第2話 VS悪党の群れ
宿屋の主は、
主は自身の立場を理解していた。街のちょうど真ん中という立地と、宿屋という生業を生かし、争う双方の勢力に頭を下げ、中立を確保した。住民から恨まれても、文句は言えない。
その日は雨。時節柄とはいえ、心には刺さる。主はいっそう倦怠感を濃くして、日々の業務に勤しんでいた。数人ほどの客が来るが、雨も相まって皆疲れた顔をしていた。「こっちがそうしたいんだよ」という心の叫びを、彼は必死に押し殺していた。
容貌魁偉に凶相の男が姿を見せてさえ、彼は倦んだ思いを隠さなかった。異様な気を放つ男を恐れ、客同士の揉め事を恐れ、ただただ不機嫌を隠さず、職務に全うしていた。しかし、彼の一念はあまりにも些少だった。
***
あんだって? 『地上最強の生物』を知りたい、だと? お前さん、アレは知らないほうがいい。あくまで噂だ。噂なんだ。……それでも知らなければならない?
お前、正気で言ってるのか? 俺はアレを俺たちの同類だなんて認めたくねえ。アレは人間の形だけした、別の生きもんだ。そうでなくちゃ、他の生き物に失礼だ。あんなのは、この世界にいちゃいけねえんだ。
……済まねえ、喋りすぎた。でもわかっただろ? 俺に聞いたってなんにも出ねえ。たぶんこの街の誰に聞いても、なにも話さねえよ。三年前のあの事件は、そりゃもう……あ? なんだこりゃ。金? いや、金の問題じゃなくてだな……おう。おう。
……ち、わかったよ。その熱意と金の倍積みに免じて、教えてやるよ。俺が言ったとか、よそに言うなよ? あまり関わり合いになりたくないからな……。
今でも思い出せる。アレは雨の夜のことだった。今思えば、あんな異様な男が、安宿に泊まろうとする時点でおかしかったんだ。ツラは猛獣のようだし、始終しかめっ面だった。機嫌が悪かったんだろうよ。
いや、別に飯を食わなかったとか、当たり散らしていたとか。そういうやつじゃない。なんて言うのかな……東方じゃあ『気』とか言うらしいが、とにかくなにかを押し込めている。そんな気がしたんだ。他にも感じ取っていた奴はいたな。ソワソワするだけで怒らせかねねえから、みんなとにかく小さくなってた。俺? 店がそんなだから、機嫌なんざ最悪だよ。それでも、
アンタも知っちゃあいると思うが、この街は当時二つに割れていた。小さな街の、チンケな抗争さ。毎日毎日騒ぎが起きて、なにかが壊れる。はっきり言って、全くいい街じゃなかった。いつもどこかで、誰かが泣いて、誰かがそれを嘲笑っていたんだ。
俺のいた安宿……つまりここだな。もうごまかさねえぞ。ここは唯一の中立地帯だった。たまたま街のど真ん中で、たまたま俺がその主人で。哀れな旅人や、どうしようもない奴に飯を食わせたりしてた。
で、今この場所が、かつては食堂兼雑魚寝部屋だった。あの日、奴さんと俺の他にいたのは五人。皆疲れた顔をしていた。外は雨。内には異様な気を帯びた男。ああ、全員黙りこくっていたよ。ガラスを割って、火球が飛び込んでくるまではな。
***
ユージオ・バールは、著しく不機嫌だった。大将軍に仕立てさせた馬車が、御者の不注意でぬかるみにはまり、役立たずになったのだ。御者は嘆き、必死に押し、馬を責め立てた。しかし雨期ということもあり、最後までままならなかった。
ユージオは半刻ほどで御者を見捨てた。殺すことも、助けることもしなかった。別に情けをかけたのではない。無能な御者に割く労力を、己のためだけに使った。それだけである。
ともかく彼は、二刻ほどの時間を費やして小さな街へとたどり着いた。大股で宿屋を探し、そのまま飛び込んで一角を得た。見るからに雑魚寝の安宿。しかし、一晩落ち着くにはちょうどよかった。明日には馬車も、どうにかなっているだろう。
他の客が見上げてくるが、ユージオは無視して壁に寄りかかった。はっきり言って熟睡は難しいだろう。だが安穏と寝るつもりはない。スリや悪党に狙われるヘマをやらかす予定はない。そもそも気が立っていて、とても寝られたものではなかった。
そうこうしている内に、夕暮れが近付いてきた。主人がろうそくを壁に掛けようとした時、事は起きた。飛び来る火球を観測した向かいの宿泊客が、顔をひきつらせたのだ。ユージオは即座に振り向く。転がり逃げる客。ユージオは火球の弾道に割り込み、右の拳を繰り出した。
「ハアッ!」
次の瞬間、信じ難い光景が生まれた。いかなる現象か、人の拳が火球を打ち消したのだ。だが、次の火球が迫り来る。
「轟ッ!」
今度は左拳。再び拳圧が火球を薙ぐ。しかし敵もさる者。今度はユージオを包み込むほどの火球が迫る。拳を作る暇もなくユージオは息を吸い込み、
「
宿にこだまする一際の叫び。ユージオはその身をもって火球を受けた。宿泊者どもは身体を伏せ、自身に火の粉が飛ばないことを祈る。だが、火の粉はおろか熱波さえ及ばぬことに気づいて顔を上げた。視線の先には、異様な光景があった。
「しゃらくっせえ……!」
無傷。ユージオはほとんど無傷だった。身体を覆う外套が半分焼け、容貌魁偉の肉体があらわになっていた。宿泊客が声を出しかけると、彼は鋭い目でそれを睨んだ。たちまち宿屋は静まり返る。小さく失禁の音が響くが、もはや誰一人とて意に介さない。
しかし表では鈍い物音。目を向ければ数人の男たち。刃物や金物を構えて、なにやら叫んでいる。ユージオは、先手を取って躍り出た。
「ちぇりゃあっ!」
気合の一声と同時に、数歩で侵入者どもとの間合いを詰める。後方ではさらなる火球を警戒し、主人がテーブルで窓を塞いでいた。ユージオは、窓が塞がるまでにほとんどの敵をねじ伏せ、無様な悲鳴をこだまさせた。まったくの完勝であった。
***
ちらっとアイツの体を見たらな、湯気が立っていたんだ。いや、筋肉も凄えもんだったんだが、とにかく全身から湯気を噴いていた。身体全体が、滾っていたんだろう。
で、連中がぶっ倒されると、一旦波が引いた。俺はキレてた。中立地帯のはずのこの宿が、下手すりゃ丸焼けになるところだったんだ。ただ向ける先がわからなかった。アイツは完全に怒り心頭だったし、中立をやめたら宿屋が滅びる。
そんなだから、漏らした客に八つ当たりしてたな。漏らすのはわからんでもないが、後始末はきちんとしろってな。そいつ以外も、ほとんど震えてたよ。魔物でも見るような目で、アイツを見ていた。覚えているよ。信じ難い光景が、立て続けだったかんな。仕方ねえよ。
ん? アイツと話をしたか、って? ああ、した。ちょうどこの頃だ。怪我人はいないか。焼けたものはないか。不思議なほど事務的な話だったぜ。後、この街についても少し教えてやった。
そうだ。俺はここで気づいたんだ。この話相手が、今回の原因かもしれない。でも、それを問い詰める余裕はなかったよ。会話の間さえ顔が怖いし、ずーっと深い呼吸を繰り返していた。そう、全く気を抜いてなかったんだ。……俺個人の感想だ。忘れろ。
ともあれ、会話を終えたアイツは、俺に頭を下げた。それと少しだけ金をくれた。それから静かに外へ出て……。ああ、本番はここからだ。今思い出しても鳥肌が立つぜ。
***
雄叫びが高く、街をつんざく。外へ出たユージオの、高らかな咆哮だった。蛮声は罪なき街の民を、一時的に戦闘絵図から引き剥がした。中には意識を刈り取られ、そのまま儚くなった者さえもいた。窓や路地から覗いていた野次馬が怯え、家の中へと引っ込んでいく。
「んだごらぁ!」
「ぶっ殺しゃあ!」
それでも突っ込んで来る者はいる。しかもユージオの左右からだ、つい先程聞かされた、小さな町の小さな抗争。カネやクスリで組織に命を絡め取られた下っ端は、己を奮い立たせて突っ込むしかないのだという。
「小せえな」
ユージオは口の中でつぶやいた。彼にとっては、あまりにも卑小に過ぎた。
「本来なら『餌』にもならねえ。取るにも足らん。拳を振るう価値もない。貴様らの不幸は――」
軍略の王道とも言える挟撃に対し、ユージオは聴覚で距離を読み、己から見て右手の敵へと踏み込んだ。
「――俺の機嫌が最悪だったことだ」
「んぁあ!?」
「ひぃ!」
一団の先頭がユージオの形相を視界におさめた時には、もはやすべてが後手に回っていた。判断する間もなく暴力の犠牲となり、路上のシミへと変じていく。しかも内一人は、さらに悲惨な結末を迎えた。
「るぉらぁ! 宿屋の手先をブチ殺……うわああああ!?」
左の群れの雄叫びを遮り、哀れな暴漢の顔が群れに向かって突き刺さった。群れの足が止まったところへ、ユージオが獅子の形相で
「旦那、危ねえ!」
宿屋から響く声に、ユージオは顔を上げた。向かい来るのは火球。しかも巨大なもの。ユージオはおろか、その場に横たわる哀れな悪漢たちをも焼き払える大きさだった。大した術式使いだと舌を巻きつつ、彼は拳を握り締める。
その時、恐るべきことが起こった。容貌魁偉、その上半身の
「――――――ッッッ!!!」
もはや人の上げられる声ではなかった。獣のそれに近しいものがあった。髪を逆立てた獅子が振るう右腕は、かすかに炎さえ帯びていた。その速さは、火球が肉を焼くよりも早い! そして拳は、火球の芯しっかと捉える。力を込め、ユージオはその芯を殴り飛ばした。
打ち返し。それは、もはや魔法にも似た業であった。だが火球はむしろ力を増し、真っ直ぐに発射点へと突き刺さった。撃ち込まれた発射点が炎上する頃には、ユージオの姿はすでに路地からかき消えていた。
***
あとは語ることなんざねえよ。奴さんの暴力と、我に返った街の連中が、この街のあらゆる悪党を叩き潰した。それでこの町は平和になった。少しして、俺は何年か遊んで暮らせる程度の金を手に入れた。まあ俺でもわかったよ。あの男が、なにかしたんだってな。
俺はその金を使って、安宿を普通の宿に変えた。一念発起ってやつだよ。小さな街とはいえ、行商人なんかも通る。宿は絶対に必要だ。あとは現実を思い知らせてやりたかった。残党どもにな。そうして今に至る、って訳だ。簡単だろ?
え? なんでそんな暴力の宴が起きたかって? お前、勘が悪くねえか? 考えてもみろよ。仮にも『地上最強の生物』なんて言われている男が、こんな街に現れたんだ。理由がなくたって、理由が作られちまう。連中は勝手に抗争相手を疑った。「敵が凄腕を雇った」ってな。
あとは簡単だ。「やられる前にやっちまえ」。巻き込まれるこっちとしちゃ、たまったもんじゃなかったけどな。ついでに相手も最悪だったってわけだ。
率直に言うと、たまたまのことだった。だが、そのたまたまでこの街は変わった。さて、話はここまでだ。
この街には、アレを恨んでる奴だっている。だから誰も口を開きたがらねえ。三年前とはたしかに変わった。街に笑顔も増えた。だがたった三年だ。恨みを押し流すにはまだ早え。俺は恨んじゃねえけどな。でも気持ちは複雑だ。俺だって、この街で育った。親しい付き合いの奴だっていた。そういうことだ。
さあ、もうこれ以上は出せねえ。帰っとくれ。宿は他を当たりな。これ以上アンタと話していると、初対面のくせに全部喋っちまいそうだ。ああ、そうしてくれ。じゃあな。
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