第三十五章 妙なる調べ
我に返ったノエイルは、ただ自分の身体を抱きしめ、かたかたと震え続けた。
(──あの子供は、わたしだ──)
幻影の中の子供と、今の自分がぴったりと重なった。
ノエイルはアンディーンが大好きだった。母と同じ金の髪に、優しい青い瞳をした姉は、ノエイルの自慢だった。たまにしか帰ってこない姉に会いたがって、べそをかいては他の兄姉たちを困らせたものだ。
リュヌドゥに乗って、上手に湖の中を泳げるようになると、ノエイルは陸に出ることを考え始めた。もちろん、アンディーンに会うためだ。前触れもなく会いにいって、姉を驚かせ、喜んでもらいたかった。
水晶宮には、誰も使わなくなった秘密の裏口がある。その裏口を通れば、兄姉たちに気づかれずに、外に出ることができた。
もっとも、感づかれるのは時間の問題だったから、ノエイルは焦った。早く陸に上がらないと、扉は塞がれてしまう。そうしたら、当分アンディーンに会えなくなるだろう。
リュヌドゥはあまり乗り気ではないようだったが、ノエイルがせがむと仕方なく言うことを聞いてくれた。
湖面に上がったノエイルは、川を下り、アンディーンの気配を捜した。思念で呼びかければ応えてくれるかと思っていたが、時折、見知らぬ精霊たちがからかってくるばかりだ。
最初は楽しかった陸の風景も、よそよそしく恐ろしいもののように思えてくる。帰りたい、と言うと、リュヌドゥは賛成してくれた。
その時だ。苦しみにのたうち回るような思念を感じたのは。どこか懐かしいその思念に惹かれ、ノエイルは生まれて初めて陸に上がり、森に入っていった。
そこには、アンディーンのラグ・ソン、オーレボーンがいた。湖では見たこともない、嫌な臭いのする細い馬具を顔に着け、その馬具についた金具に結ばれた綱で、木に繋がれている。いつもオーレボーンが身につけていた美しい鞍の代わりに、これもまた酷い臭いのする簡素な鞍が、その背に乗っていた。
当時のノエイルでも知っていたことだが、ラグ・ソンは自分の馬具を奪われ、人界の馬具を着けられてしまうと、俊足以外の能力を失ってしまう。オーレボーンは心の声で話すことができず、ただ苦しげに土を蹴るばかりだった。
擦り傷だらけのオーレボーンを見て、ノエイルは涙ぐんだ。どうしてお兄さまがこんな目に遭っているのだろう。
リュヌドゥから降りたノエイルは、鞍を外し、オーレボーンを縛りつけている綱を、魔法の力で解き放った。
おそらく、オーレボーンはあのあと──。
ノエイルの震えは頂点に達した。
オーレボーンはマンスールの元へ向かい、彼を──咬み殺したのだ。
(わたしがお兄さまを自由にしたから……?)
ノエイルは震える手で両肩を抱きしめた。酷寒に似た寒気に、凍えそうになる。
「ノエイル! 大丈夫かい? ノエイル!」
カロルの声が聞こえた。だが、ノエイルは応えられなかった。岩のように重い罪の意識に、心も身体も押し潰されそうだった。カロルはなおも呼びかけ続けてきたが、その声も段々と遠のいていく。
(消えてしまいたい──)
自然とノエイルは願っていた。
がくん、と身体中の力が抜け、ノエイルは突っ伏した。顔が泉の面にあたり、ばしゃんと水飛沫が跳ねた。冷たいはずの水温が全く感じられない。
(このまま、アンディーンお姉さまの元に、沈んでしまいたい──)
そうして、アンディーンとともに眠りにつく。それが最善の道だ。
泉に入りたい。入らなければ。
起き上がろうとしたが、腕にも足にも力が入らない。泉に顔を半分浸したまま、ノエイルはうつ伏せのままでいた。左目には澄んだ泉の青が、右目には枝葉に覆われた空が映っている。
風が吹いた。葉擦れの音が聞こえる。鳥の声が聞こえる。初め高かった鳴き声は、次第に低くなっていき、やがて笛のような音に変わった。
この音は何だろう。どこかで、聴き覚えがあるような気がする。ノエイルは耳を澄ました。聴く者を力づけるような音色だった。耳を傾けているうちに、音色が記憶の中の音と重なっていく。
(
ノエイルははっとした。この音はミル・シャーンでともに演奏した時の、ルクンの縦笛の音にそっくりだ。顔を跳ね上げ、両耳で音を拾う。
空耳ではない。はっきりと縦笛の妙なる調べが聴こえてくる。
「どうして……」
こんなところでルクンの音が……? 彼とは湖のほとりで別れたはずなのに。
〈──ノエイル──聴こえるか──? ノエイル──〉
笛の音が聴こえ続ける中、頭の中で、ルクンの声が響いた。とっさにノエイルも思念で応える。
〈ルクン?〉
〈ああ。そうだ〉
安心したような声だった。今まで通りの口調。ノエイルの胸に、熱いものが込み上げる。
〈どこにいるの……?〉
〈聖湖からマウィン川を下っているところだ。リュヌドゥの背を借りてな。縦笛の音も聴こえるだろう? 音は風精に運んでもらっているんだ〉
いったん間を置いて、ルクンは続ける。
〈リュヌドゥが、あなたの様子がおかしいことを感じ取ったんだ。──ノエイル、諦めるな。ここで諦めたら、あなたの姉君は呼び戻せない〉
〈でも──わたしは、とんでもないことをしてしまったのよ! ──十一年前に〉
ノエイルは叫んでいた。まだこんな思念を出す余力が残っていたことが、自分でも不思議だった。
〈今は、そんなことは関係ない〉
絞り出すようなルクンの声だった。
〈話は、大体リュヌドゥから聴いた。ノエイル、あなたの苦悩は分かる。だが、今あなたが諦めてしまったら、誰も救われない。間違っても、姉君のあとを追いたい、などと考えるな。それでは、リュヌドゥも──俺も、救われない。ハサーラやローダーナたちのことを抜きにしても、俺はあなたに健やかでいて欲しい〉
一瞬、ノエイルは、自分が夢を見ているのかと思った。さっきまでのような悪夢とは違う、極上の夢だ。彼とはもう会えないだろう、とまでに、思っていたのに。
(そうか──あの夢──)
ノエイルは幼い頃から繰り返し見ていた夢を思い出した。矢傷を受けて眠っていた時にも見た夢。異国語で語りかけてくる少年の夢。決まって少年は、思念でこう伝えてきた。
──どうか、ご無事で。
──僕が、必ず迎えに参ります。
涙がこぼれた。あれは、彼だ。自分のために祈ってくれていたルクンの想いだ。
ノエイルは手足に力を入れた。先ほどまでが嘘のように、力が入る。ノエイルは、ようやく起き上がることができた。
ルクンが言う。
〈ノエイル、アンディーンを目覚めさせて差し上げられそうか?〉
〈だめなの。どんなに呼びかけても、反応してくれなくて……〉
ノエイルは、目の前にいないルクンに首を振って見せた。
ルクンはしばしの間考え込んでいたようだったが、〈──歌はどうだろう〉と、言った。
〈歌?〉
〈水神や精霊は歌が好きなんだ。ノエイルだってそうだろう?〉
〈歌──〉
ノエイルの脳裏を、雷光のようにひとつの曲名が閃いた。
あの曲でよいのだろうか。ああ、しかし、この曲に賭けるしか、もはや手はない。
〈ルクン、「白銀の馬」を、覚えている?〉
〈ああ、もちろん。覚えているとも〉
ルクンの声に、懐かしさが滲む。ノエイルには、それが嬉しい。
〈あの曲は、マンスールが好きな曲だった、とジャハーンが教えてくれたわ。もしかしたら、姉もあの曲を知っているかもしれない。それに、「白銀の馬」の旋律は、遊牧の民たちの好きな調べが使われているから。本当にマンスールがアンディーンお姉さまを愛していたのなら、口ずさんであげていたと思うの〉
〈そうかもしれないな〉
〈ルクン、今からあの曲を吹ける?〉
〈一部しか覚えていないが……〉
〈それでも構わないわ。とにかく吹いて。そこに、わたしが歌をのせるから〉
〈分かった〉
縦笛の音色が再び鳴り響き始めた。「白銀の馬」の中で、最も旋律が盛り上がる部分だ。大きく息を吸い、ノエイルは歌った。
ノエイルが歌うにつれて、ルクンも曲を思い出してきたらしい。悲しげな調べを奏でていた縦笛の音が、やがて、穏やかなものへと変わっていく。
泉の内側から、こぽり、と水泡が上がってきた。
アンディーンに違いない。ノエイルは最初から「白銀の馬」を歌い始める。
二人が出会ったその日。穏やかな幸せに包まれていた日々。そして、戦──。
戦によって二人が離ればなれになる
(逝かないで!)
若者が戦場で倒れる場面を歌う瞬間、ノエイルは強くそう願った。
〈逝かないで──〉
自分のものではない心の声を、ノエイルは聞いた。だが、まだ弱々しい。ノエイルはルクンの演奏に合わせ、歌い続けた。
〈逝かないで!〉
はっきりとした思念が、ノエイルの心を打った。
〈逝かないで! ──マンスール!〉
間違いなくアンディーンの声だ。
アンディーンが目覚めようとしている。マンスールを失わせてしまった悔悟の念に震えながら、ノエイルは泉の中に入らねば、と思った。
〈ノエイル! 必ず戻ってきてくれ!〉
ノエイルの意図を察したらしい、ルクンの声が聞こえた。湖で別れた時とは、全く別の言葉が、ノエイルの口から滑り出る。
〈分かったわ! 必ず戻ってくる!〉
気づくと、ノエイルはまた泣いていた。
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