第二十一章 バトの音色

 ノエイルは夢を見ていた。夢はひと続きのものではなく、切れ切れで、酷く懐かしかった。


 熱を出した時に、母がつきっきりで看病してくれた夢。幼い頃、父に抱えられるようにして、背の高い馬に乗った夢。ジェラールがばちで奏でる撥弦楽器ウルズ(弦の数は六本)で、ノエイルの好きな曲を弾いてくれた夢。


 夢は次々と移り変わってゆき、いつの間にか、幼いノエイルは見知らぬ、美しい女の人の膝の上にいた。美しい、といっても、それは女の人のいい匂いや、声の調子がそう思わせているだけで、顔立ちまでは分からない。

 女の人は、ノエイルに歌を歌ってくれた。今まで聴いたこともないような、それでいて涙が出るくらい懐かしいような、美しい歌を。


 歌は次第に人の声ではなくなり、最後には妙なる弦の調べに変わった。その弦の音に乗って、誰かの声が聞こえてきた。

 声変わりの時期に差しさかった時の、ジェラールの声に似ていた。何かを話してくれているのは分かるのに、異国語のようで、言葉の意味を、よく聞き取れない。ずっと前にも、同じような夢を見た気がするのに……。


 ノエイルが目を覚ましたのは、調べと話し声が、鳴りやんだ時だった。


 ノエイルはぼんやりとした意識のまま、身じろぎした。自分がうつ伏せに寝ていることは分かったが、身体がだるくて、起き上がることができない。身体が、まるで自分のものではないようだった。


 重たい瞼を開けると、肩口からかけ布団がかかっているのが見えた。身体の下には毛布が敷かれている。毛布の下には、黒っぽい、すべすべとした岩があった。

 どこかの岩場だろうか。だが、妙だ。外にいるわりには寒くない。エッルの中だって、冬は冷たい風が吹き込んできて、これほど暖かくはないのに。


 目が慣れてくるにつれ、ノエイルはもうひとつ不思議なことに気づいた。火が焚かれているわけでもないのに、辺りがそこはかとなく、光って見えるのだ。


(何だろう……)


 ノエイルは頭だけを動かして、光の正体を確かめようとした。

 ブルルッ、という喜びの声が上がった。ノエイルが目を上げると、すぐ脇にリュヌドゥが座っていた。


「リュヌドゥ……ずっと、いてくれたの?」


 ノエイルは片手を挙げて、リュヌドゥの鼻面を撫でた。リュヌドゥは頭を伏せながら、目を細めている。


 しばらくそうしていると、撥弦楽器バトの音色が聴こえてきた。夢の中で、女の人が歌ってくれた曲だ。耳を傾けているうちに、ノエイルは撥弦楽器の音が辺りに反響していることに気づいた。


「もしかして、ここは洞窟の中……?」


 独り言のように呟くと、リュドゥが肯定するように、優しい眼差しを送ってきた。


 誰がこの曲を弾いているのだろう。何故、自分はこんなところにいるのだろう。


 ノエイルは眠りに落ちるまでの記憶を手繰り寄せ始めた。確か、リュヌドゥに乗って、ルクンと一緒に追っ手から逃げる途中で……。


「……ルクン」


 その名を口に出すと、一気にそれまでの記憶が蘇った。そうだ。自分は逃げる途中、矢で背中を射られたのだ。はっきりと思い出せたのはそこまでで、それからの記憶は、断片的なものだった。

 ただ、誰かが常に自分の傍にいて、労ってくれていたことだけは、ぼんやりとだが覚えている。


 射られたはずの背中に意識を集中したが、もう痛みはない。傷が癒えてしまうほどの長い間、眠っていたのだろうか? だとしたら、出発を急がなければならない。自分が故郷に帰らない限り、ハサーラとローダーナは危機に晒されたままだ。

 切迫した気持ちが迫り上がってきて、ノエイルは身を起こそうと、両腕に力を込めた。


 だが、力はいつものようには入らず、ノエイルは呻き声を上げた。傷の痛みはないのに、全身が鉛のように重い。毛布の上に倒れ込むと、リュヌドゥが心配そうに顔をすり寄せてきた。

 情けなさと、身体が自由にならないもどかしさで頭がいっぱいになり、ノエイルはしばらく毛布の上につっ伏していた。


 いつの間にか、撥弦楽器の音はやんでいた。代わりに、足音がかつんかつん、と洞窟に反響している。足音はだんだん近くなり、やがてリュヌドゥがいるほうとは反対側の、ノエイルの傍で止まった。


「ノエイル……よかった、意識が戻ったんだな」


 腰を下ろし、安堵したようにこちらを覗き込んでいるのは、間違いなくルクンだった。頭巾イトゥバを被った浅黒い顔は、心なしか記憶の中の彼より、痩せているような気がした。急に、胸の奥から熱いものが込み上げてきて、ノエイルは何も言えずにいた。


「傷は、まだ痛むか?」


 ノエイルが目で否定すると、ルクンはほほえんだ。


「そうか、経過は順調だな」


「ルクン、それ……」


 ルクンが撥弦楽器を抱えていることに、ノエイルは気づいた。意識を失う前まで、リュヌドゥの荷に積んでいたものだ。死んだ父がノエイルのために作ってくれた大切なものだが、ルクンがそれを持っていても、腹は立たなかった。


 ルクンは、撥弦楽器の弦を軽く弾いてみせた。普段ノエイルが弾いているものと同じ撥弦楽器なのに、何とも言えない、よい音がする。


「優しい音楽には、人の回復を助ける作用もあると、学んだことがある。悪いとは思ったんだが、あなたの撥弦楽器を借りた。俺の縦笛ムワ──いや、メワでは、洞窟中に響きすぎるからな」


 それでは、あの曲を奏でていたのは、ルクンだったのだ。


「あれは、何ていう曲?」


「曲名はないそうだ。……ローダーナが教えてくれた、ラグ・メルの曲だ」


「そう……」


 だから、あの曲は、あんなに懐かしかったのだろうか。不思議だ。記憶をなくしているのに、曲のことだけは何となくでも、覚えているなんて。

 そういえば、夢の中で誰か懐かしい人たちに会った気がするけれど、よく思い出せない。あの人たちは、誰だったのだろう……。


 ノエイルがぼんやりと考え込んでいると、ルクンが撥弦楽器を脇に置く音がした。ルクンの顔は酷く真剣で、話し出す前に、深く息を吸うのが分かった。


「──実は、昨日、あなたの傷を縫った糸を抜糸した。早めに抜いたし、傷も綺麗に塞がったから、痕は残らないだろうが──」


 ルクンの説明を聞くうちに、ノエイルの身体は強ばり、全身の血の気が音を立てるように、さあっと引いていった。


 あの矢傷は、背中のどこにあったのだろう。肩胛骨よりは下だったはずだ。ルクンがその傷を治療したということは──。


(──ルクンは、あれを、見たんだ)


 自分の醜い身体を見て、ルクンがどう思ったのか、ノエイルは恐ろしくて、想像することもできなかった。


 叶うのなら、今すぐ、その記憶だけを彼の中から消し去ってしまいたい。それができないのなら、すぐにでもここから逃げ出してしまいたかった。

 顔を毛布に強く押しつけ、ノエイルは震える声で呟く。


「……放っておいてくれれば、よかったのに」


 残酷なことを、ノエイルは口走ってしまった。ルクンに与えられた任を思えば、そんなことは口が裂けても言ってはならないはずなのに。

 分かってはいたが、だからこそノエイルは言わずにはいられなかった。ルクンにだけは、醜い自分の姿を見られたくなかった。


 養父母に引き取られて、間もなくのことだ。

 ノエイルは既に記憶を失っていて、自分の背中が人とは違うということにも気づいていなかった。最初に、ノエイルの背中に気づいたのは、一緒に川で水浴びをしていた母だった。


 母は、ノエイルが奇病にかかっているのではないかと心配し、バーブル長老に診せた。バーブル長老は、これは生まれつきだから、何も心配することはない、と温かい声で告げてくれた。

 だが、母の強い勧めで、ノエイルは他の子供たちと一緒に水浴びをしない約束となった。


 六年前のことだった。一度だけ、ノエイルは澄んだ泉に自分の背中を映して、振り返ってみたことがある。


 そのあまりの異様さと気味の悪さに、ノエイルは烈しく取り乱した。母の背中には、こんなものはなかった。どうして自分にだけ、こんなものがあるのか分からなかった。


 以来、ノエイルは、嫁ぐことはおろか、恋をすることさえ諦めた。


「……すまない」


 耳に届いたルクンの声は、ノエイルを責めるものではなかった。


「治療のためとはいえ、俺はあなたがもっとも見て欲しくないと思っているものを見てしまった。他にも、【水の院】の神官としてあるまじき非礼の数々を働いた。赦しを請おうとは思わない。だが……」


 ルクンは逡巡するように言葉を切り、少しの間を置いて言った。


「非礼ついでに、ひとつだけ言わせて欲しい。自分では気づいていないようだが……あなたは美しい。何も、人と同じ姿をしていないからといって、自らを恥じることはない。花や月や星は、それぞれに違う姿をしているが、美しいだろう」


 沈黙が落ちた。


 今までにも、美しい、と言われたことが、ないわけではなかった。けれども、それはノエイルの背中までをひっくるめた賛辞ではなかった。その種の言葉は、ノエイルを虚しい気持ちにさせるだけで、決して心に響くことはなかったのだ。


 しかし、今、ルクンが口にした言葉は、そういった空虚な賛美とは、響きも、色合いも、何もかもが違っていた。


 ノエイルが顔を上げると、ルクンは照れたように目を伏せ、話題を変えた。


「……ノエイル、あなたは、ずっとうつ伏せのままで眠っていた。傷も治ったのだから、別の姿勢で横になったほうがいい。床ずれでもしたら大変だ。……動けるか?」


 ノエイルがかすかに首を振ると、ルクンはちょっと困ったような顔をしたが、「失礼する」と断りを入れ、ノエイルの脇腹に軽く手を添えた。ノエイルが驚く間に、ルクンはノエイルの身体をいとも簡単に仰向かせ、再び毛布の上に寝かせた。


 毛布をかけ直してくれるルクンを、ノエイルは唖然として見上げた。以前のルクンは、ノエイルに手を取られることにすら緊張していたのに、この変わりようはどうだろう。


 そう考えてみて、ノエイルは赤面した。ルクンはノエイルを治療しただけではない。ここまで運んでくれたのもルクンなら、絶えず身の回りの世話をしてくれたのもルクンなのだ。


 混濁した意識の中で感じていた、親のように自分を労ってくれた誰か──それがルクンだったことを、ノエイルはようやく理解した。


 理解できてくると、見られたくなかったものを見られた、という動揺よりも、恥ずかしさのほうが先立ってくる。特に、ああいう言葉をかけられたあとでは。


 ノエイルは真っ赤になった顔を隠すために、毛布を頭から被った。


「……それはそうと、空腹だろう。何か作って持ってくる」


 ルクンはいたたまれなくなったのか、そそくさと立ち上がった。あとには、今まで黙っていたリュヌドゥが、ふん、と鼻を鳴らす音だけが響いた。

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