第十九章 訪問者
リュヌドゥの走りは、今日の疲れを全く感じさせないもので、その乗り心地は、並みの馬では及びもつかないほど快適だった。リュヌドゥが見つけてくれた泉から水を汲むと、ルクンは急いでノエイルの元に戻った。
ルクンが発った時と同じ姿勢で、すうすうと寝息を立てているノエイルの姿に、ルクンは安堵した。
「麻酔が効いてきたようだな」
汲んできたばかりの水を、ルクンは吸い飲みからノエイルの唇に流し込む。雨を吸う砂のように、ノエイルは次々と水を飲み干す。
ノエイルの渇きが癒えたことを見て取ると、ルクンはノエイルの包帯を外し、再び傷口を新鮮な水で洗った。ノエイルの体内から生命の輝きが湧き出し、肌が生気を取り戻していくのが、ルクンにははっきりと分かった。
やはり、清水にはラグ・メルの治癒力を高める効果がある。
ルクンは縫合の準備を整えた。蝋燭の火で炙った針と、澄んだ酒で消毒した糸で、注意深くノエイルの傷口を縫っていく。
(痕が残らないといいんだが……)
祈るような気持ちで、ルクンは最後の一針を終えた。ノエイルの衣を整え、毛布を被せてしまうと、今まで抑えていた疲労が、どっと溢れ出した。だが、眠るわけにはいかない。追っ手がやってくるかもしれないうちは、誰か一人が起きていなくては……。
ルクンはのろのろと蝋燭の火を吹き消すと、膝の上に顎を乗せ、うずくまった。
***
どのくらい休んでいたのだろう。ルクンはいきなり前髪を引っ掴まれたように、夢と
間違いようもなく、それは人馬の気配だった。近くで横になっていたリュヌドゥとツァク・ラックも、不審を感じたらしく、揃って頭をもたげた。
ルクンは一瞬で気配を殺すと、ノエイルの周りにかけた術が、まだ効いているかどうかを確認した。
馬の蹄が、こちらに向けて近づいてくる。
ルクンが鉄杖を構えると、リュヌドゥが自分の背に跨るよう、目配せを送ってきた。ルクンは頷きを返すと、音を立てぬようリュヌドゥの脇に移動する。
岩陰の向こうから、月明かりに照らされた人馬の影が長く伸びた。騎手がこちらを見つける前に、ルクンはリュヌドゥの鞍に跨る。リュヌドゥは駆け出したかと思うと、あっという間に人馬の背後に躍り出た。
「……武器を捨てろ」
騎手の喉元を鉄杖で締めつけるようにして、ルクンは低い声で命じた。騎手の馬は、猛獣に睨まれたようにリュヌドゥに威圧され、身動きひとつできずにいる。
諦めたように、騎手は武器を吊るしていた革帯と弓矢を地に捨て、両手を挙げた。
「デュラン氏族の者だな?」
ルクンが
「近くに、仲間がいるのか?」
「ここには俺一人できた。他の連中は、見当違いの方角を捜している。……不幸中の幸い、って奴だな」
「どういうことだ」
「俺は、お前たちの敵じゃない」
男の言葉がにわかには信じられず、ルクンは慎重に尋ねた。
「……それは、俺たちを助ける、という意味か」
「そうだ。そのために、お前たちを捜しにきたんだからな。ノエイルに会わせてくれないか。彼女なら、俺のことを知っている」
「無理だ。彼女は今、麻酔の効果で深く眠っている」
答えながら、ルクンは考えた。自分は、デュラン氏族と相対していた時、ノエイルの名を呼んだだろうか。
ふと、ルクンはリュヌドゥを見た。
「リュヌドゥ、この男に見覚えがあるか?」
リュヌドゥは長い首を傾け、男の顔をしげしげと見つめ、それから匂いを嗅いだ。
振り返ったリュヌドゥが、肯定するように鳴いたので、ルクンは男から鉄杖を離した。
「驚いたな。リュヌドゥと心を通わせられるのは、ノエイルだけかと思っていたが」
リュヌドゥを見つめる男の目元は、涼やかだった。歳は、ルクンより少しばかり下だろう。自由を取り戻した男は、手綱を引き、ルクンと相対した。華やかに整った顔立ちが、月光によく映えている。
この男は、一体、どういう経緯でノエイルと知り合ったのだろう。
そう考えてしまったあとで、ルクンは自分を恥じた。ノエイルに仕える一介の神官でしかない自分が、何を勘ぐっているのか。
ルクンの葛藤など知るよしもなく、男が口を開いた。
「お前の名は伯父から聞いている。確か、ルクン・ラヒム……」
「ルクン・ラヒム・ラ・ハードゥラだ。ルクンでいい」
「俺は、キルメジェト部族がひとつ、デュラン氏族のピールの息子、ジャハーン」
「では、ジャハーン。さっき、伯父君から俺の名を聞いた、と言ったな。あなたは、夕刻に俺たちを追ってきた騎馬隊には、加わっていなかったのか?」
「ああ。……追跡の話を聞いた時、それはノエイルのことじゃないか、とすぐに思った。相手が本当にノエイルだとしたら、俺が仲立ちになろう。そう考えて、参加を承諾したんだが……」
ジャハーンの答えを、ルクンは苦々しく思わずにはいられなかった。もしもジャハーンが追跡隊に参加していれば、ノエイルはあのような怪我を負わずにすんだだろう。
「何故参加しなかった」
険を含んだ声でルクンが問うと、ジャハーンは申しわけなさそうに言った。
「……身重の妻が、急に早産しそうになってな。ついていてやりたかった」
(……それでは、仕方がない……)
今更ながら、自分が心の余裕を失っていることに、ルクンは気づいた。この世は、ノエイルやハサーラのためだけに動いているわけではない。それぞれに、大切なものがあり、優先すべきことがある。そんな基本的なことも忘れていたとは……。
ルクンは口調を和らげた。
「……それで、奥方は?」
「無事だ。赤ん坊は、もう少しお腹の中にいたいらしい」
ジャハーンは穏やかにほほえんだあとで、真顔になる。
「ノエイルは矢で射られたと聞いた。氏族の者がしたことなら、俺にも責がある」
「それは、一体……」
ジャハーンの物言いが気にかかり、ルクンは思わず訊いた。
「俺の伯父は、デュランの氏族長、ヌフだ」
ジャハーンの言葉に、ルクンはかすかな光が見えたような気がした。ジャハーンがヌフの甥というのなら、氏族での発言権も少なからずあるだろう。
ヌフがジャハーンをどう遇しているのかは、ルクンには分からない。だが、今までのジャハーンの発言を思い起こすに、全く信を置かれていない、というわけではなさそうだった。
ジャハーンは言葉を継いだ。
「とにかく、事情は追々話そう。冬営地に帰ったら、俺はすぐ、ノエイルのことや、全てが誤解だということを伯父に話す。だが、伯父を説得している間、お前たちは安全な場所にいたほうがいい。外で寝起きをしていては、怪我人の傷に触るしな。いい場所を知っているんだ。案内しよう」
「ああ。そうしてもらえると助かる」
ルクンは頷いた。野営用に使っていた天幕は、バヤードを逃がす時、捨ててしまった。捨てた荷物は、デュラン氏族が回収していたとしても、ルクンの手に戻ってくるのは、当分先のことになるだろう。
(バヤードは、どうしているかな……)
バヤードは、死んだ父が大事にしていた駱駝が産んだ仔だ。過酷なウルシャマ砂漠でも生きられる駱駝は、人より遙かに強い生き物だが、ルクンの胸は締めつけられた。
しかし、今はノエイルを安全な場所に移すことが肝要だ。ルクンはバヤードのことを胸の奥にしまい込むと、リュヌドゥに声をかけ、ノエイルのほうに足を向けた。
ノエイルは深い眠りに落ちていた。非礼なことではあったが、ルクンはノエイルを横向きに抱えるようにして、ツァク・ラックに乗った。緊張から解放されたせいか、ほとんど動き通しだったリュヌドゥに、色濃い疲労が見え始めてきたせいでもある。
相乗りする二人を馬上からちらりと見て、ジャハーンが言った。
「……なあ、ずっと不思議だったんだが、ルクンはノエイルの亭主なのか?」
この状況では、そう思われても仕方ないのだろう。ウルシャマ砂漠では、夫婦や
ルクンが考えあぐねていると、ジャハーンは苦笑した。
「つまらんことを訊いたな。忘れてくれ。……ただ、もしノエイルが嫁入りしたのなら、妻に教えてやりたかったんだ。妻は、ミル・シャーン氏族の出身でな、ノエイルとは仲のいい幼友達だった」
「そうだったのか……」
何故、ジャハーンがノエイルを助けたいと思うのか。何故、ノエイルはキルメジェトとの衝突を避けたがっていたのか。その理由が、すとんと腑に落ちた。
もし、遠方に嫁いだ幼なじみが身重だと知ったら、ノエイルはきっと喜ぶだろう。寝息を立てるノエイルを見下ろしながら、ルクンは口元をほころばせた。
(……ノエイルが人殺しにかかわっているはずがない)
唇を引き締め、ルクンは強く思った。初めて出会った時、ノエイルは自分を攻撃しようとした盗賊ですら、助けようとしたのだ。ノエイルは殺伐とした世界とは、無縁の女神だ。記憶を失う前のノエイルが、ヌフの息子の死にかかわっているはずがない。
「教えてくれないか。……十一年前、何が起きた?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます