胛骨に張りついているのだ。


「……これが……ラグ・メルの印──」


 ルクンは半ば放心しながら呟いた。

今まで、ルクンは漠然と、水神であるラグ・メルの印とは、鱗のようなものではないだろうか、と推測していた。

 けれども、これは鱗とはまるで違う。真珠色の貝殻そのものだ。

 ルクンは目の前の光景が不可思議な夢のように思えて、しばらく呆然としていた。


 不意に、肩に強烈な痛みが走った。

 駱駝か何かに噛みつかれたような痛みだ。呻きつつ振り返ると、歯を剥き出したリュヌドゥが、苛ついた様子でルクンの背後に立っている。


 ルクンは自分の意気地のなさに苦笑した。どんな姿であれ、ノエイルはノエイルだ。自分が命を賭すべき相手だ。


 十一年前、【水の院】に入ることを受け入れたあの日から、ルクンの運命は、ノエイルたちに捧げられたといってもよい。

 ルクンの役目は、ノエイルたちを聖湖へと送り届け、【雨糸を紡ぐ娘】を呼び戻すことだ。それは、ノエイルたちさえ無事ならば、ルクンの生死など問題ではないということだ。少なくとも、ルクンは今まで、そう思って生きてきた。


 しかし、ノエイルはルクンを切り捨てなかった。


 つむじ風のように駆けてくるリュヌドゥの背に、ノエイルの姿を見つけた時、ルクンの胸は弦のように震えた。

 ノエイルは優しい娘だが、優しいというだけで人のために危険を冒せるものではない。


 それは、守り敬うだけの対象だったノエイルの心を、ルクンが生まれて初めて知りたいと思った瞬間だった。ノエイルが何を思い、行動したのか、今は分からない。だが。


「……そうだったな。すまない、リュヌドゥ。今は何よりもノエイルの治療が先決だ」


(今度は、俺があなたを助ける番だ)


 ルクンはノエイルの肌衣をさらにまくり、傷口を診にかかった。仄白く光る左の貝殻の真下に、痛々しい矢傷が口を開けている。

 冬用の厚い衣のお陰で、やじりの貫通だけは避けられたようだが、傷が深いことに代わりはない。


 傷口を縫う必要がある。水筒の水で傷口を洗うと、ノエイルが呻いた。

 今からこの具合では、縫合の最中に、ノエイルが意識を取り戻し、苦しむ可能性が大きい。ルクンは麻酔を使うことに決めた。


 吸い飲みに液体の麻酔と水、それに蜂蜜を入れ、掻き混ぜる。ノエイルの頭を手で支えながら、彼女が咳き込まないよう、ルクンは少しずつ麻酔を飲ませた。

 喉が渇いていたのだろう。ノエイルは麻酔をごくごくと飲み下した。


(ノエイルは水を欲しがっているのかもしれない……)


 ラグ・メルが命を繋ぐためには、清新な水が必要だ。今、手元にある水は、いずれも今朝に汲んだもので、新しいとはいえない。新鮮な水を求めるなら、泉を探すか、マウィン川まで馬を走らせるか、そのどちらかしかない。

 ノエイルを置いてここを離れるのは心配だが、それが彼女の助けになるのなら、やってみる価値はありそうだった。それに、麻酔が効いてくるまでには、まだ時間がかかる。


 ルクンはノエイルの傷口に包帯で止血を施したあとで、リュヌドゥに自分の考えを話した。

 ルクンの見たところ、リュヌドゥは話せないだけで、人以上の知性があり、昔の記憶も残っているようだ。傍から見れば滑稽な様子だろうが、今のルクンに残された相談相手はリュヌドゥだけだった。


 話を聞き終えたリュヌドゥは、ルクンの意見を承認するかのように、厳かに頷いた。


 ルクンは表情を和らげると、自分が留守にする間、ノエイルが追っ手に見つからないための術に取りかかった。ノエイルの周りに霊力を宿した石を置き、呪文を唱える。こうしておけば、ノエイルはルクンたち以外の人や獣に見つかることはない。


 術を終えたルクンは、蝋燭の火を消した。水筒や水袋を積めるだけ積み、ツァク・ラックに跨ろうとすると、リュヌドゥがぬっと割り込んできた。ルクンが戸惑っていると、リュヌドゥは鼻息を荒らげる。


「まさか……乗れ、と……?」


 ラグ・ソンがラグ・メル以外の者を背に乗せるなど、とても考えられない。ルクンが恐る恐る尋ねると、リュヌドゥは「そうだ」とでも言うようにいなないた。


 確かに、ツァク・ラックよりリュヌドゥのほうが快速だし、水を探知する能力にも長けているだろう。本来なら、【水の院】の神官がラグ・ソンに跨るなど、非礼極まりないことだが、ノエイルのために、ルクンはリュヌドゥの好意に甘えることにした。


「ありがたい。お手柔らかに頼む」


 ルクンの言葉に、リュヌドゥは鼻を鳴らして応えた。

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