第17話 VS凍てつく大地の覇王
人界大陸の遥か北。北嶺のさらなる向こうには、凍てつく大地が広がっている。独特の生命と独特の風習を持つ民が入り混じり、長らく政治や領土とはほとんど無縁の歴史が繰り広げられてきた。
そして覇王は、その大地で最強最悪として恐れられてきた。腹が空けば周囲の命を狩り、腹が立てば周囲の生命を無碍に殺した。彼には他の生命を圧する体躯があり、豪腕とのたまうことすら生温い両腕があった。その
だから彼には、己に歯向かう者がいるという想定がなかった。しかもその者は、大きくとも己の三分の一程度しかない、矮小と言ってもいい者だった。その小ささで己の真正面に立ち、殴りかかって来る。覇王にしてみれば、一笑に付すべき行為だった。
しかし。
どれ、と振り回した右腕がかわされて、覇王は気づいた。次の瞬間には、敵対者が目の前にいた。矮躯を振りかざし、鼻先を殴りつけて来た。不意を突かれた形で弱点を打たれ、覇王は数歩たじろいだ。ご、が、と無意識の声が漏れる。痺れたような感覚も得ていた。
「ゴアアアッ!」
覇王は吠えた。両腕をかざし、背伸びをして敵対者を威嚇した。間合いを取って構えている敵対者。だが、威嚇にも動じていない。覇王には分かってしまった。この矮小、矮小にあらず。己に、真っ向から勝ちに来ているのだ。覇王の脳裏に、初めての感情が生まれようとしていた。
***
覇王の雄叫びに、ユージオ・バールは口角を釣り上げた。それはもちろん、上質な餌と出会えたことによる笑みだった。
「そこかしこの山にも似たようなのがいたが、コイツは喰い甲斐があるぜ」
凍傷の恐れがあり、酷暑期でも安易には外せぬ毛皮のフード。その下で、ユージオは舌なめずりをした。今回ばかりは
「それじゃあ、チィと上げていこうか」
数歩間合いを開け、ユージオは中腰の構えを取った。大将軍がようやく渡りをつけたこの機会を、彼は貪り尽くすつもりでいた。右足を大きく下げ、凍土を踏み込む。ビシ、とひび割れる音がしたあと、稲光が散り――
「オルァアアアッッッ!!!」
雷速。電光石火の蹴りを覇王の頭部めがけて放つ。右足の一閃は、猛獣の頭部を射抜くかに見えた。しかし。
「ゴアアアアアッ!」
猛獣の咆哮が轟き、蹴りが空を切る。直立していた覇王が、己の腕を大地へと捧げたのだ。獣の本来あるべき姿、四足歩行。それを選んだのは本能か。あるいは恐怖か。覇王自身にも、わかり得ぬだろう。
「ガッ!」
覇王は四足突進をもってユージオをカチ上げた。筋肉の塊と言っても過言ではない生物による突進。並の人間であれば轢死、場合によっては四分五裂の憂き目に遭う。そういう一撃だ。だがユージオは並ではない。故に、耐えた。
「ぬうううっ……!」
背中から受け身を取り、氷雪の大地を転がって立つ。多少のヒリつきはあったが、致命傷はない。とはいえ、絶対たる筋肉をもってさえも、衝撃を受け止め切れるものではなかった。腹を押さえ、血を吐き捨てる。内臓が痛み、悲鳴を上げていた。
「そっちが獣なら、こっちも獣になるしかないか……」
ユージオは腰を深く落とし、手甲を大地に添えた。東方に伝わるとされる徒手戦闘技の姿勢を、期せずして真似た姿になっていた。深い呼吸が、白い呼気を噴き上げる。噴き上げる。噴き上げる。噴き上げる。
「しゅるるるる……!」
幸いなことに、覇王は動かなかった。だが、動じてもいなかった。ユージオは眼光鋭く覇王を睨めつけたが、覇王は意に介さず、四足をもって氷雪の大地に佇んでいた。
「ハン。『獣の土俵で、なにをするのか』って顔をしてるな」
口の端を吊り上げ、ユージオは獣に問うた。無論、答えなどない。
「獣相手に獣の真似事をして、なんになる。賢しい奴等は、訳知り顔でそうのたまうだろうな。だが、俺は」
ユージオの四肢に、稲妻が走る。氷雪を溶かし、守りの手甲、靴すらも焦がして、炎が燻る。凍てつく大地に、火が灯る。日が昇る。
「俺はな。強い奴の、強い姿に会いたいだけだ」
今この場において、ユージオの背を見る者はいない。覇王と最強、二つの獣しかこの場にはいない。だが、もしも背を見る者がいたならば。そこに傷痕から成る、奇っ怪な絵を見たであろう。それほどまでに、
轟ッッッ!
四つ足と四つ足の睨み合い。先に動いたのはユージオだった。氷雪を蹴立てての加速は、白い煙を巻き上げていた。二歩目が大地にヒビを入れ、雷速の右が覇王の頬を引っ叩く。覇王の身体が大きく傾ぎ、地響きを立てて氷雪の大地に沈んだ。
「フウウウ……!」
ユージオは呼気を深くする。彼には珍しいことに、全くもって覇王から視線を切ろうとしなかった。数歩の間合いを取り、覇王を睨め付ける。このままでは終わらないという、確信めいたものがあった。
「グルルル……!」
果たして、覇王は起き上がった。血は流している。ふらついてもいる。しかしその覇気に翳りはなかった。
「来るんじゃねえ」
両の足を地につけ、ユージオは闘気を放つ。立ち上がることを拒む。牙を剥くことを拒む。恐れがそうさせていた。ユージオ・バールにも、恐怖は存在する。獣の一種として、強き獣に対しては時に身が竦む思いを得ることもあった。ただ、彼が通り一遍の人類と異なるとすれば。「正しく恐れていた」ことが、それに当たるだろう。
手足の防御も、とうに焦げた。もはや戦える時間は些少でしかない。しかしユージオに引く気はなかった。凍傷によってここで命潰えるとしても、敗北や逃走よりは遥かにマシだった。だが、覇王の様子がどうもおかしい。二本の足で立ち上がると、あたかもヒトのように二、三度首を振り、やおらその口を開いたのだ。
「んむ、むう。ユージオ・バールよ、聞こえるか?」
「!?」
ユージオは反射的に深く腰を落とした。幾年経とうと忘れ難き、かつて難敵となった老人の声だった。人呼んで大賢者。百年は昔、魔王の心胆を寒からしめた一員である。
「久しいのう。あの日の驚きは今でも昨日のことのように思い出せるぞ」
「貴様、地上からは離れたはずでは」
ユージオは問う。かつて彼は大賢者と拳を交えた。それはやがて命を懸けた戦となり、大賢者は異なる位相へと逃げ出した。彼はそう記憶していた。
「ククッ。まさにその通りよ。汝を殺す方法を探すべく、それがしはこの地上を旅立った。人によっては、『死んだ』とも捉えうる状態となった」
「いまさらしゃしゃり出て、どうするという。まさか獣で俺を殺す気か?」
覇王の身体を借りた大賢者を、ユージオは嘲った。さっくり言えば、芸が足りないとみなしていた。己の力で勝負せぬ者に、なんの力があるというのだ。
「単刀直入に言おう。神は汝を敵とみなした。それがしは使いとして各所に赴き、時の流れさえも捻じ曲げ、汝を討ち果たすべく蠢動しておる」
「……クハッ!」
ユージオは息を吐いた。続いて口角を吊り上げた。なんだそれは。こんなところで凍傷に遭う暇などないではないか! ユージオは狂気をたたえた目で、覇王を、その向こうの大賢者を睨めつけた。
「大したゴチソウをくれるじゃねえか。全部倒されても知らんぞ」
「その時には神頼みじゃな。字義通りにの」
「面白え。破ッ!」
ユージオは凍てつく大地を蹴った。かすかに炎さえ帯びた腕が、覇王の太い首を狙っていた。
「おっと。汝の狂気を目覚めさせてしまったか? ならば話はここまでだ。さらば!」
大賢者は介入を終えて去る。目覚めた覇王は炎をすんでのところで回避し、再び四本脚に戻った。大振りの断頭チョップは氷を溶かし、大地に刺さる寸前で引き戻された。
「ガアアッ!!!」
もはやユージオに韜晦はなかった。この覇王を打ち倒すことのみに、心血を注いでいた。四つ足の構えから突進すると、
「おおおッッッ!!!」
獣の咆哮。覇王の巨魁体躯を、歯を食いしばりつつも担ぎ上げる。筋肉には並々ならぬ筋が走り、傷跡はこれまでになく奇っ怪な絵を生み出した。持ち上げ、掲げ、そして!
「ドルアッ!」
叫びを打ち上げ、凍てつく大地に覇王を沈める。己が力を振り絞り、覇王の巨躯を投げ捨てたのだ!
「ハッ、ハッ……」
ユージオは、呼吸も荒いままに覇王を見る。起き上がらぬ。それでも、半刻待つ。だがやがて、二人を隔てて氷雪が舞い降り始めた。季節変移の早い北の大地が、酷暑期の終わりを告げたのだ。
「……頃合いか」
ユージオは小さく息を吐いた。今は滾りに満ち溢れる身体も、いつ崩れ落ちるかわからない。氷雪は、天からの警告だろう。そう思えば、諦めもついた。
「いい餌だった。また来るぜ」
ユージオは今一度だけ己を振り絞り、凍てつく大地を走り始めた。
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