第二十章 奇妙な泉

 びょうっ、と冷たい風が吹き抜けた。身をすくめたくなるような寒さの中、衣越しに伝わるノエイルの体温が、酷く温かい。三頭の蹄の音に混じって、どこか遠くにある森から、葉ずれの音が聞こえてきた。


 たっぷりと時間を置いて、ジャハーンは話し始めた。


「……伯父の長男はマンスールといった。俺にとっては、父方の従兄に当たる人だ。少し無口なところもあったが、誰に対しても公平で、馬術や武芸にも優れ、将来は氏族長になって欲しい、と期待する者も多かった」


 マーウィルでは、家督や財産の相続は末子が有利とされ、さらに族長になるには、実力や人望がものを言う。それは、キルメジェトでも似たようなものらしい。

 ジャハーンは続ける。


「十年前、マンスールは十九歳だった。いい加減、花嫁を迎えねばならない歳だ。周りの大人たちは、大分気を揉んでいたが、マンスールにはもう、心に決めた娘がいるようだった。……ある日、マンスールは、天女のように美しい、十七、八の金の髪の娘を、親族の前に連れてきた」


(──天女のように美しい、金の髪の娘……)


 瞬時にルクンの脳裏をよぎったのは、その娘がラグ・メルではないか、という疑念だった。

 

 そうだとしても、何故ラグ・メルがデュラン氏族の営地付近に現れたのかは分からないが、マンスールは彼女と出会い、恋に落ちたのだろう。


 ラグ・メルが聖人以外の男と恋に落ちる。


 それは、必ず周囲に災厄をもたらす凶兆なのだ、とルクンは【水の院】で学んでいる。ラグ・メルは水神だ。本来、人と神は交わるべきではない。水の女神と婚姻してハサーラを発展させた聖ハミードが、聖人と謳われるゆえんだ。

 ジャハーンの横顔が曇った。


「だが、伯父は二人の婚姻を認めなかった。マンスールが氏族長になることを誰よりも望んでいたのは、伯父だ。伯父の息子たちの中で無事に成人できたのは、マンスールと、次男のウマルだけだったからな。


 氏族長の座を狙うものは、一族の中にいくらでもいる。伯父がマンスールの花嫁に求めたのは、強力な後ろ盾だった。ところが、マンスールが選んだ娘は、遠い国からやってきた流れ者だという。いくら美しいとはいえ、どこの馬の骨とも分からない娘を、大事な息子の花嫁にはできない、と考えたんだろう」


「その娘の名を覚えているか?」


「アンディーン、といった」


 ルクンは、ノエイルに寄り添うようにして歩くリュヌドゥの反応を窺った。先ほどから、リュヌドゥはジャハーンの話に耳を傾けている素振りは見せるものの、目立った変化はない。


「しばらくして、マンスールはアンディーンと駆け落ちし、二度と氏族には戻らなかった──マンスールが見つかったのは、一年後のことだ。物言わぬ屍となって、ここからそう遠くない森の中で見つかったんだ。

 ……その後、アンディーンがどうなったのかは知らない。氏族の者の一部は、マンスールはアンディーンに殺されたと思い、彼女の捜索を続けたが、ついに見つからなかった」


「だが、マンスールという人の死に方は──」


 言いかけて、ルクンは言葉を呑み込んだ。マンスールの親族の前で口にしていい台詞ではない、と思ったからだ。

 ジャハーンは眉を寄せ、口元を歪めた。笑おうとして、失敗した者の顔だった。


「そう──マンスールの遺体は、人間が手を下したとは思えないような、酷い有様だったらしい。俺はまだ子供だったから、見せてはもらえなかったが……。


 お陰で、俺にはまだ従兄が死んだという実感がないよ。マンスールは、今でもどこかで生きているような気がしてな。

 ……話を戻そう。アンディーンが下手人だと思った者たちの考えはこうだ。『彼女は人にしては美しすぎた。きっと化け物だったに違いない』とな」


「化け物……」


 その時、ルクンの眼裏に映ったのは、ノエイルの肩胛骨に張りついていた、奇妙な貝殻だった。


 ルクンは自らの拳に爪を立てた。


(何を考えているんだ俺は──彼女は水神。女神なんだ)


 ジャハーンは話を継いだ。


「そして、彼らの話を裏づけるかのように、新しい泉が見つかった」


「泉?」


「ああ。不思議なもので、マンスールが死ぬまでは、そこには何もなかったはずなんだがな。皆、薄気味悪く思ったんだろう。

 泉から衣を着たまま出てくるアンディーンを見かけたが、彼女の衣は全く濡れていなかった、とか、泉に近づくと引きずり込まれる、とか、そんな話ばかりが、まことしやかに囁かれるようになった。

 

 しまいには、アンディーンは人ではなく、化け物だったのだ、という話を皆が信じるようになったというわけさ。……俺は半信半疑だがな」


 では、アンディーンは、下等な水のシャンニーヤの一種だという可能性もある。シャンニーヤの中には人間の女人に取り憑き、悪さをする者もいると聞く。


 それよりも確認しておきたいことが、ルクンには、まだいくつかあった。


「ところで、ずっと不思議だったんだが、あなたは何故、デュラン氏族に追われているのがノエイルだと分かったんだ?」


 ジャハーンは、ああ、と目をみはったあとで、気まずそうな顔をした。


「氏族の呪術師カムが言ったんだ。その……マンスールの死にかかわった者は、白銀の髪で、駿馬に乗ってやってくる、とな。言っておくが、それはあくまで精霊からの託宣だ。託宣とて、呪術師の体調や力量次第で、誤って伝えられることもあるらしい」


「あなたが気にする必要はない。俺も神官の端くれだから、その辺りの事情は、分かっているつもりだ」


「そうだったのか。それなら、話は早い。白銀の髪に駿馬と聞いて、俺は真っ先にノエイルを思い浮かべたんだ。白銀の髪の者なんて、年寄り以外には、彼女しか会ったことがなかったからな」


「老人だとは思わなかったのか? 遊牧の民は、老人や子供でも、よく馬を乗りこなすだろう」


 ルクンが疑問を口にすると、ジャハーンは再び気まずそうな顔になった。


「……実はな」


 いったん言葉を切ったあとで、意を決したように言う。


「アンディーンという娘は、面影がノエイルに似ていたんだ」


 ルクンは息を呑んだ。


 では、間違いない。その娘はラグ・メルだ。


 水神の女王の娘であるラグ・メルは、等しく美しく、それゆえか、皆、どことなく似ているのだという。実際、初めてノエイルに会った時、ルクンは驚いたものだ。目鼻立ちの細部は違っていても、ノエイルの容姿は、どこかローダーナを思わせた。


 黙り込んでしまったルクンの様子を見て、ジャハーンは申し訳なく思ったらしい。慌てて、片手を振ってみせる。


「確かに似ていたが、ノエイルとアンディーンは別人だ。顔が似ていたというだけで、そっくりだったわけじゃない。年齢も辻褄が合わないし、声も髪の色も違う。……もっとも、姉妹だというのなら、納得もいくがな」


「……あなたは、ノエイルの生い立ちを知っているのか」


「彼女が生まれついてのマーウィル人でないことくらいは。ミル・シャーンに立ち寄った時、アンディーンとノエイルが似ていたから、気になってな。

 ……正直、伯父にノエイルのことを報告すべきかどうか、ずいぶん迷いもした。妻と相談し、言わないでおこうという結論になったが……今思うと、それで本当によかったのかどうか……」


 ジャハーン夫妻は、ヌフにノエイルの存在が知られることで、ふたつの氏族の間に争いが起こるのを恐れたのだろう。

 確かに、もしノエイルがマンスールの死にかかわっている、と言われようものなら、アイスンやジェラールが火のように怒ったであろうことは、容易に想像できる。


 ジャハーンは、ノエイルに肩入れしてくれる一方で、冷静な思慮もできるようだ。この男なら、信用に足る。ルクンは彼に巡り会えたことに、心から感謝した。


「仕方ないさ。その時は、それが最善だと思えたのなら。それよりも、あなたと奥方が、ノエイルがミル・シャーンで育ったことや、彼女のひととなりを伯父君に説明してくれるのなら、これほど心強いことはない」


 ルクンが微笑すると、ジャハーンも釣られたように笑った。


「そう言ってもらえると、助かる」


 二人はしばらくの間、黙々と乗馬を歩かせ続けた。

 と、眠っているノエイルの頭が傾き、ツァク・ラックの首のほうに倒れそうになった。ルクンがとっさに彼女を抱き止めると、怒ったようにリュヌドゥが吠える。それを見たジャハーンが吹き出した。


「はは。ルクンに妬いてるんだな」


 ルクンは憮然とした。ルクンがノエイルをそのままにしておいたらしておいたで、リュヌドゥは怒ったに違いないのだ。

 ノエイルの姿勢が安定するように、ルクンは心持ち、彼女を自分の胸にもたせかけた。リュヌドゥがまた怒りの声を上げたが、ルクンは気にしないことにした。


 敬わねばならないラグ・ソンに、横柄な態度をとる。

 ルクンは胸がすくような愉快さと、苦々しさを同時に感じた。


(まったく、どうしてしまったんだ、俺は。……今日一日の破戒が【水の院】に知られでもしたら、鞭打ちどころではすまんぞ)


 それにしても、ラグ・メルとラグ・ソンの絆については知っているつもりだったが、リュヌドゥがノエイルに寄せる愛情は、並々ならぬものがある。

 ローダーナのラグ・ソンであるシャールーズは、もっと落ち着いていたから、単にリュヌドゥが若いだけなのかもしれないが──。


 そこまで考えて、ルクンははっとした。


 何故、これほど重要なことに、今まで気づかなかったのだろう。


「アンディーンは、リュヌドゥのような駿馬を連れていなかったか?」


 ルクンが早口で問うと、ジャハーンは目を丸くした。


「……いや、連れていなかったな」


「確かか?」


「マーウィル人もそうだが、キルメジェト人も、一度見たよい馬は、なかなか忘れないものだ。まして、それがリュヌドゥのような駿馬ともなれば」


「では、馬にまつわるアンディーンの話はないか。どんな噂でもいい」


「──ああ、そういえば、ひとつ妙な噂がある。何でも、例の水の化け物が棲んでいるという噂の泉の周りには、恐ろしい馬の化け物が現れるという話だ。おかしな話だよな。キルメジェト人にとって、馬は神聖な生き物なのに」


 ルクンはその噂を一笑にふすことができなかった。

 その馬は、アンディーンのラグ・ソンかもしれない。ラグ・ソンは、よほどの理由がない限り、対のラグ・メルと行動をともにしたがるものだ。


 何故、アンディーンはラグ・ソンとともに、デュラン氏族を訪れなかったのか。


 ノエイルとともにツァク・ラックに揺られながら、ルクンは答えの出ない問いを、一人考え続けた。

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