第五章 ルクンの医術

 天幕エッル内の壁際には、水の詰まった革の水筒が、ところ狭しと並べられていた。その多くが、バーブルの家族と弟子たちが集めてきたものだ。


 ルクンとルトフィーは、ジェラールを注意深く寝具の上に寝かせた。ノエイルは毛布を手に取り、ジェラールの胸までかけてやった。


 炉にかけられた鍋から、湯を沸かす音が、しゅんしゅんと聞こえてくる。炉の光に反応したのか、ジェラールが薄目を開けた。


「──ここ、は……?」


 意識が戻ったのだ。ノエイルは少し安堵した。


「もう大丈夫。バーブル長老の天幕よ」


 返事の代わりに、ジェラールの顔が、大きく苦悶に歪んだ。荒い呼吸とともに、呻き声を漏らし、身体をよじらせる。肩の痛みが、よほど酷いのだろう。ノエイルは懸命にジェラールの名を呼びかけた。


 寝具の脇に座っていたバーブルが、ため息をついた。


「ふうむ。もうしばらく気絶していてくれると助かったんじゃが」


「麻酔を使っても構わないでしょうか」


 ルクンの申し出に、バーブルは考え込む仕草をした。


「わしらは、ああいうものは使わんことにしとるが──お前さん、ジェラールの害にならんように、分量を調節できるかね?」


「むろん」


「仕方ない。このままでは、ジェラールはとても傷口の縫合には耐えられんじゃろうからな。……頼む」


 バーブルが頷いてみせると、ルクンは外へ駆け出していった。バヤードの積み荷から、「麻酔」というものを持ってくるつもりなのだろう。ルクンが戻ってくるまで、ノエイルはジェラールの片手を握って励まし続けた。


(わたしは、何て無力なんだろう……)


 その思いはルトフィーも同じらしい。固く握り締めた拳で涙を拭い、唇を噛んでいる。


 ルクンが革袋を手に、急ぎ戻ってきた。その袋の中から小さな革袋と小さな吸い飲みを取り出す。吸い飲みを熱湯でさっと洗うと、清潔そうな布で拭い、小さな革袋からほんの少し、液体を注いだ。よく見ると、吸い飲みには分量を量るための目盛りがついている。

 炉端に置きっぱなしになっていた、ぬるくなった乳茶ス・ジュイを吸い飲みの液体に混ぜると、ルクンは安心させるように、ジェラールに話しかけた。


「ジェラール殿、これは痛みを取ってくれる薬です。すぐには効きませんが、必ず痛みが和らぎます。さ、お召し上がりを」


 ジェラールがかすかに頷いた。ルクンは吸い飲みの注ぎ口を、ジェラールの口につけると、器用に全て飲ませた。


「……さて、縫合は麻酔が効いてからするにしても、傷口の洗浄くらいは、やっておかねばの」


 バーブルはジェラールの肩を覆う、赤黒く変色した布を取り外し始めた。

 狼に咬まれたという傷は、酷い有様だった。ノエイルは思わず目を背けそうになったが、何とか堪えた。


 傷口を診ていたバーブルが安堵の息をつき、ルトフィーを眺めた。


「傷の汚れは、そうでもないな。よく洗い流されとる。よい処置をしてくれたな、ルトフィー。感謝するぞ」


「いえ……俺は……もう、無我夢中で……」


 誉められても、ルトフィーの表情は硬い。

 バーブルは刺抜きを手に取り、熱湯に浸した。


「これから、細かい汚れを取り除いていくが、もっと灯りが欲しいのう。ランプラスバ(金属製で火を灯す口が長い)をわしの傍で持っていてくれんか。ルクンは傷口に水をかけてくれ。水は好きなだけ使ってよいからの」


 ルトフィーはすぐさま立ち上がり、天幕内にあったランプラスバに炉の火を移した。バーブルの横でルトフィーがランプラスバをかざすと、ジェラールの肩が赤々と照らし出される。


 水筒を手に、ジェラールの枕元に移動したルクンが、傷口に水をかけ、バーブルが刺抜きで汚れを取る。ジェラールが痛みに呻くたびに、ノエイルはその手を強く握った。


「──洗浄のほうは、ひとまず終わりじゃな」


 バーブルが刺抜きを持った手を止めると、ルクンは何袋目かの水筒の水を、ジェラールの傷口にもう一度かけた。


「ええ、充分でしょう。それに、麻酔が効いてきたようです」


 確かに、麻酔のせいなのか、ジェラールは先ほどから、うつらうつらしているようで、手にも力が入っていない。バーブルは額の汗を拭いながら頷いた。


「そろそろ、縫合を始めても構わんじゃろ──時に、ルクン。お前さん、傷口を縫ったことはあるかね?」


「はい。ですが……まさか、わたしに縫えと?」


 困惑したように、ルクンが問い返した。ノエイルとルトフィーも、思わずバーブルの顔を見た。バーブルは、にやりと笑う。


「お前さんがた、年寄りをあんまりこき使いなさんな。わしはさっきの作業で、目が疲れてしまったんじゃよ。この歳になると、細かい作業を続けるのは、正直、しんどいわい。……ま、ルクンがどうしようもなく不器用だったら、その時は、わしが代わるがの」


「……分かりました。致しましょう」


 ルクンは仕方がない、という表情で頷いた。


 けれど、引き受けたからには、自信があるのだろう。バーブルから針と糸を受け取ったルクンは、針をルトフィーの掲げるランプラスバの火で熱すると、危うげのない手つきで針穴に糸を通した。


 麻酔で眠りに落ちたジェラールは、傷口を縫われても、全く呻き声を上げなかった。それでも、見ているほうは辛く、ノエイルは気が気ではなかった。

 場慣れしているバーブルは、目を凝らして縫合の様子を見ていたが、ルトフィーは青ざめ、ランプラスバをかざす手がかたかたと震えている。


 ルクンは唇を引き結び、ひたすら自分の仕事に集中している。ルクンのこめかみから、汗が一筋流れ落ちた。緊張で、頭巾イトゥバでは吸い切れない汗が、滴り落ちてくるのだ。


「ノエイル、ジェラールはもう痛みを感じてはおらん。心配じゃろうが、今度はルクンの汗を拭いてやってはくれんか。汗が目に入っては一大事じゃ」


 バーブルが手巾を手渡してきたので、ノエイルは反射的にそれを受け取った。ジェラールの手を寝具に横たえ、ルクンの傍らに座り直す。

 ノエイルがそっと汗を拭っても、ルクンの集中は乱れなかった。ただ一心に、傷口と針を見つめ、縫合を繰り返している。ウルシャマの民特有の、濃い睫毛に縁取られた黒い瞳が、怖いくらい真摯な光を放つ。


 針は順調に進み、背側を縫うためにジェラールはうつ伏せにされた。やがて、ノエイルの持つ手巾がたっぷりと汗を吸った頃、ルクンは縫い進める手を止め、糸を切った。


 彼が深い息をつくのを合図に、縫合は終わった。


「うむ、綺麗に縫えとる。これなら、治った痕も目立ちにくいじゃろう。ルクン、よくやってくれた」


 バーブルはほほえむと、ジェラールの傷口に薬をつけ、新しい包帯を巻いた。ノエイルとルクンはジェラールを再び仰向けに寝かせ、寝具を整えた。


 ルトフィーがランプラスバの灯を吹き消すと、天幕内に、静かな夜の仄暗さが戻った。


   ***


 バーブルの弟子の一人が、青ざめた顔のアイスンと、ルトフィーの両親を伴い、天幕に現れた。

 ジェラールが大怪我を負ったとの知らせを受けたアイスンは、すぐさまバーブルの天幕まで駆けつけた。だが、「治療の邪魔をするわけにはいかない」と、バーブルの息子夫婦の天幕で、全てが終わるのを、ずっと待っていたらしい。


「今のところ、化膿の心配もないようじゃ。怖いのは、【獣を狂わせる病】を狼から移されていた場合じゃが、先ほど占ってみたところ、その恐れはないと出た」


 ルトフィーの容態を説明するバーブルに、アイスンは何度も頭を下げて礼を繰り返した。ルクンのお陰で治療が上手くいったことを、バーブルが話して聞かせると、アイスンはルクンに向け、深く頭を下げた。


「ありがとうございました。後ほど、是非お礼をさせて下さい」


「いいえ、そのお気持ちだけで充分です。しばらくご厄介になる予定ですのに、これ以上、何かをいただくというのも……」


 少し困ったように謝絶するルクンを、ノエイルは温かい気持ちで眺めていた。


 ふと、ルトフィーのほうを見ると、彼の表情は暗い。

 しかし、アイスンはルトフィーを責めなかった。

 仔羊を襲おうとしている狼を射ようとして、ジェラールは失敗した。それゆえにルトフィーは仔羊を守ろうとし、ジェラールは彼らを守ろうとした。

 その経緯を聴いたアイスンはルトフィーの勇気とジェラールへの応急処置を称え、仔羊を彼に贈ることにした。


 天幕へと帰る道すがら、ひとしきりジェラールの無事を喜んだあとで、ノエイルは馬上でアイスンやルトフィー一家と話し合いをした。

 ジェラールがせっている間、ノエイルと組む山羊の牧者は、ルトフィーの弟妹が交代で行うことになった。


 もうひとつの重要問題は、ルクンを招いての宴席をどのようにするかだったが、アイスンとルトフィーの母親がてきぱきと段取りを決めてくれた。ルクンは本来、ノエイルたちの天幕に泊まる予定だったのだが、ジェラールの容態を見守りたいらしく、バーブルの天幕に残っている。


 そのあとで、アイスンが言った。


「ノエイル、明日は放牧を早めに切り上げて帰ってきなさい。ルクン殿をもてなすために、特別に上等な山羊を選んで、料理しなければね」


 家畜を屠殺するのは男の仕事だが、料理するのは女の仕事だ。


(また、あの子たちの誰かを潰すのか……)


 もっとも、育てた家畜を食べるために屠る機会は、年に数えるほどしかない。それでも、自分の手で育ててきた山羊や羊を屠殺して料理するのは切なく、その時になると、ノエイルはいつも気が重くなった。


 家畜だけではない。ノエイルは猟をして獣を殺し、血を見ることが嫌いだ。


 それに、ノエイルは肉を食べることができなかった。理由は分からない。何故、と訊かれても、嫌だから、としか答えられなかった。


 幼い頃、涙を流しながら「肉を食べたくない」と言い張るノエイルを、アイスンは静かに諭してくれた。


 ──ノエイル、それでは、猟のために命を賭け、屠殺の役目を引き受ける男たちにも、料理をした女たちにも失礼よ。それに、あなたが食べなければ、死んだ獣たちの命は無駄になってしまうわ。狼や豹が他の獣を殺すのは、食べるためでしょう? わたしたちも、同じなのよ。


 狩りに出る男たちのためによい肉を与え、残った筋や硬い部分を食べるのは、女の役目だ。ノエイルの残した硬い肉を、アイスンは不平を一切言わずに、たいらげてくれた。


 マーウィルの民は、死後は風葬され、鳥や獣たちに喰われて土に還る。草原の墓場で初めて白い骨を見つけた時の衝撃を、ノエイルは今も鮮明に覚えている。


 生命は巡る。それが自然なのだ。


 そう悟ってもなお、ノエイルは肉を口にすることができないでいた。肉が食卓に上るたびに、家族が気遣ってくれるのが分かっていても、どうしても無理だった。


(わたしは、生き物の営みから、どこか外れているんだろうか……)


 そう思った時、頭の中に浮かんだのは、何故かルクンの顔だった。


 彼なら、その疑問に答えてくれるとでもいうのだろうか? ……いいや、豊かなハサーラの呪術師カムだからといって、バーブル長老にも答えられないことを、知っているはずがない。


 ノエイルは軽く頭を振ると、リュヌドゥのたてがみをそっと撫でた。

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