第七章 「白銀の馬」

 黙したまま、ルクンの話にじっと耳を傾けていたノエイルは、魂を奪われたように、しばらく動けずにいた。


(あの時と同じだ……)


「ラグ・メル」という言葉をルクンの口から聞いた時、胸に熱いものが込み上げてきた。ハサーラの言い伝えは初めて聞く話にもかかわらず、ノエイルの心を烈しく揺さぶった。しかも以前と違い、胸を焦がすような熱は、なかなか引いていかない。


 そうだ。ラグ・メルとは何のことなのだろう。

 ルクンは確かに、ノエイルを見てそう言っていた。仮にノエイルがラグ・メルというものに似ているとすれば──。


 ノエイルの考えを遮るように、ルクンは少し息をつくと、手元の乳茶ス・ジュイを飲んだ。


「どうだ、スレイマン。おもしろかったか?」


「はい、とっても。ねえ、ルクンさんは神さまや精霊を見たことがあるんですか? バーブル長老や父さんたちは、自然には全て精霊が宿るって教えてくれたけど、僕は見たことがないんです」


「もちろんある。俺は水神に仕える神官だからな。確かに精霊は、あらゆるものに宿っているが、さっき話したように、普通の目では見えない存在だ」


「シャンニー以外の精霊も?」


「ああ。姿を持った精霊のほうが少ないのさ。彼らを見るには、生まれついての才のようなものが必要なんだ。ほら、誰に習ったわけでもないのに、足が速い人や、物覚えがよい人って、いるだろう? それと同じことだ」


 ルクンの説明に、スレイマンはちょっと残念そうな顔をした。才能が必要なら、スレイマンはこの先も精霊を見ることができないだろう。ルクンは微笑した。


「落胆することはない。精霊は手に触れられる存在となって、人間の前に姿を現すこともあるんだ。それに、水神の女王やその娘御たちは、生まれ落ちた時から、人の姿をしておいでになる。……もしかすると、そうと気づかないだけで、もう会っているのかもしれないしな」


「へえ……」


 スレイマンの目が輝いた。今まで大人びた態度をとっていた彼の姉妹たちも、顔を見合わせ、女神さまはどんな姿をしているのかしら、と囁き交わしている。そんな子供たちの様子を、ノエイルを含めた大人たちは、目を細めて眺めていた。


 ルトフィーが山羊肉を挟んだパンタユ(平たく無発酵)を食べる手を止め、ルクンに尋ねた。


「精霊は、どんな姿をしているんですか?」


「彼らは実体を持たないから、何かに化生しない限りは、とらえどころのない姿をしている。たとえば、この焚き火に宿る精霊だが、俺には、炎でできた蜥蜴とかげがくるくる回っているようにも、鳥が羽ばたいているようにも見える。もっとも、神官としての修行を始める前は、ぼんやりとした光にしか見えなかったんだがな」


「難しいな……」


「この炎の揺らめきが、もう少しはっきりとした形をとったものが精霊の姿──そう思ってもらえれば、大体間違いない」


 ルクンがつけ加えると、ルトフィーは表情を明るくした。その様子を見て、ノエイルも浮かんできた疑問を、質問してみたくなった。


「あの……」


 おずおずと声をかけたノエイルに、ルクンが顔を向けた。


「訊いても、よろしいですか?」


 ノエイルが問うと、暖かい炎の照り返しを受けながら、ルクンは頷いた。


「何なりと」


「最初に水の女神を見かけた人は、どうして、女神をシャンニーヤだと思い込んでしまったのでしょう。女神を悪さをする精霊と間違えるだなんて、ありうることなのでしょうか?」


「十分にありうることなのですよ。シャンニーの知識はあっても、彼らを見たことや感じたことがない者にとって、おそれを抱かせる物事は、全てシャンニーの仕業、ということになるからです。だから、神とシャンニーを間違えてしまうことになる」


 ルクンが淀みなく答えてくれたので、ノエイルはもっと深く訊いてみたくなった。


「では、何故、神官たちまでも、女神のことをシャンニーヤだと勘違いしてしまったのですか? ハサーラは砂漠の国。水の女神をお祀りする前から、水神は信仰されていたのでしょう?」


「鋭い質問ですね」


 ルクンは目を丸くしたあとで、ほほえんだ。


「おっしゃる通り、ハサーラでは、古来から水神をお祀り申しておりました。神官が水の女神をシャンニーヤと間違える──一見、不思議なことに思われるかもしれませんが、神官とは、実に頭の固い者たちが多いのです。伝承の細部や古い教義に囚われ、真実を見極めようとしない。だから、自分たちの知らぬ神は神ではないと、決めつけてしまったのでしょう」


 身内を批判するルクンの目は、強い憤りに満ちていた。この人は、【水の院】という組織ではなく、水の女神そのものを、心から敬い、信じているのだ。

 彼の身体から滲み出る気高い光のようなものが、一瞬、ノエイルには見えたような気がした。


 ノエイルは頬を赤らめた。自分は、徳の低い神官を引き合いに出して、ルクンを侮辱してしまったのかもしれない。


「──あの……ごめんなさい。変なことを訊いてしまって……」


 ノエイルが正直に謝ると、ルクンは驚いた顔をして、首を横に振った。


「とんでもないことです。あなたは、いくらでもご質問なさって、構わないのですから」


 真顔でそう答えるルクンに、ノエイルはどう反応してよいのか分からなくなった。ノエイルが口ごもっていると、今まで黙っていたアイスンが、口を開いた。


「さ、みんな、質問はそのくらいにして。……ルクン殿、ハサーラの伝承、とても興味深く拝聴しました。その返礼として、今度はわたしども遊牧の民に伝わる伝承をお聴き下さい」


 ルクンが返事をする前に、アイスンはノエイルを呼び寄せ、何か聴き応えのあるうた物語を、弾き語りするように告げた。ルクンが慌てたように言う。


「いえ、お気になさらず。あれは、わたしが勝手に語っただけですので……」


「ルクン殿こそ、ご遠慮なさらず。我が子ながら、娘には音楽の才があります。きっと、耳に心地よいものをお聴かせ致しますよ」


 アイスンはそう言い切ったが、正直なところ、ノエイルは客人の前で歌ったり楽器を演奏することは、恥ずかしいし緊張するから苦手だ。

 しかし、母に申しつけられたとあっては、断ることはできない。それに、ルクンが語ってくれた心惹かれる伝承に、何らかの形で報いたい、という思いもあった。


 ノエイルは手を綺麗に拭ったあとで、壁際の撥弦楽器バト(リュートに似ており、弦の数は十一本)を手に取った。撥弦楽器を膝に抱えて棹を持ち、弦の具合を確かめながら掻き鳴らす。

 幼い頃、父に作ってもらい、今ではすっかり手に馴染んでいる撥弦楽器は、よい音がした。この調子なら、すんなりと演奏ができるかもしれない。

 ノエイルは、詩物語の中でも最も好きな、「白銀の馬」を奏でることにした。


 流れるような調べを爪弾きながら、ノエイルは唇を開いた。


 天より降り立ちぬ白銀の馬 其は天つ神の姫御子

 人の子の若人を恋い慕い 舞い降りぬ 光のように美しき乙女

 部族の長になりしばかりの 駿馬のように逞しき若人

 草原でふたりは行き逢い 若人もまた 乙女を恋い慕うようになれり


 夏のようにきらめきたる 仕合わせな日日

 なれど 烈しい戦 起こりける 

 竜馬りゅうめに乗りて 若人は部族のため 刀を取りぬ

 頬 涙に濡らせども 乙女は恋人の帰り 待ち


 戦の便り 甚だ悪し

 憂うた乙女は 白銀の馬に化生し

 天翔け 草原に広がりし戦場の中 恋人の姿を探しぬ

 乙女の眼に映りしは 敵と刃を交えし 恋人の勇ましき姿

 刃を打ち合いしのち 恋人は敵の刀を受け

 赤き半の月 描きつつ 馬より落ちぬ……

 乙女の嘆き 天を貫き 天 いかずちをもって其れに応えぬ

 雷轟き 幾筋も戦場に落ちて 人も馬も畏れをなして 方方に散りぬ

 

 かくて 戦は終わりぬ

 白銀の馬 再び天に帰り 人人は悲しき歌 とこしへに語り伝えぬ……


 歌い終える頃には、ノエイルの胸は深い悲しみに満ち満ちていた。だが、その感情も終曲を奏でるうちに、少しずつ安らいでいく。最後の音が空気の中に消えてしまうと、ノエイルの内側には、波ひとつない静寂が広がっていた。


 ノエイルが自らのうちから外へと意識を戻すと、ルクンの姿が目に映る。放心したように虚空を見つめる彼の顔と、詩物語の中の、戦に散った若者の姿が重なったような気がして、ノエイルははっとした。


 直後、天幕エッル内にアイスンたちの拍手がわき起こり、場にはいつもの穏やかな空気が戻った。


「いかがでしたか? 娘の弾き語りは」


 アイスンに水を向けられ、ルクンは我に返ったように顔を上げる。


「──ああ、失礼致しました。……とても素晴らしい、歌と楽の音色でした。聴いているうちに、まるで、自分が詩物語の登場人物になってしまったような心持ちになる……」


 ルクンは言葉を区切ると、ノエイルと目を合わせ、ほほえんだ。


「非才ながら、わたしにも楽の心得がございますが、あなたの才は非凡なものです。是非、これからも、多くの人のために、詩物語を奏でていただきたい」


 思わぬルクンの賛辞に、ノエイルはびっくりしてしまった。


「……あ、ありがとうございます」


 少しの間を置き礼を述べたあとで、頬が火照っていることに気づく。だが、ノエイルは嬉しかった。胸の奥から尽きせぬ喜びが込み上げてくる。

 それは、ノエイルが生まれて初めて、身内以外にも歌を聴いてもらいたい、と思った瞬間だった。

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