第七章 「白銀の馬」
黙したまま、ルクンの話にじっと耳を傾けていたノエイルは、魂を奪われたように、しばらく動けずにいた。
(あの時と同じだ……)
「ラグ・メル」という言葉をルクンの口から聞いた時、胸に熱いものが込み上げてきた。ハサーラの言い伝えは初めて聞く話にもかかわらず、ノエイルの心を烈しく揺さぶった。しかも以前と違い、胸を焦がすような熱は、なかなか引いていかない。
そうだ。ラグ・メルとは何のことなのだろう。
ルクンは確かに、ノエイルを見てそう言っていた。仮にノエイルがラグ・メルというものに似ているとすれば──。
ノエイルの考えを遮るように、ルクンは少し息をつくと、手元の
「どうだ、スレイマン。おもしろかったか?」
「はい、とっても。ねえ、ルクンさんは神さまや精霊を見たことがあるんですか? バーブル長老や父さんたちは、自然には全て精霊が宿るって教えてくれたけど、僕は見たことがないんです」
「もちろんある。俺は水神に仕える神官だからな。確かに精霊は、あらゆるものに宿っているが、さっき話したように、普通の目では見えない存在だ」
「シャンニー以外の精霊も?」
「ああ。姿を持った精霊のほうが少ないのさ。彼らを見るには、生まれついての才のようなものが必要なんだ。ほら、誰に習ったわけでもないのに、足が速い人や、物覚えがよい人って、いるだろう? それと同じことだ」
ルクンの説明に、スレイマンはちょっと残念そうな顔をした。才能が必要なら、スレイマンはこの先も精霊を見ることができないだろう。ルクンは微笑した。
「落胆することはない。精霊は手に触れられる存在となって、人間の前に姿を現すこともあるんだ。それに、水神の女王やその娘御たちは、生まれ落ちた時から、人の姿をしておいでになる。……もしかすると、そうと気づかないだけで、もう会っているのかもしれないしな」
「へえ……」
スレイマンの目が輝いた。今まで大人びた態度をとっていた彼の姉妹たちも、顔を見合わせ、女神さまはどんな姿をしているのかしら、と囁き交わしている。そんな子供たちの様子を、ノエイルを含めた大人たちは、目を細めて眺めていた。
ルトフィーが山羊肉を挟んだ
「精霊は、どんな姿をしているんですか?」
「彼らは実体を持たないから、何かに化生しない限りは、とらえどころのない姿をしている。たとえば、この焚き火に宿る精霊だが、俺には、炎でできた
「難しいな……」
「この炎の揺らめきが、もう少しはっきりとした形をとったものが精霊の姿──そう思ってもらえれば、大体間違いない」
ルクンがつけ加えると、ルトフィーは表情を明るくした。その様子を見て、ノエイルも浮かんできた疑問を、質問してみたくなった。
「あの……」
おずおずと声をかけたノエイルに、ルクンが顔を向けた。
「訊いても、よろしいですか?」
ノエイルが問うと、暖かい炎の照り返しを受けながら、ルクンは頷いた。
「何なりと」
「最初に水の女神を見かけた人は、どうして、女神をシャンニーヤだと思い込んでしまったのでしょう。女神を悪さをする精霊と間違えるだなんて、ありうることなのでしょうか?」
「十分にありうることなのですよ。シャンニーの知識はあっても、彼らを見たことや感じたことがない者にとって、
ルクンが淀みなく答えてくれたので、ノエイルはもっと深く訊いてみたくなった。
「では、何故、神官たちまでも、女神のことをシャンニーヤだと勘違いしてしまったのですか? ハサーラは砂漠の国。水の女神をお祀りする前から、水神は信仰されていたのでしょう?」
「鋭い質問ですね」
ルクンは目を丸くしたあとで、ほほえんだ。
「おっしゃる通り、ハサーラでは、古来から水神をお祀り申しておりました。神官が水の女神をシャンニーヤと間違える──一見、不思議なことに思われるかもしれませんが、神官とは、実に頭の固い者たちが多いのです。伝承の細部や古い教義に囚われ、真実を見極めようとしない。だから、自分たちの知らぬ神は神ではないと、決めつけてしまったのでしょう」
身内を批判するルクンの目は、強い憤りに満ちていた。この人は、【水の院】という組織ではなく、水の女神そのものを、心から敬い、信じているのだ。
彼の身体から滲み出る気高い光のようなものが、一瞬、ノエイルには見えたような気がした。
ノエイルは頬を赤らめた。自分は、徳の低い神官を引き合いに出して、ルクンを侮辱してしまったのかもしれない。
「──あの……ごめんなさい。変なことを訊いてしまって……」
ノエイルが正直に謝ると、ルクンは驚いた顔をして、首を横に振った。
「とんでもないことです。あなたは、いくらでもご質問なさって、構わないのですから」
真顔でそう答えるルクンに、ノエイルはどう反応してよいのか分からなくなった。ノエイルが口ごもっていると、今まで黙っていたアイスンが、口を開いた。
「さ、みんな、質問はそのくらいにして。……ルクン殿、ハサーラの伝承、とても興味深く拝聴しました。その返礼として、今度はわたしども遊牧の民に伝わる伝承をお聴き下さい」
ルクンが返事をする前に、アイスンはノエイルを呼び寄せ、何か聴き応えのある
「いえ、お気になさらず。あれは、わたしが勝手に語っただけですので……」
「ルクン殿こそ、ご遠慮なさらず。我が子ながら、娘には音楽の才があります。きっと、耳に心地よいものをお聴かせ致しますよ」
アイスンはそう言い切ったが、正直なところ、ノエイルは客人の前で歌ったり楽器を演奏することは、恥ずかしいし緊張するから苦手だ。
しかし、母に申しつけられたとあっては、断ることはできない。それに、ルクンが語ってくれた心惹かれる伝承に、何らかの形で報いたい、という思いもあった。
ノエイルは手を綺麗に拭ったあとで、壁際の
幼い頃、父に作ってもらい、今ではすっかり手に馴染んでいる撥弦楽器は、よい音がした。この調子なら、すんなりと演奏ができるかもしれない。
ノエイルは、詩物語の中でも最も好きな、「白銀の馬」を奏でることにした。
流れるような調べを爪弾きながら、ノエイルは唇を開いた。
天より降り立ちぬ白銀の馬 其は天つ神の姫御子
人の子の若人を恋い慕い 舞い降りぬ 光のように美しき乙女
部族の長になりしばかりの 駿馬のように逞しき若人
草原でふたりは行き逢い 若人もまた 乙女を恋い慕うようになれり
夏のように
なれど 烈しい戦 起こりける
頬 涙に濡らせども 乙女は恋人の帰り 待ち
戦の便り 甚だ悪し
憂うた乙女は 白銀の馬に化生し
天翔け 草原に広がりし戦場の中 恋人の姿を探しぬ
乙女の眼に映りしは 敵と刃を交えし 恋人の勇ましき姿
刃を打ち合いしのち 恋人は敵の刀を受け
赤き半の月 描きつつ 馬より落ちぬ……
乙女の嘆き 天を貫き 天
雷轟き 幾筋も戦場に落ちて 人も馬も畏れをなして 方方に散りぬ
かくて 戦は終わりぬ
白銀の馬 再び天に帰り 人人は悲しき歌
歌い終える頃には、ノエイルの胸は深い悲しみに満ち満ちていた。だが、その感情も終曲を奏でるうちに、少しずつ安らいでいく。最後の音が空気の中に消えてしまうと、ノエイルの内側には、波ひとつない静寂が広がっていた。
ノエイルが自らのうちから外へと意識を戻すと、ルクンの姿が目に映る。放心したように虚空を見つめる彼の顔と、詩物語の中の、戦に散った若者の姿が重なったような気がして、ノエイルははっとした。
直後、
「いかがでしたか? 娘の弾き語りは」
アイスンに水を向けられ、ルクンは我に返ったように顔を上げる。
「──ああ、失礼致しました。……とても素晴らしい、歌と楽の音色でした。聴いているうちに、まるで、自分が詩物語の登場人物になってしまったような心持ちになる……」
ルクンは言葉を区切ると、ノエイルと目を合わせ、ほほえんだ。
「非才ながら、わたしにも楽の心得がございますが、あなたの才は非凡なものです。是非、これからも、多くの人のために、詩物語を奏でていただきたい」
思わぬルクンの賛辞に、ノエイルはびっくりしてしまった。
「……あ、ありがとうございます」
少しの間を置き礼を述べたあとで、頬が火照っていることに気づく。だが、ノエイルは嬉しかった。胸の奥から尽きせぬ喜びが込み上げてくる。
それは、ノエイルが生まれて初めて、身内以外にも歌を聴いてもらいたい、と思った瞬間だった。
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