第三十章 カロルとリーエン
「バヤード、俺たちの後ろにしっかりついてこいよ!」
ルクンはバヤードの口綱を離した。バヤードが威勢のよい鳴き声を上げる。ルクンはツァク・ラックに鞭を当て、ノエイルたちのあとを追った。しかし、ツァク・ラックが障害物で転倒しないよう、心を砕かねばならず、思うように速度が出ない。ルクンは歯を食いしばった。
(くそ! リュヌドゥにもっと気を配っておくべきだった……!)
リュヌドゥの様子がおかしくなった時、ルクンは森の精霊たちが、彼の気を触れさせたのかと思った。ルクンが自分の間違いに気づいたのは、リュヌドゥの向かっている先が、聖湖の方角だと悟った瞬間だ。
聖湖に近づくにつれ、リュヌドゥは故郷に帰りたいという気持ちを、抑え切れなくなったのだろう。リュヌドゥはノエイルと違い、水神として過ごした頃の記憶があるのだ。
このままでは、ノエイルたちを見失ってしまう。ルクンが焦燥に駆られた矢先、湖の方角から、静かに霧が流れてきた。霧はみるみるうちに立ちこめていき、しまいには、ルクンたちの視界を遮るほどの濃さになった。
ツァク・ラックが不安げに鼻を鳴らして立ち止まり、バヤードが警戒の声を上げる。
(同じだ……聖ハミードの伝承と──)
霧の立ち込める水神の森に入った聖ハミードは、湖を目指すうちに、仲間とはぐれてしまった。ということは、この霧は、水神の森に侵入した人間を、排除する役目を担っているのだろう。
ルクンは目を凝らし、霧を形作っている精霊たちを見つめ、彼らの声に耳を澄ました。霧の精霊たちは、絶えずその姿を変えながらルクンに語りかけてきた。
〈森から出ていけ。さもなくば、朽ち果てるまで、この森の中でさまよい続けることになるぞ。さんざん迷った挙げ句、人喰い馬の棲む沼に、足を踏み入れることになるぞ〉
ルクンは不安がるツァク・ラックを
最初は低く、次第に高く、精霊たちに訴えかける曲を紡ぎ出していく。精霊たちは、しん……と静止し、縦笛の音色に耳を澄まし始めた。
〈お前は何者か〉
精霊たちが問うてきたところで、ルクンは自らの身の上を、音色に込めて明かした。ローダーナの願いにより、ノエイルとリュヌドゥを聖湖へと帰しにきたこと、ローダーナとハサーラを救うために、カロルを呼び戻しにきたことを。
最後にルクンは伝えた。リュヌドゥの背に乗って姿を消したノエイルと合流するためにも、どうかこの霧を晴らして欲しい、と。無意識のうちに、縦笛の音が切ない調べを奏で始める。
ルクンは心のうちで自嘲した。
俺はまだ、ノエイルに未練があるらしい。
彼女をあんなにまで悲しませておいて、今更何を思っているのだろう。俺には、もう彼女と親しく口をきく資格はない。だからせめて、ノエイルが聖湖に辿り着く姿だけは、見届けさせて欲しい。
ルクンが演奏を止めると、静まり返っていた精霊たちが、ひそひそと相談を始めた。
やがて、彼らはルクンを見据えて言った。
〈──よろしい。お前が奏でてくれた曲が気に入った。我らはしばらくの間、姿を隠し、露に紛れ込もう──〉
その声が止むや否や、白い紗が一息に
「さあ、ノエイルたちを捜そう。ツァク・ラック、バヤード」
ルクンはツァク・ラックの首を撫でると、バヤードのほうを振り向いた。駆け寄ってきたバヤードに労いの言葉をかけながら、ルクンは森の奥へと進んだ。
***
リュヌドゥが足を緩めた時、ノエイルは自分たちが森を抜け、開けた草地に出たことを知った。その草地の先に広がる風景を見、ノエイルは息を呑んだ。
それは、恐ろしく澄んだ、青い湖だった。
ディプロス山から見下ろした故郷が、すぐ目の前にある。その事実に、ノエイルはしばし呆然とし、ただ湖を眺めていた。
と、リュヌドゥが焦れるように、ぶるぶると頭を振り、地団太を踏んだ。ノエイルはリュヌドゥの首にしがみつき、叫んだ。
「リュヌドゥ、落ち着きなさい!」
ノエイルの声が、辺りに反響し、響き渡った。
木霊が吸い込まれるようにして消えたあと、湖の中心に、波紋が生まれた。波紋は次々と生まれ、広がっていく。波紋の中心に泡が浮かび上がり、次いで、何かがゆっくりと浮かび上がった。
それは、こちらをじっと見据える女の顔だった。
雷に打たれたように、ノエイルは動けずにいた。若い女の肩口が水面から浮かび上がると同時に、黒馬が顔を出した。
いくつか数える間に、水上には、大きな黒馬に跨った女の優美な姿が、完全に浮かび上がっていた。まるで吸いついてでもいるかのように、黒馬の蹄はぴったりと水面の上にあった。
女の紅色の唇が動いた。
「お前、ノエイルだね? それに、リュヌドゥ──」
次の瞬間、音も立てずに、黒馬が湖面から跳躍した。あっと言う間に、女を乗せた黒馬は、ノエイルとリュヌドゥの前に躍り出た。
馬同士の額をすり合わせられるほどの距離から、女はしばらく、ノエイルとリュヌドゥを見つめていた。やがて、女の澄み渡った青い瞳から、涙が一粒、こぼれ落ちた。
「──ようやく戻ってきてくれたんだね。お前たちがいなくなって、わたしたちがどれほど心配したことか……いいや、そんなことは、今はどうでもよいこと。ね、二人とも、わたしたちを覚えているかい?」
申し訳ない気持ちで、ノエイルは首を横に振ったが、リュヌドゥは悲しげな、甘えるような声を出して応えた。女はすぐさま黒馬から降りると、リュヌドゥに寄り添って、その鼻面を愛しげに撫でた。
「……苦労したんだろう? でも、もう大丈夫だよ。湖に入れば、じきに力を取り戻せるからね」
女は、ふと白い繊手を止めて、リュヌドゥに着けられたはみや鞍を、嫌悪の眼差しで見やった。
「かわいそうに……こんなものをつけられて──水晶宮に着いたら、すぐに新しい馬具を用意してあげようね。お前ならもう成年だから、その資格が十分あるよ」
リュヌドゥが嬉しそうに
「ノエイル、リュヌドゥから降りて。湖に入る前に、この馬具を外さなければね」
ノエイルは言われるままに下馬した。
女が馬具を外し始める。その手つきは、馬具の扱いに慣れた人間のものによく似ていたが、ずっと優雅だった。ノエイルは複雑な気持ちで、女を手伝った。作業を終えると、女はノエイルを見、次いで、黒馬のほうを振り返った。
「ノエイル、あの子は、わたしのラグ・ソンのリーエン。そして、わたしはカロル。お前たちの実の兄姉だよ」
「あなたが──」
では、この人が、ノエイルを捜すようにローダーナに依頼した、【雨糸を紡ぐ娘】なのだ。ローダーナと仲違いした彼女が、ウルシャマ砂漠を去ったことで、ハサーラは
ノエイルは唇を噛んだ。ルクンを過酷な運命に導いた原因が自分自身であることが、鈍い痛みとともに胸に広がっていった。ルクンは自分のことを恩人と言ったが、それが大きな間違いかもしれないことに、ノエイルは気づいていた。
ルクンならば、
「さ、ノエイル、リュヌドゥ、水晶宮に帰ろう。皆が、お前たちの帰りを待っているよ。特にノエイル、お前の記憶を取り戻すためには、いったん、水晶宮へいかなければいけないからね」
カロルがノエイルの手に触れた。その手の冷たさに、ノエイルは我に返った。
「待って、待ってください! わたしをここまで連れてきてくれた恩人と、はぐれてしまったんです。その人も一緒に──」
カロルの目が、鋭さを帯びた。
「諦めなさい。人間は、水晶宮には連れていけないよ」
ノエイルは臆さずに、カロルの瞳を見つめ返す。
「その人が、ローダーナとシャールーズが遣わした神官だとしても?」
「ローダーナの名など、聞きたくないよ」
カロルは美しい顔をしかめた。
「砂漠に棲む精霊たちに頼んでも、お前たちが見つからなかった時、ローダーナは言ったよ。──ハサーラの民は、ラグ・メルを深く信仰している。ハサーラの長にも等しい院主に助力を仰げば、きっとお前たちを捜し出してくれるはずだ、とね。
だが、その事態を招いたのは他でもない。院主とその祖先たち、そしてハサーラの民たちだ。彼らが砂漠を
わたしは、砂漠から離れていった精霊たちの陳情を何度も聞いたよ。わたしはハサーラに豪雨を降らせ、砂漠を浄化したかった。それなのに、ローダーナはハサーラを庇い続けた──」
ノエイルは深く息を吸った。
「わたしもリュヌドゥも、こうして戻ってきました。それに免じて、ローダーナやハサーラの民を赦してはいただけませんか。ハサーラの旱魃のために、ローダーナは死に瀕していると聞いています。どうか、ローダーナを救ってはいただけませんか」
「──ローダーナが?」
カロルは目をみはり、呟いた。いくら仲違いしているとはいえ、カロルとローダーナは同じ親から生まれた姉妹なのだ。そう確信できて、ノエイルは安堵の息をついた。
「はい。あなたが去られたことで、ハサーラに雨が降らなくなったのです。ローダーナはハサーラに留まることを選び、シャールーズの力で何とか命を保っているとか……」
「まったく、あの子は……どこまで馬鹿なのか……」
顔を俯けたカロルを気遣うように、リュヌドゥがブルルと鳴いた。しばらくの間、カロルはリュヌドゥの鼻面をそっと撫でていたが、にわかに顔を上げた。
「誰だい? そこにいるのは」
カロルは、ノエイルとリュヌドゥの後ろを見据えている。ノエイルが振り返ると、森の木立から、後ろに馬と駱駝を従えた、背の高い人影が現れた。
「ルクン……!」
ノエイルは思わず呼びかけた。ルクンはほほえむと、こちらへ向けてまっすぐに歩いてきた。ノエイルたちから、やや離れたところで立ち止まったルクンは、
カロルは値踏みするような厳しい目で、ルクンを見下ろしている。
「お前かい? ノエイルたちをここまで連れてきた、ハサーラの神官というのは」
「はい」
「わたしがハサーラを去ったせいで、ローダーナが死に瀕していると聞いたけれど──本当なの?」
「はい。わたしがハサーラを発ってからも、ローダーナは日に日に弱っておいでのご様子。かなり以前から、水鏡によるシャールーズとの連絡すら、ままならぬありさまでございます」
「そう……シャールーズも、ローダーナの命を保つので、精一杯なんだね」
カロルの顔が曇った。
「事情は大体分かった。──けれどね、ローダーナの具合がそこまで悪くなった以上、わたしが砂漠に戻ったところで、どうすることもできないんだよ」
ノエイルの胸を、嫌なものが走り抜けていった。ルクンの表情が、目に見えて強ばっていく。
「わたしは確かに【雨糸を紡ぐ娘】だった。だが、わたしは前の紡ぎ手の代理として、砂漠に遣わされたにすぎない身だからね。穢れを
「前の紡ぎ手は、どこにいらっしゃるのですか?」
考えるより先に、ノエイルは訊いていた。
「今は眠っているようなものだよ。いつ覚めるとも知れない眠りだ。……お前たちも、ハサーラのほうからきたのなら、噂くらいは、聞いたことがあるかもしれないね──よせばいいのに、あの子は──妹は、人間の男と愛を誓ったのさ。
結局、その男はすぐに死んでしまった。悲しみ抜いた妹は泉を生み出し、その中で眠りについてしまったんだよ。
……ローダーナもそうだが、何故あの子は人間を愛そうなどと思ったのだろうね? わたしたちラグ・メルには、ラグ・ソンがいる。何も不足はないじゃないか」
カロルはリーエンを撫でながら、忌々しげに、それでいて悲しげに答えた。ノエイルの脳裏に、閃光が閃いた。
「……その紡ぎ手の名は、アンディーン、というのではありませんか」
カロルは頷いた。
「そう、アンディーンだよ。やはり、知っていたんだね」
「わたしたちは、旅の途中で、アンディーンが生み出したという泉に立ち寄ったのです」
あの白馬のことを思い出すと、胸がつかえる。そのことは伏せて答えながら、ノエイルはふと疑問を感じた。
「でも、不思議ですね。アンディーンは前の紡ぎ手であるのに、ハサーラから遠く離れたあの森で暮らしていたのでしょう?」
「砂漠に遣わされる紡ぎ手はね、一年中、向こうにいなければいけないわけではないんだよ。一年に数回、雨季にハサーラにいけばいいのさ。アンディーンはそうしていたし、わたしも、普段は水晶宮で暮らしていたからね。
……ただ、今は、他の砂漠に遣わされている紡ぎ手は、わたし以外には戻っていない。他の湖の精霊たちに雨糸を融通してもらおうにも、量が多すぎるしね」
「アンディーンがお目覚めになる方法は、ないのですか」
しばらく黙っていたルクンが、真摯な眼差しで問いかけた。
「お前は悪運が強いよ。今、水晶宮には、お前たちハサーラの民から水神の女王と呼ばれる母も、水馬王と呼ばれる父もいる。両親なら、きっとよい方法を教えてくれるはずだよ」
カロルは、眉間に皺を寄せながら答えた。
「だけどね、お前は水晶宮には連れてはいけない。水晶宮は、この湖底にある。そこまで潜るのは、人間には無理だ──肉体を離れ、魂だけになることができれば、話は別だけれどね」
「わたしは水晶宮に足を踏み入れたいなどと、
「お前の師は、賢い人間のようだ。ならば、お前は既に知っているはずだね。もう、お前には何もできないことを。ここから先は、わたしたちの領分だ」
カロルは彫像のように冷たく言い放った。ルクンの瞳に動揺が広がっていく。やがて、ルクンは面を伏せた。
「妹と弟を、ここまで送り届けてくれたことは感謝している。だから、お前はもう自分の故郷にお帰り。
……こんなことを言っても、お前は信じないかもしれないが、ローダーナが子供だったお前を選び、ここまで遣わしたのは正真正銘の愚策だよ。それが何故かは、よく考えてみれば分かるはずだ。
わたしをはじめとした【湖の子】たちは、決して人間を憎んでいるわけではない。そのことは、忘れないで欲しい」
言葉を切ると、カロルはノエイルを振り返った。
「さあ、二人とも、湖に入ろう。呼吸の仕方は、すぐに思い出せるはずだよ」
強い力でカロルに腕を掴まれて、ノエイルは慌ててルクンを見やった。これで、最後の挨拶になるかもしれない。何かを伝えなければいけないのに、言葉が出てこない。
「──ルクン! ありがとう!」
叫び終えたノエイルに向け、ルクンが悲しげに微笑した。
リュヌドゥが鼻面でノエイルの背を押し、顔を前に向かせた。これが最後の別れなのだと、痛いほどに思い知らされた今では、ひと粒の涙も出なかった。
ノエイルは背を伸ばし、睨むように湖面を見つめた。
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