第二十四章 移ろい

 洞窟の中にも、夜は訪れる。たとえば夜光蝶は、昼間よりも夜の方がずっと活発に動く。真夜中、ルクンは毛布の上に仰向けになったまま、じっと天井に群れる夜光蝶を見つめていた。


 別のことを考えようとしても、絶えず頭に思い浮かぶのは、ノエイルのことだった。


(俺は、ノエイルを愛している……)


 彼女が誰であっても。どんな姿をしていても。


 もう、自分でもごまかしようがなかった。ノエイルと間近に見つめ合い、彼女の瞳が揺れた瞬間、ルクンは確かに、自分の中でかけ金が外れる音を聞いたのだ。


 そして、ルクンは悟った。思い出せないほど前から、ノエイルに惹かれ続けていたことを。ラグ・メルを恋い慕うことへのおそれが、その渇望にも似た想いを、覆い隠していただけだったのだと。


「……だが、気づいたところで、どうしようもあるまい……」


 ルクンは独り、呟いた。


 ラグ・メルとは、人に似て、人にあらず。雨や地下水の恵みによってハサーラを潤す慈悲の心を持ちながら、砂漠が凍りつく冬季に豪雨を降らせ、洪水を引き起こす恐ろしい心も持つ。

 人々が不用意に灌漑かんがいを行えば、塩害をもたらし、農地を壊滅させることもある。ラグ・メルは畏怖すべき存在。それゆえに、我らはラグ・メルを女神として崇拝するのだ──。


【水の院】での修行中、ルクンはしつこいほどにそう教え込まれ、ラグ・メルに邪心を持たぬこと、どのような状況にあっても、決して男女の仲にならぬことを、誓約させられた。


 もし、戒めを破れば、ハサーラはラグ・メルの怒りに触れ、滅んでしまうだろう。


 今まで、ルクンはその教えを当然のように受け入れ、守ってきた。ルクンにとって、ローダーナは母にも等しい存在だ。その姉妹に邪心を抱くなど、ありえないことだった。


 だが、思い込みはあっさりと覆され、ルクンはすんでのところで誓いを破りそうになった。人の心とは、何と移ろいやすいものなのだろう。


(俺は──もう少しで、ハサーラとローダーナを裏切るところだった……)


 ルクンはぞっとした。ハサーラの浄化を巡り、聖湖へ帰ってしまったカロルは、ローダーナにもハサーラにも厳しい態度をとっている。もし、ノエイルに何かあろうものなら、ハサーラはもちろん、ローダーナも簡単に見捨てられてしまうのではないだろうか……。


 それだけは、何としてでも避けなければならない。今日あったことは忘れ、今まで通り、淡々とノエイルを守りながら聖湖を目指すだけのことだ。

 そう自分に言い聞かせた時、不意に、間近で見た、ノエイルの悲しそうな顔が鮮やかに蘇った。全てを悟ったかのような、湖面のように澄んだ、青い瞳が。


 ルクンははっとして身を起こすと、夜光蝶が飛び交う闇の中を呆然と見つめた。

 次にルクンの頭に浮かんだのは、デュラン氏族に連行されそうになった時、駆け戻ってきてくれたノエイルの姿だった。


 あの時、ノエイルが何を思い、自分を助けてくれたのか、ルクンはようやく知った。心臓を貫くような痛みが、ルクンのうちを駆け抜けていった。

 目の前を、つがいの夜光蝶が舞うように飛んでいく。

 ルクンの頬を一筋の涙が伝い落ちていった。


   ***


 大雨が降ったその翌日、ノエイルは乗馬の勘を取り戻すために、早速リュヌドゥに跨った。


 ルクンは、無理をするな、と言ってくれたが、今、ノエイルにできることは、このくらいしかない。だから、ノエイルはルクンに甘えずに、できるだけ早く、旅立ちの準備を整えようと心を決めていた。


 昨日の出来事について、ルクンは何も言ってこなかった。ノエイルも、そのことには一切、触れなかった。今はそんなことを気にしている場合ではない、と思ったからだが、実際のところ、ノエイルはルクンの気持ちを確認するのが、怖かったのだ。


 ツァク・ラックに乗ったルクンに付き添われ、ノエイルはリュヌドゥを軽く走らせた。最初こそ、いまいち感覚が思い出せなかったが、緩急をつけていくうちに、少しずつ調子が戻ってきた。


「うん、大分いいみたい。……ねえ、ルクン、もう少し遠くへいってもいいかしら」


「仕方ないな……だが、無理な走り方はしないでくれ」


 念を押すルクンに頷き返すと、ノエイルはリュヌドゥに声をかけた。リュヌドゥは待ってました、と言わんばかりに速度を上げる。リュヌドゥには、どこかいきたいところがあるらしく、ずんずん進む。ノエイルは手綱やかけ声で足取りを調整しながら、リュヌドゥの好きに走らせた。


 大雨で地面がぬかるんだ荒野を進んでいくと、大きな水たまりに出くわした。ノエイルは水たまりを迂回するため、速度を緩める。だが、その傍らにある蹄の足跡を見て、思わず手綱を引いた。


「これ、駱駝の足跡だわ! バヤードのものに似ていると思わない?」


 ルクンはツァク・ラックをとめ、食い入るように足跡を見つめていたが、やがて大きく頷いた。


「間違いない。バヤードのものだ。ここで水を飲んで、休んでいったんだろう。──無事だったんだな、よかった……」


 深く安堵の息をつくルクンを見て、ノエイルはいても立ってもいられなくなる。


「捜しましょう。足跡の固まり具合から見て、まだ、そう遠くへはいっていないはずよ。足跡を辿っていけば、きっと見つけられるわ」


「ああ、いこう」


 きっとリュヌドゥは、昨日外に出たときに、バヤードの匂いを嗅いだのだ。雨は生き物の匂いを消してしまうが、リュヌドゥはどこでバヤードの匂いがしたのか覚えていて、ここまでノエイルたちを導いてくれたのだろう。


 足跡を辿りながらノエイルがそう言うと、ルクンは生真面目な顔と口調で、リュヌドゥに礼を言った。リュヌドゥのほうは気のなさそうな鳴き声を上げただけだったが、ノエイルはほほえましい気持ちでその様子を見ていた。


 しばらく進むと、足跡の先に、幾分か痩せた、こぶがひとつの駱駝の影が見えてきた。


「バヤード!」


 ルクンがツァク・ラックの速度を最大限にして駆け寄ると、バヤードはガーガーと大きな喜びの声を上げた。


 ツァク・ラックから飛び降りたルクンは、バヤードの長い首を抱きしめ、胴を手でさすった。ルクンの顔に丸い鼻先を寄せるバヤードの目は、とても穏やかだった。


 ノエイルは胸が一杯になってしまい、リュヌドゥから降りると、ルクンとバヤードをそっと見つめていた。

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