第六章 『水の女神と聖ハミードの話』

 翌日、ノエイルはルトフィーの弟、スレイマンとともに、日が落ちる前に山羊の群れを連れて帰ってきた。皆で選んだ晩餐用の山羊を、ルトフィーは父、ミールザーに手伝ってもらい、苦しませぬように屠った。


 手の空いたルトフィーとミールザーが、ルクンをバーブル長老の天幕エッルまで迎えにいき、ノエイルはアイスンと一緒に料理に取りかかった。ルトフィーの母、エミーネやその娘たちも忙しく立ち働く。


 耳に残る山羊の悲鳴と、仲間の死を嘆き悲しむ山羊たちの鳴き声がまだ耳に残っていたが、ノエイルは努めて何も考えずに手を動かした。

 料理の下ごしらえが終わる頃には、ルトフィーたちがバヤードに乗ったルクンを連れて戻ってきた。


 女たちが料理を作っている間、男たちは天幕の中でお茶ジュイを飲み、歓談をして過ごした。

 やがて、ノエイルたちが山羊肉を中心とした料理を運んでくると、男たちの歓声が上がった。ノエイルたちは織物の食卓の上に、湯気を立てる料理の皿を並べていく。


 ジェラールを救ってくれた賓客として、ルクンは天幕の入口と相対する主の席に座っている。

 料理を並べ終えたノエイルたちは、目上の客人への、正式な挨拶をすることになった。


 まず、ルトフィーの二人の妹が、年齢順に挨拶する。左手を胸に当てたまま、ルクンの右手を取り、口づけたあとで、彼の手の甲を可愛らしい額に当てる。

 ルクンは笑顔で、右手を胸から額へと当てる仕草で礼を返していた。だが、前へ進み出たエミーネが彼の右手を取ろうとしたとたん、表情が強ばった。


「どうかなさいましたか?」


 エミーネが心配げに問いかけると、ルクンは困ったように言った。


「いえ……あなたに非があるわけではないのです。ただ、わたしの故郷では女人と──特に──成人した女人とは、この挨拶をする習慣がないものですから」


「お気になさることはありませんよ。ここはマーウィルですから」


 アイスンの一声に抗いがたいものを感じたのか、ルクンは大人しくエミーネに右手を差し出し、挨拶を続けた。


 ルクンの動揺が一際強くなったのは、次にノエイルが進み出た時だ。初めノエイルは、彼が女人との馴染みが薄いと言っていたことを思い出し、恥ずかしがっているのだろう、と思った。

 しかし、こちらに伝わってくるルクンの緊張は異様なほどで、ノエイルは口を開くことすらできなかった。混乱するノエイルの頭に、ふと、ある言葉が閃いた。


(──この人、『わたしのことを知っている』)


 自分でも予期せぬ閃きに、ノエイルははっとした。急に、足下から寒気のようなものが這い上ってくる。ノエイルは、初めてルクンのことを怖いと思った。


 本当なら、今すぐ彼の前から離れたかった。けれど、彼はジェラールの命を救った賓客で、そのような無礼は許されるはずもない。同じように、ルクンにとっても、ノエイルとの挨拶を辞退することは難しいはずだ。


 ルクンと目を合わせられないまま、ノエイルは動けずにいた。


「──挨拶の前に、お言葉をいただけますか」


 不意に、周りには聞こえないくらいの声で、ルクンが囁いた。ノエイルが顔を上げると、彼は真摯に続けた。


「『あなたに祝福を』と」


 ルクンの声は、声量を絞っているのに、不思議な力強さがあり、ノエイルは訳が分からないまま、頷いた。


「──あなたに、祝福を」


 ノエイルは囁いた。


「ありがたくお受け致します」


 ルクンはゆっくりと右手を差し出してきた。ノエイルは震えそうになる手を、彼の手に添える。形のよい、細長い指をしているのに、ルクンの手は、亡き父やジェラールよりもたこが目立った。


(武器の修練でできたものかしら……きっと、よほどの……)


 そう思った瞬間、ノエイルの胸は酷く痛んだ。さっきまで、彼のことを怖がっていたはずなのに……。


 手を取った時は、緊張のあまり気づかなかったが、口づけたルクンの手は温かかった。挨拶を終えたノエイルは、静かに手を離し、ルクンを見た。


 ルクンの顔は、まるで五感の全てを切り離してしまったかのように、無表情だった。


 間もなく、いつもの穏やかな表情に戻ると、ルクンは挨拶を返し、ノエイルは彼の前から下がった。

 アイスンは一家の最年長者であり、族長代理でもあるから、ルクンへの挨拶も略式ですませる。ルクンがようやくほっとしたような顔を見せたので、何だか、ノエイルまで安心してしまった。


 食事が始まった。山羊が屠られた時は、神妙な顔をしていた子供たちも、今は喜んで肉を頬ばっている。

 主に羊を食べていたというルクンは、料理に使われている肉が山羊だと知って驚いていたが、山羊の煮込み鍋を一口食べると、笑顔になった。


「山羊肉を食べたのは初めてですが、下手な羊肉よりおいしいですね」


「お口に合ってよかったわ。ミル・シャーンでは、大切なお客さまには、山羊をお出しするしきたりですから」


 アイスンは嬉しそうにほほえんだ。ノエイルも母と同じ気持ちだった。料理をした甲斐があったというものだ。


 ルトフィーの弟、スレイマンは大の駱駝好きで、ルクンが駱駝を自在に乗りこなすと知り、すっかり彼に懐いてしまった。スレイマンは、砂漠のことやルクンの故郷についてさかんに知りたがり、しまいには、母親のエミーネが顔を赤くして怒り出した。


「失礼でしょう、スレイマン! 族長ご一家のお客さまを、そんなに質問攻めにするものじゃありません!」


 ルクンは苦笑しながら、エミーネを制した。


「いえ、構いません。興味を持ってもらえて、むしろ嬉しいくらいですよ。──そうだな、じゃあ、スレイマン。俺の故郷のことを分かりやすく説明できる話を、ひとつしてみようか」


「はい、お願いします!」


 スレイマンが目が輝かせて頷き、ノエイルたちも、「是非」とルクンの話を促した。こうして、焚き火を囲みながら、ルクンの話が始まったのである。


   ***


 皆さんも知っての通り、俺は南東のウルシャマ砂漠からきた。ウルシャマにはマーウィル人のように遊牧を営む民も多いが、たくさんの村や都市もあって、農耕や牧畜、交易で潤っている。その中のひとつが、砂漠の真ん中にたたずむ俺の故国、ハサーラだ。


 ハサーラの隊商は、百を越える駱駝を引き連れて、東西南北を股にかけているから、スレイマンも名前くらいは聞いたことがあるだろう?


 ……馬でも越えられない高い壁が有名? そう。ハサーラという国は、堅牢な高い壁に囲まれた街と、その周りの村々のことなんだ。


 ──そうそう、話は変わるが、【邪視】という言葉を聞いたことがあるか? 既にお察しかもしれないが、その目に見つめられると災いが降りかかるという、魔を呼ぶ瞳のことだ。この辺りでは、馴染みのない信仰かもしれないが、ハサーラより、もっと南の土地では、今も根強く残っている。

 

 砂漠からきた女人の旅人は、面紗を被っている者が多いだろう? あれはな、砂よけでもあるが、異境で【邪視】に遭わないためのまじないでもあるのさ。


 何故、そこまでするか、って? 要するに、【邪視】というのは、妬みの視線のことだからだ。たとえば、多少人に羨ましがられるくらいなら鼻が高いかもしれないが、それが酷い嫉妬になってしまうと、話は別だ。

 

 人から、ぎろっと睨まれると、嫌な気持ちになるだろう。それが、魔だ。【邪視】というのは、何も特別なものじゃない。そこら中に、ありふれているのさ。


 それに、砂漠にはシャンニーという、普段は目に見えない、変幻自在の精霊がいて、色々な悪さをすると信じられている。シャンニーがもたらす不幸と、【邪視】がもたらす不幸。いかにこれらから逃れるかというのが、過酷な環境の砂漠では重要なんだ。


 ……さて、話を戻そうか。


 三百年ほど昔、ハサーラはまだ、低い土塀に囲まれただけの、小さな街だった。年に一回か二回しか雨の降らない砂漠の真ん中に、ぽつんとあるハサーラの命綱は、その頃から、地底を流れる水脈だった。地下水が湧き出る泉を中心に、木が育ち、花が咲き、人々は井戸を掘って、自分たちや家畜の喉を潤し、畑を耕す。


 ハサーラの周りには他に水源がなかったから、砂漠を突っ切る旅人や商人たちは、自然とハサーラに立ち寄るようになった。緩やかに、だが確実に、ハサーラは人と物とが集まる、商業の中継地になっていった。


 ところが、物事はそう上手くはいかないものでね。


 ある月の綺麗な夜、水汲みに出かけたハサーラの男が、不思議な娘を見かけた。娘は砂よけの面紗も被らず、異国風の白い衣を纏って、井戸の周りを散歩していた。

 ウルシャマでは男女の別が厳しいから、こんな夜更けに出歩いている娘を、男は不審に思った。それに、娘の見慣れぬ格好に、少なからず好奇を覚えたんだろう。男は恐る恐る、娘に近づいていった。


 ──と、男の足下で石ころが跳ねた。


 その音で、娘は男に気づき、振り返った。娘も驚いただろうが、男はもっと驚いた。何しろ、娘の瞳は、【邪視】として最も恐れられている青い色をしていたのだから。


 男は魔除けの言葉を唱えながら、飛ぶような速さで逃げ出した。


 ……馬鹿げている、って? まあ、それはそうだな。青い瞳が【邪視】だったら、この天幕の中は【邪視】使いだらけ、ということになってしまう。だが、ハサーラをはじめとしたウルシャマの中部以南に住んでいるのは、黒っぽい目の人間ばかりだからな。悲しいが、人というのは、見慣れぬものを恐れるんだよ。


 次の日、自分を襲うかもしれない災いの恐ろしさに、いても立ってもいられなくなった男は、町の長老たちに昨夜のことを話しにいった。長老たちは、「その娘はきっと『シャンニーヤ』──つまり、女のシャンニーだろう」と言った。


 長老たちから相談を受けた神官たちは、井戸の周りに魔除けの護符を貼り、塩をまき、芸香を焚いた。これでシャンニーヤを追い払える、と誰もが思った。


 確かに、それ以降、青い目の娘が現れることはなくなった。だが、時を同じくして、井戸の水が涸れ始め、ハサーラの民たちはうろたえた。水がなければ、ハサーラは死の町になってしまう。

 新しく井戸を掘ろうとしても、神官たちが神々に祈っても、水は涸れていく一方だった。学者たちは、「このままでは水は一年と持たないだろう」と言った。


 街を捨てるしかない、と長老たちが考え始めた頃、ハミード・ウーラ・ヘイダルという神官だけは、神殿に籠もり、昼も夜も神々への祈りを捧げ続けていた。ある夜、疲れ果て、うつらうつらとしていたハミードの耳に、神々しい声が聞こえてきた。


〈汝らがシャンニーヤだと思い、追い払ったのは、このハサーラを潤している水の女神そのものぞ。女神は痛く立腹し、故郷の湖に帰ってしまった。女神を呼び戻したくば、水神たちの母であり長である水神の女王に会い、民の非礼を詫びるがよい。水神の女王の住まう湖は、砂漠を越えた遙か北西の地にある。川の上流を目指せば、いずれ湖に辿り着くであろう〉


 我に返ったハミードは、急いで旅支度を始めた。とびきりの駱駝と駿馬を選び抜き、三人の仲間とともに、湖へと旅立った。


 砂漠を越え、丘を越え、山を越え、川の流れに沿いながら、ハミードたちはひたすら湖を目指した。だが、湖へと至る道は、霧の立ち込める深い森に囲まれていてな。ふとした拍子に、ハミードは仲間たちとはぐれてしまった。

 

 それでも、ハミードは湖に向かって馬を進めることをやめなかった。一刻も早くハサーラに水を取り戻したい。その想いが、ハミードの恐怖と不安を吹き飛ばしていたんだろう。


 ハミードがなおも進んでいくと、霧の中から、牙を剥き出した巨大な馬が現れ、襲いかかってきた。自分は馬に化生したシャンニーに喰われて死ぬのか──そうハミードが思った矢先、巨大な馬は急にその動きを止めた。


 ハミードが呆然としていると、いつの間に近づいてきたのか、小さな少女が馬をなだめている。少女の衣は異国のもので、その瞳が目の醒めるような青だったことから、ハミードは彼女が水神だと悟った。

 

 ハミードは少女に、自分がここまできた理由を語り、水神の女王に会わせてくれるよう頼んだ。少女が頷くと、みるみるうちに霧は晴れ、すぐそこに、限りなく澄み渡る湖が広がった。


 少女が母である水神の女王を呼ぶと、七色に輝く髪をなびかせた美しい女人が、湖面から現れた。驚いたことに、女人には水滴ひとつ、ついていなかったから、このお方こそが水神の女王だ、とハミードはすぐに確信した。


 平伏したハミードは、ハサーラの民を代表して水神の女王に詫び、水源を司る娘御にお戻りあそばして欲しい、と祈った。すると、声なき言葉が、ハミードの頭に浮かび上がった。


〈ハサーラに戻るがよい〉


 恐る恐るハミードが顔を上げると、水神の女王たちの御姿は、既にどこにもなかった。


 夢から醒めたような心地で、ハミードが佇んでいると、懐かしい声がする。見ると、ハミードを捜していた仲間たちだった。


 ハミードたちはハサーラに帰ると、急ぎ長老たちに森と湖での出来事を伝え、水源を司る娘御をお迎えする儀式に取りかかった。ハサーラの民は揃って、神殿で水神の女王とその娘御たちに祈りを捧げた。

 

 すると、どこからともなく殿内に霧が立ち込め、一箇所に寄り集まった。乙女の姿となった霧は、「そなたらを赦そう」と、はっきりとほほえまれた。水神の女王の娘御が、ハサーラにお戻りになったんだ。


 その時から、井戸には清らかな水が戻り、【邪視】やシャンニーの脅威までもが消え、ハサーラはますます栄えた。何故なら、ハサーラの水の女神は、御身を呼び戻すために危険を冒したハミードを深く愛され、夫にと望まれたからだ。


 ハサーラを救った功績を讃えられ、死後は聖人となったハミードは、生涯を水神の女王とその眷族けんぞくを祀る神殿、【水の院】の創設に捧げた。院主の位は代々、女神と聖ハミードの子孫が受け継ぎ、ハサーラの民から深い崇敬を受けている。


 ──これが、俺の国ハサーラに伝わる『水の女神と聖ハミードの話』だ。

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