第三十七章 【織り女】

 水晶宮へ戻るなり、ノエイルはラグ・メルの正装に着替えさせてもらえるよう、カロルに頼んだ。雨糸を紡ぐには正装でなければならない、という決まりはないが、アンディーンの仕事を引き受けた以上、ラグ・メルの衣に袖を通したかった。


 ノエイルの申し出に、カロルは喜んで用意をしてくれた。鮮やかな青の外衣が印象的な、裾の長い白衣である。


「よく似合っているよ、ノエイル」


 そう言って、カロルは喜んでくれた。


「ありがとうございます、お姉さま。──それで、雨糸を紡ぐために、ひと部屋お貸しいただきたいのですけれど──」


「分かった。アンディーンと同じようにするんだね。あの子もよく、『部屋に籠もったほうが集中できる』と言っていたよ」


「はい。わたしは、アンディーンお姉さまの紡ぎ方を、そのまま受け継いだものですから。──それと、カロルお姉さまにも、同じ部屋でご一緒に紡いでいただきたいのです」


「わたしが?」


 カロルは目をみはったあとで、複雑な表情になった。


「そうか……お前は、アンディーンの跡を継ぐ気はないんだね……。わたしとしては、そのほうがよかったんだけどね」


「申し訳ありません。わたし、どうしても、もう一度陸の故郷に戻りたいのです。それに、陸に関しても水に関しても、様々なことをご承知のお姉さまのほうが、【雨糸を紡ぐ娘】には、向いていると思うのです」


「戻るのは──あの男のためかい?」


 ノエイルは真っ赤になった。


「ち、違います! 陸でわたしを育ててくれた人たちに会うためです」


 ──必ず戻ってきてくれ。


 ノエイルが泉の中に入る前に、あの人はそう言った。

 それは、アンディーンと同じ道を辿らないで欲しいという意味なのか、それとも、陸に戻ってきてくれ、という意味なのか。


(どうして、わたしを追ってきてくれたの──?)


 さらに、アンディーンのあの言葉……。


 ──あなたを愛する人が、あなたを待っているわ。


 それ以上、ルクンのことを考えると、甘美な音に頭の中をぐちゃぐちゃにされそうになる。ノエイルは雨糸を紡ぐことだけに神経を集中することにした。

 カロルは少し寂しげに、「そうか」と頷くだけだった。そして、ノエイルを伴い、アンディーンが雨糸紡ぎに使っていた部屋に、案内してくれた。


 部屋は明るい光に満ちていた。椅子の上に、目に優しい光を放つ水晶球が吊り下がっており、雨糸を紡ぐにはよい条件だった。

 室内には、湖から引いた小さな川と池があり、そこが雨糸を紡ぐための水源となっている。水源からは薄霧が立ち、今にも紡がれるのを静かに待っているかのようだ。


 二人は長椅子に並んで座り、それぞれの紡錘つむを取り出した。ノエイルは水晶のようにきらめく、アンディーンの紡錘に水気を巻いた。アンディーンから受け取った記憶通りに雨糸を紡いでいくと、カロルの何倍もの早さで糸が紡ぎ上がっていく。


「ノエイル、もうそのへんにしておこうね」


 カロルが苦笑しながら言った。


「本当に、アンディーンは雨糸紡ぎの名人だったんだね。ちょっと難しいが、わたしも妹たちに負けないように研鑽を積んでおくよ」


「お姉さま、では──」


「ああ、いくよ。砂漠へ」


 それこそが、ノエイルが待ち焦がれた言葉だった。


 ようやく雨が降るのだ。ルクンの故郷に。


「あの、お姉さま……」


 気づくと、ノエイルは口にしていた。


「わたしも、ご一緒してもよろしいでしょうか」


「そう言うと思った」


 カロルは苦笑する。


「もう一度、わたしの背を貸すよ」


「その件なのですが、わたし、自分でんでいこうと思っているのです」


 おずおずとノエイルが言うと、カロルは目を丸くした。


「お前が翔ぶ──?」


「驚かれるのも、無理はありません。でも、わたしは、十一年前、一度翔んだのです──逃げるために」


「──ああ」


 カロルは得心したようだった。


「お前が見てしまったものは、それほどまでに恐ろしかったんだね。だから、ここからずいぶん離れた場所で──」


 次の瞬間、ノエイルは言葉を失った。カロルがノエイルを抱きしめてきたからだ。


「本当に、辛い思いをさせてしまってすまない……」


「お姉さま。わたし、この十一年間、幸せでした。だから、どうかお気に病まれないで」


 ノエイルもまた、カロルの細い背に腕を回した。幼い頃は大きく見えた姉の身体はずっと華奢で、切なさを誘った。


   ***


 雨糸を袋に入れたノエイルとカロルは、リーエンの見送りを受けながら、再び水晶宮の外へ出た。この袋は見かけよりもずっと多くのものが入る魔法がかかっているのだそうだ。


 カロルが先に翼ある馬に化生したのを眺めたあとで、ノエイルは自分の肩胛骨に意識を集中させた。水中で呼吸をするためではない。自分も翼ある馬になるためだ。

 身体の中に畳み込まれている翼が、活性化するのが分かる。しばらくすると、全身が光を帯び始めた。


〈ノエイル! そのまま、自分の手足が長くなっていく様を想像して!〉


 カロルの言う通りに、ノエイルは自分の手足が馬のように長く、首は長く、たてがみも蹄も尻尾もあるのだと想像していった。


(そして、背中に虹色に輝く翼が生えている──)


 身体中がほんのりと温かい。手足が自然と湖底に着いた。水の中で両の翼を、ゆったりと羽ばたかせてみると、カロルが感嘆の声を上げた。


〈よくやったね、ノエイル! これで、お前も立派なラグ・メルの成年だ〉


〈成年……〉


 そうだった。ラグ・メルの成年は、翼ある馬に化生できてこそ、なれるものなのだ。感慨がノエイルのうちからわき起こる。


〈さあ、いこう、ノエイル。まずは湖の上を旋回してみよう〉


〈はい、お姉さま〉


 正直、焦る気持ちはあったが、飛行に失敗して、途中で脱落してしまってはどうしようもない。

 カロルが湖底を蹴る。ノエイルも同じように蹴った。既に体感しているカロルの速度についていくのは、骨が折れた。追いつこう、追いつこうとしている間に、ノエイルは湖面を突き上げていた。

 朧気おぼろげな記憶を手繰り寄せながら、翼をばたつかせ、風を捕まえる。


〈そうそう。そうやって、湖を周回してごらん〉


 カロルに言われた通り、ノエイルは風に乗りながら、あるいは自分の力で、湖を旋回し始めた。

 

 自分を見つめる視線に気づいたのは、その時だ。

 紺の衣を纏った若者が、黒い瞳で、じっとノエイルを見つめている。傍らには、リュヌドゥがたたずんでいた。


(──ルクン)


 ノエイルは焦慮した。無視を決め込めばよいのは分かっている。だが、もし、自分がノエイルだとルクンに知られてしまったら、どうすればよいのか。考えあぐねているうちに、ノエイルは集中を欠いた。平衡を崩し、もがく。感覚を取り戻せず、湖に落ちた。


「ノエイル!」


 湖面に叩きつけられる、と思った瞬間に、声が聞こえた。

 今度は思念ではない。間違いなくルクンの声だ。

 意外にも、湖面は優しくノエイルを抱き止めてくれた。立ち上がりながら、ノエイルは思った。


(ルクンは、わたしだと分かってくれた──)


 それは、嫌な感覚ではなかった。むしろ、不思議なくらいすっきりした気持ちだ。

 ノエイルはルクンの姿を捜した。ルクンは湖のほとりに走り寄ってくるところだった。膝から下は濡れそぼっている。リュヌドゥに跨り、深い川の流れに乗ったせいだろう。そうまでして、彼は自分を助けてくれたのだ。


「大丈夫か? ノエイル!」


〈お前が前に出すぎるから〉


 リュヌドゥがルクンに悪態をつく。ノエイルを助けてくれたあと、ルクンを再びこの場所に連れてきたのは、リュヌドゥらしい。


「ノエイル……すまない。驚かせてしまって」


 ルクンの元まで近寄っていって、ノエイルは応えた。


〈ううん、大丈夫……〉


「そうか……よかった」


〈あの〉


「うん?」


〈さっきは、ありがとう。助けてくれて……〉


「気にしないでくれ。あれくらい何でもない。それに、リュヌドゥのお陰だ」


〈──ねえ、ルクン〉


 ためらいがちに、ノエイルは尋ねた。


〈どうして、わたしがノエイルだって分かったの?〉


 リュヌドゥが教えたとも思えなかった。

 ルクンは少し言いにくそうに答えた。


「──あなたの翼に、見覚えがあったからだ」


〈そ、そうだったの〉


 そういえば、ルクンはノエイルの背中を見たことがあるのだった。以前、それを知った時は酷く混乱したものだけれど、今となっては、少し恥ずかしい。


〈ノエイル、そろそろ……〉


 カロルの声がした。再び別れの時が近づいている。


 離れたくない。


 それが、ノエイルの偽りない想いだった。だが、ノエイルには、やらねばならないことがある。そして、ルクンも故郷に帰らねばならない。ルクンには妹と祖母がいると聞いている。彼のことを待っている人たちもいるはずだ。

 だから、ノエイルは精一杯強がって言った。


〈──ルクン、わたしは、これからハサーラに雨を降らせにいくわ。ルクンもハサーラに戻って。そうすれば、あなたの望みが叶っているはずよ〉


 ルクンは目を見開いたのち、「そうだな……」とだけ呟くように言った。


「ノエイル、リュヌドゥ。世話になった。言葉では表し切れないほどに」


 ルクンはツァク・ラックとバヤードを呼ぶ。


「ノエイル、あなたの荷はここに下ろしていく。ハサーラに雨を降らせる件、よろしくお願い申し上げる」


 深々と頭を下げるルクンを見ていると、胸に、じんと熱いものが込み上げた。


〈……ありがとう、ルクン……〉


 それだけしか言えなかった。ノエイルは深く頭を下げ、それから、天空を仰ぎ見た。少し高いところで、カロルが自分を待っていた。

 ノエイルは地を蹴ると、翼を羽ばたかせ、天に向かった。先程よりも身体が軽い。風を捕まえると、ノエイルはひとっ翔びでカロルの横に並んだ。


〈いきましょう、お姉さま〉


〈もちろん〉


 二人は天を翔け、南東へと向かった。カロルが呼べば、風精がいくらでも風を送ってくれた。二人は遠慮なく翔け続け、やがて、眼下に黄金色の大地が広がるのを見た。


〈ここが、砂漠だよ〉


 カロルの声に、ノエイルは感嘆の息を漏らした。何という美しい大地だろう。ここが、ルクンを育んだ大地なのだ。

 感激するノエイルに、カロルの弾んだ声が届く。


〈ノエイル、上からいい風が吹いているよ。きっと、風精の【織り女】が、わたしたちを呼んでいるんだ〉


 カロルは上昇気流に乗って、天高く舞い上がり始める。ノエイルも遅れまいと、姉に続く。ほとんど雲のない青空に浮かぶ太陽を目指すように、二人は天に翔び上がった。


〈よくきてくれました、湖の娘ラグ・メルたちよ。今季はどうなることかと思っていたのですよ〉


 ノエイルたちに話しかけてきたのは、全身を大気の青で染め上げられたような、美しい女人だった。


〈申し訳ない。大分遅れてしまいましたが、雨糸は、確かにここにあります。──ノエイル〉


 カロルの言う通りに、ノエイルは鞍から下げた袋を鼻先で指し示した。少し無礼なような気もしたが、この姿ではどうしようもない。

【織り女】は、目を優しく細めると、優美な動作でノエイルの鞍から袋を取った。別の風精に袋を持たせると、袋から雨糸を摘み、空を翔び始めた。


 彼女が翔び回ったあとには、白い糸のような雲が残された。それは、空という織機に張られた縦糸のようにも見えた。

 縦糸の雲を張り終えた風精は、横糸を通し始めた。彼女が一本一本、横糸を通し終えるたびに、仲間の風精たちが透明な櫛を使い、雲を整えていく。まるで、青空に複雑な模様を織り上げようとでもするように。


 みるみるうちに、雨糸は大きな雲に変わった。それも、並大抵の雲ではない。とてつもなく巨大な雲だ。拡大していく雨雲から離れつつ、ノエイルはただただ圧倒されていた。


(これが──雨雲を織るということ──)


 雨雲の裾野に翔び上がり、眼下を見ると、雲が砂漠に巨大な影を作っていることが分かる。

 何か、小さな音が聴こえたような気がした。

 ノエイルが辺りを見回すと、傍で浮いていたカロルが小さな声で言った。


〈ノエイル、耳を澄ましてごらん。空ではなく、陸に〉


 ノエイルは地上に向け、耳を傾ける。聴覚は人の姿だった頃よりも、大分よくなっているはずだ。

 ぽつり、という音がかすかに聴こえた。


 雨の音だ。


 初めは小さかった雨音は、じょじょに大きくなっていき、ついには耳をつんざくような轟音となった。

 ノエイルは落雷にも似た音にもめげず、雨雲の下に急降下する。全身を雨が濡らした。だが、【湖の子】ゆえなのか、ノエイルの身体には、いつまでも雨水が留まっていない。


 いや、そんなことはどうでもよかった。

 今や眼下の景色には激しい雨水が打ちつけられ、金色の大地が濡れそぼり、小麦色へと変わっている。

 間違いなく、ルクンが待ち詫びていた雨だ。


 ハサーラはどこにあるのだろう。

ノエイルは、辺りをぐるりと翔び回った。やがて、雨にけぶる城塞都市が目に映った。タイナスよりも城壁の多い、巨大な街。あれが、ルクンの生まれ育った街……。

 カロルが呼びにくるまで、ノエイルは飽くことなく、ハサーラを上空から凝視していた。

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