第三部 雨糸の紡ぎ手
第二十九章 聖湖へ
翌朝、二人は言葉少なに
「城門が開いたら、タイナスの市場で買い出しをしたいのですが……あなたもおいでになりますか?」
ミル・シャーンにいた時のように、ルクンの口調は
そうだ。昨夜、彼は、ただの
ノエイルの応答は、かなり間を空けたものとなった。
「──ええ。市場にいったことはないけれど、どこで待っていればいいかなんて、分からないし……」
「半日だけ宿を取ろうと思っています。リュヌドゥたちと一緒に、あなたも宿で休むという方法もあるのですよ。市場は人が多いですし」
ルクンは穏やかに説明してくれたが、ノエイルは混乱した。気遣ってくれているのは分かるが、まるで、市場にはこないで欲しい、と言われているようにも聞こえてしまう。ノエイルは弱気になりかけたが、市場くらいは見ておきたい、という心の声が、背中を押してくれた。
「ルクンも知っているでしょう? マーウィルの女は市場にはいかないって。だから、見ておきたいの。迷惑はかけないから」
「……かしこまりました」
そうして、ノエイルたちはタイナスの城門を潜った。
城壁内では、粗末な造りの家が、身を寄せ合うようにして建っている。どこかの家から漂う朝餉の匂いは、ノエイルを懐かしい気持ちにさせた。旅人を狙って客引きをする怪しげな男の誘いを、ルクンが迷惑そうに断っている。
城門から続く道をさらに進むと、新たな城壁が見えてきた。
何のために、ふたつも壁を造ったのだろう。物珍しさから、ノエイルが辺りをきょろきょろ見回していると、微笑しながらルクンが説明してくれた。
「これは内側の市街地を守るための城壁です。先程通った外側の城壁よりも前に造られたものでしょう。街が大きくなるたびに、拡張していくのが都市ですから」
言われてみれば、内側の城壁のほうが古めかしい感じがする。ルクンの改まった口調は、やはりノエイルの胸の奥を詰まらせたが、自分の態度だけは変えないでおこう、と心に決めた。ノエイルはルクンが供人に戻ることを許したが、彼を
「あの城壁の中にも、まだ城壁があるのかしら」
「そうでしょうね。要塞など、街にとって重要な建物は、厳重に守られているものですから。ちなみに、ハサーラの城壁は五重になっていて、【水の院】は議会や軍本部と同じく、町の中心の第一城壁で守られています」
「五重……」
ノエイルが絶句していると、ルクンは視線を下げ、呟いた。
「……ですが、それも、水を絶たれては、何の意味もありません。都市というのは、どんなに立派に造られていても、案外、脆いものです」
ルクンは顔を上げると、バヤードを引いて次の城門目指して進んでいった。
城門を潜ると、ルクンは宿を求め始めた。市場が開かれるという広場では、商人たちが露店の準備をしている。
酒場や宿屋が軒を連ねている通りには、人々が溢れ、住宅街には石造りの家々が立ち並ぶ。ここに建っている家は、外側の城壁内にあった家よりも、見るからに裕福そうだった。
ノエイルは後方にそびえる城壁を振り返った。あの壁は、豊かな者と貧しい者とを隔てる壁でもあるのだ。
数軒回ったあとで、半日だけ部屋と厩舎を貸してくれるという宿が見つかった。古いながらも質がよさそうな宿で、案内人の物腰も丁寧だった。
リュヌドゥとツァク・ラックを厩に預け、ルクンとノエイルは荷運びのためにバヤードだけを連れて市場へと向かった。リュヌドゥは不満そうだったが、ノエイルが
朝餉の時にルクンの言った通り、市場は無数の人々で溢れ、喧噪に満ちていた。だが、絨毯の上で露店商たちが売る珍しい品々や、いき交う人々の様々な装いを目にするうちに、ノエイルはだんだん楽しくなってきた。
露店商たちは、ノエイルには信じられない値段で物を売ろうとしてきたが、ルクンはなかなか値段の交渉が巧みで、商人たちをしきりに悔しがらせた。
中には気のいい商人もいて、にっこり笑って
「これはおまけだよ。奥さんが美人だからね。いやはや、こんな
そう言われて、ルクンは困惑していたが、「……ありがとう」とだけ答えると、お茶の袋を受け取った。
自分たちがそういう風に見られることもあるのだと、ノエイルは初めて知った。ルクンが市場に、ノエイルを積極的に連れていきたがらなかった理由も頷ける。
(わたしは無知だ……)
恥ずかしさが込み上げてくると同時に、ノエイルはルクンに対して申し訳ない気分になった。
***
市場から宿へ帰り、少しそれぞれの部屋で休むと、ノエイルたちはタイナスをあとにした。
(定住と遊牧は正反対に見えるけれど……結局は、人の営みが、別の形を取ったものに過ぎないのかもしれない……)
そびえ立つタイナスの城門を鞍上から振り返り、ノエイルは心の中で呟いた。
ノエイルたちは、何日もかけて、聖湖の方角へと続くマウィン川沿いの街道を進んだ。タイナスから遠ざかるにつれ、街道は荒れたでこぼこ道になっていき、ついには人の手の加えられていない草地になった。
その先は山地になっており、タイナスの城門よりも遙かに高い山々が、マウィン川を懐に抱くように連なっている。
ルクンが感極まったように言った。
「川の左手の山が、地図にあったディプロス山ですね。この山を越えれば、いよいよ、聖湖のある水神の森です」
「あれが……」
ディプロス山を見つめているうちに、胸の奥から震えるような熱い感情が込み上げてきて、ノエイルは戸惑った。
「──わたし、あの山を、知っているような気がする……」
ノエイルの呟きに、リュヌドゥが、もちろん、とでも言うように声を上げて応えた。ルクンも力強く頷く。
「いきましょう。聖湖に近づけば、少しずつあなたの記憶も戻ってくるかもしれない」
その言葉を聞いた瞬間、全身が総毛立ち、肩胛骨が隆起していくあの赤い夢の残影が、ノエイルの身体を走り抜けていった。
(落ち着け……落ち着け……あれはただの夢よ──それに、今は、あの夢の中と違って、皆が傍にいてくれる……)
ノエイルは深く呼吸をすることで、何とか怖じ気を押さえつけた。
「ノエイル……?」
気遣わしげにツァク・ラックを寄せてくるルクンに、ノエイルはほほえんでみせた。
「大丈夫。さあ、いきましょう」
ノエイルたちは山裾へと移動し、騎乗したままディプロス山を登っていった。道らしい道もない山の中、鬱蒼と生い茂る木の枝を短刀で切り落としながら、ノエイルとルクンはひたすら頂上を目指した。
山歩きに慣れたリュヌドゥとツァク・ラックはもちろん、砂漠育ちのバヤードも、黙々と従ってくれた。
あと一息で頂上、というところで夜が訪れたので、二人は山腹の開けている場所に天幕を張った。獣の襲撃に備え、交代で見張りをしながら、疲れた身体を休める。
夜明け前に出発したノエイルたちは、陽が完全に昇る頃、ようやく雪で白く染まった頂上に辿り着いた。朝陽を受けて輝く頂上の美しさは、ノエイルに登山の苦労を忘れさせた。
「綺麗ね……解けたあともないから、これは万年雪でしょうね。ルクンは、前にも雪を見たことがある?」
「はい。冬に雨季がくれば、砂漠にも雪が降りますから」
二人は自然と笑顔を交わした。
頂上の縁までリュヌドゥを進めたノエイルは、嘆声を漏らした。遠目にも、青く澄んだ大きな湖が、はっきりと見えたからだ。深い森に包まれた湖からは、マウィン川が流れ出している。リュヌドゥが喜びに満ちた
「──あれが、わたしの故郷?」
「間違いありません。わたしは今見ている風景と、そっくり同じ図柄の絨毯を、【水の院】で見たことがあります。聖ハミードが遺したという図案を元に、何十年もかけて織り上げられたという──」
そう答えるルクンの声も、また震えていた。
二人はしばらくの間、黙って、眼下に広がる風景を眺めていた。
「……もうすぐですね」
ルクンの言葉に、ノエイルは頷いた。ノエイルは今まで、故郷には漠然とした想いしか抱けていなかった。だが、たった今、湖を目にしたことで、あれが自分の生まれた場所なのだ、と、はっきりと理解することができた。心の深いところで、そう悟ったのだ。
それからノエイルたちは、丸一日かけてディプロス山を下りた。山裾は鬱蒼としており、野に向けて下山するというよりは、ゆっくりと、森の中へ着地していくような感覚だった。
山を下りきり、森の中に足を踏み入れたとたん、辺りを取り巻く気配が、がらりと変わった。人の出入りの少ない森特有の濃密な空気が、辺りを支配している。別の生き物の縄張りに、足を踏み入れてしまった時のような緊張感が、全身を伝った。
注意深く周りを見回しながら、ルクンが言った。
「……あちらこちらに精霊がいます。ここはまさに、精霊たちの楽園だ」
「そうなの? わたしには何も見えないけれど……」
「見えなくても、不思議な気配は感じられるでしょう? ……しばらくわたしから離れないほうがいい。油断していると、悪ふざけの好きな精霊が、いたずらを仕かけてくるかもしれません」
「ええ」
頷きながら、ノエイルは気を引き締めた。
森の風景は美しかった。冬場なのに、広葉樹が青々と繁り、水のせせらぎと小鳥のさえずりが、絶えず聞こえてくる。楽のようなその音に耳を傾けながら、ノエイルはルクンと、湖までどのように進むべきかを話し合った。
と、今まで静かだったリュヌドゥの目が、急に光を帯びた。ノエイルが
「リュヌドゥ? どうしたの?」
リュヌドゥは止まろうとしない。後ろから、ルクンが叫んだ。
「ノエイル! できるだけ、リュヌドゥを抑えて下さい。リュヌドゥはおそらく、湖までの道のりを思い出しかけておいでだ」
「分かったわ!」
ルクンたちが追いつけるように、ノエイルはリュヌドゥの手綱を操ろうとした。湖へ向かおうとするリュヌドゥの力は凄まじく、馬の扱いには苦労したことのないノエイルでさえ、必死にならざるをえなかった。
「リュヌドゥ、止まって! このままじゃ、ルクンたちが追いつけなくなるわ!」
ノエイルの呼びかけも虚しく、進めば進むほど、リュヌドゥは足を速め、ついには駆け出した。
リュヌドゥは、一刻も早く湖に帰りたいのだろうか……。そう思った瞬間、馬の姿をした兄弟を引き止める気持ちが一気に挫けた。ノエイルは手綱を引く手を緩め、向かい風に耐えるために、姿勢を低くした。
これだけの速さで森の中を走るのは、リュヌドゥといえども危険なことだ。それなのに、リュヌドゥは自在に樹木の枝をかい潜り、浮き出た根や岩を飛び越えていった。まるで、森の全てが、自分たちのために道を空けてくれているようだった。
その不思議に、ノエイルは目を見開いたが、一方で、それを当然のことのように受け止めてもいた。心配なのは、ただひとつ、ルクンたちのことだけだった。
(ルクンなら、必ずわたしたちに追いついてくれる……)
祈るように、ノエイルはリュヌドゥの背で風を切った。
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