第二話 亜栖羽という少女
☆☆☆その①☆☆☆
亜栖羽と名乗った少女の瞳が、とてもきれいに潤んで見える。
キラキラな黒曜石の如き瞳に見つめられていると、心の奥まで見られて魂まで吸い込まれてしまいそうな錯覚さえ、覚えてしまう。
ブランコから立ち上がった青年は、少女と向き合い、思わず、素直に応えていた。
「はっ? あ、え、あ、あの…い、育郎…です」
内気ゆえのボソボソ返答に、亜栖羽は更にグイっと、媚顔を寄せてくる。
「イクローさん? 何イクローさんなんですか?」
「う……」
ハッキリと苗字を尋ねられて、育郎は更に小声になってしまった。
「えっ、えっとあの……っさ…」
「はい? なんですか?」
亜栖羽の瞳が、興味津々に輝いている。
「ふ、福生…育郎」
「えっ、ブッサイクローっ!?」
フルネームを聞いた瞬間、亜栖羽は大きな目を更にパッチリと見開いて驚き、長いまつげをパチパチと瞬かせた。
対して育郎は、コレまでの人生で何度も繰り返された間違いを、何度もしてきたように訂正。
「フッサ! フッサ育郎です! 福生市のフッサに、育てるに金太郎とかの郎ですよ…っ!」
今日は丁寧に漢字まで説明したのだけれど、それは育郎本人も無自覚だ。
「あぁそっかー。福生育郎さん。ビックリした~」
「でしょうね…!」
本気で安堵した亜栖羽に、育郎はいぶかし気ながらも「あ、可愛い」と思ってしまう。
「育郎さん…福生育郎さん…えへへ」
ブツブツと名前を繰り返して、何だか楽しそうな黒髪少女だ。
亜栖羽と話し始めてから、数分が過ぎている。
(か、からかわれてる…んだろうな…)
今までも、無かったワケではない展開。
話しかけて来た女の子は、罰ゲームとして話しかけて来ただけだったり。
育郎がどれだけ本気になるのか、面白半分に試してみただけだったり。
ただ、そうだとしても。
少年の自我が芽生えて以降、こんなきれいな女の子と、こんなに長い時間を話した事なんて、初めてだ。
(これはこれで…今夜は良い夢が見れそうだ…)
遠い眼差しで感慨にふける育郎だった。
そんな礼服青年へと、少女は更に押してくる。
「あのっ、オジサン ちょっといいですか?」
オジサンとは仇名としてなんだなと、ニュアンスで伝わってくる。
「……?」
グイっと身を寄せる少女の媚顔が、数センチと目の前。
「ぅわっ–」
こんなに接近されたのは初めてで、しかも凄い美少女だし、育郎は思わず緊張して、息を呑んでしまう。
胸の高さから、亜栖羽がジ…と、見上げて覗き込んでくる。
何かを探るように、しかしその瞳は、真剣な光を見せてもいた。
(! な、なんだ、この娘…それにしてもっ…よ、よく見ると…もっと、可愛い…!)
暫し見つめ合って、ハっと気づいて、恥ずかしくなって、つい顔を逸らしてしまう、年上の育郎。
亜栖羽は、愛らしい媚顔を育郎の胸に近づけると、子猫みたいにクンクンと匂いを嗅いできた。
☆☆☆その②☆☆☆
(うわっ、なにしてるのっ!?)
女の子に匂いを嗅がれるなんて、もちろん生まれて初めて。
困惑と恥ずかしさと極度の緊張で、全身が硬直してしまう。
変な臭いしてないかな。
オジサン臭とかしたら恥ずかしすぎるな。
(っていうかっ–ぉ女の子がっ、こんな近くに…っ!)
一瞬で色々な事を思考しながら、ドキドキすると同時に、無意識に鼻がヒクヒクする。
黒髪少女の身体から、フワん…と、甘い香りが漂っていた。
(おっ–女の子ってっ–なんて…甘くて良い香りがするんだ…っ!)
爽やかな柑橘系のフレグランスで鼻腔が擽られ、もっと嗅ぎたくなってくる。
内気で女縁のない未婚な在宅プログラマーにとっては、まるでパラダイスの香りだ。
このまま胸いっぱいに吸い込んで、一生涯、忘れないようにしよう。
そんな健気過ぎる育郎を、亜栖羽は愛らしい笑顔で見つめた。
「わぁ…オジサン、石鹸のいい香りがする♪」
「え…あぁ…」
少女の笑顔は輝くように優しくて嬉しそうで、微笑まれた育郎も、心の底から温かくなってくる。
(…よかった…。オジサン臭とか、しなかったみたいだ…)
ホっとした。それに。
(こ、こんな僕に…興味を持って貰えてるなんて…)
と思わせるくらい、からかってきているのかも。
と思いつつ、それでもこの少女と話せるのなら。とも思う。
後で陰で笑われる事も覚悟、と思えるほど、亜栖羽はキラキラと輝いて見えた。
ちょっとだけ。話す事を期待しようかな。
(三十…いや十分…五分か二分でもいい。この子と しゃべりたい…)
とはいえ、女の子とまともに話した経験などほぼない青年は、何を話せばよいのかわからない。
(プログラムの事なんて、興味ないだろうし…こ、このまえ観た映画の話とか–)
なんてドキドキし始めた途端、返す刃で真っ二つみたいな、図星の言葉が。
「礼服も着てるし、やっぱりフーゾクでドーテー脱出とか しようとしてたんですか?」
「うっ!」
年下の美少女による紛うかたなき事実の指摘に、育郎ショック。
パラダイスの入り口で浮かれていたら、落とし穴に落とされた感覚。
やっぱりからかわれていたんだ。
そう感じた育郎は、勘違いの恥ずかしさも手伝って、とうとう、いたたまれなくなってしまった。
「そっ、そうだよ! 僕は童貞だよっ! 悪かったねっ、この年でみっともなくて! もういいだろっ、それじゃ僕は–」
「待ってオジサン!」
涙目で立ち去ろうとする育郎の腕が、少女の細い手で掴まれる。
「え…」
思わず見た亜栖羽の表情には、ドキドキしながらも、不思議な必死さと、戸惑いが感じられる。
黒くて深い大きな瞳が潤み、ツルツルの頬が紅潮しているようにも見えた。
そんな、天然で美しい表情に、育郎はまた見惚れてしまう。
掴まれた手が温かく、弱々しい力には少女らしい儚さも感じられる。
何より、女性に触れられるなんて、小学校の低学年の運動会での創作ダンス以降、極めて久しい体験である。
「私…何してるんだろう…」
「…?」
少女の言葉の意味が解らない。
言った亜栖羽も、あらためて育郎の正面へ廻ると、礼服の袖を小さな両手で掴んで、更にジィ…と見上げてくる。
真っ直ぐで綺麗な眼差しと交わったら、心の奥まで見透かされてしまうような、不思議なドキドキと安心感。
「あ、あの–」
「あのっ、オジサンっ!」
「はいっ!」
突然に強い口調で呼ばれ、ドキっとした育郎。
「オジサンがフーゾクに行こうとしてたのって、トーデー脱出の為だったんですよね!」
「は、はいっ!」
なんだか先生に叱られている子供の気分だ。
つい敬語で応えた青年は、真っ赤になった少女の言葉に、耳を疑った。
「は、初めてのお相手ってっ、わっ、私じゃダメですかっ!?」
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