過去語② VS大賢者

「お若い方。こんな山あいの渓谷にまで、いかがなされた」

「かつて魔界にまで乗り込んだ大賢者が、この近辺に庵を建てていると聞いた」


 つるりと禿げ上がった老境の男と、黒髪総髪、容貌魁偉に凶相を備えた男が、小川を眺め、佇んでいた。二人に漂う空気は、静。穏やかに明るく、鳥が鳴き、木々がざわめく。そのさまは、凶相の男までもが牙を失いかけるほどであった。


「ほほう」

「術式と魔法のほとんどを修めながら、弟子も取り巻きも持たずに山奥に隠遁を決め込んでると聞いてな。こうして出向き、語りに来たのよ」


 小川の流れは緩やかに、さらさらと進む、質素な服に身を包んだ老人は、川の中へ静かに手を差し入れた。片手のみだったにもかかわらず、手の器いっぱいに水がたたえられていた。


「術法を修めずとも、地水火風。それら精霊とよしみを通じ、力を借り申さば、この通りに」


 凶相の男――ユージオ・バールは、ほう、と声を漏らした。彼には珍しい、感嘆の吐息である。老境の男に合わせて腰を落とすのさえ、苦にはならなかった。


「……魔界へ行きなすったかね」


 やや間をおいて、老人が口を開く。


「ああ」


 ユージオも低く返した。数年前、彼は魔界大陸へ足を踏み入れ、未熟を思い知った。知らなかったとはいえ魔王と拳を交わし、敗北こそしなかったものの、当時の四天王によって強制送還の憂き目に遭った。未だそそげぬその経験は、ユージオの喉元に深く突き刺さっていた。


「それがしが向かった折は、当時の勇者に神殿聖女、聖騎士とパーティーを組んでおりましたな。おかげさまで、この若輩でも魔王の素っ首、寒からしめることができ申した」

「人魔の和約、もう九十年近くは前だったか」

「左様。あの折は青年だったそれがしも、今じゃこう、ほれ」


 老人は禿げ上がった頭をつるりと撫でた。ユージオは顔に笑みを浮かべた。生きていれば齢にして百と二十ほど。だが、生きていると本人が言った。ならば、やるべきことは。


「この身一つにて、教えを賜りたい」


 ユージオが立ち上がり、マントを脱ぐ。それだけで風がにわかに吹き荒れ、鳥が木々から飛び立った。水面には細波が立ち、獣の唸り声がこだまする。魚が一匹、水面から跳ねた。


「精霊たちが騒ぎ出したぞ。それほどの狂気、どこに隠しておった?」

「狂ってはない。ただ強者と交わりたき心あるのみ」


 老人の気配が強くなり、ユージオは五歩の距離をとった。気圧されたとも言える。常人であれば、耐え切れずに逃げ出すだろう。


「くく。確かに武人を志すのであれば、狂気の淵で軽やかに踊るくらいの気構えはあるかのう」


 ユージオは腰を落とした。いずれの術が来ようとも面食らわぬだけの心得は固めて来たが。


「そう強張るでないぞ。そうやってギチギチに気を構えるほど、ほれ」


 老人がちょい、と手を動かす。それだけで周囲の光景が一変した。山間の、自然豊かな風景が。夜空を思わせる不可思議な空間に変わり果てている。


「案ずるな。対世界魔法に基づく、座標の転移じゃ。我々の戦いは、精霊泣かせになるからの」


 ユージオの肌を滑るように、老人の言葉が飛んでくる。それらが一層、ユージオを頑なにした。防衛的にした。


「ふむ。ではこちらから参ろうか」


 ごにょごにょ。いくつかの言葉が、ユージオの耳を打つ。それらが終わったかと思った瞬間、ユージオは水の中にいた。否、正確には水で構成された直方体に包まれていた。なぜか苦しさはないが、身動きがままならない。暴力で打ち破ろうにも、空間が直方体で途切れ、大振りの構えさえもままならない。


「精霊の扱いとはこのように、じゃよ。続けるぞい」

「むうっ!」


 水が解ければ、急に現れた地面へと落とされる。受け身を取った瞬間、再び地面が己を包んだ。暴れるたびに締め付けられる。


「~~~~~~~~~!」


 ユージオは力を引き締め、地面を千切らんとする。だがそのたびに締め付けられる。敵は見えず、酸素が薄くなっていく。ならば。

 ユージオは敢えて、己を丸くした。呼吸を深くし、目一杯縮む。自分が筋肉を振り絞って強打する時の過程を振り返る。力みと、解放。固くなるのは、悪しきことではない。固まり切って、動けなくなるのが最悪なのだ。ゆえに力む。丸まる。限界まで息を止め、力を溜めて。解放する!


「カアアアアアアアアアアアッッッ!!!」


 ***


 パアアアアアアアアアンッ!


「なっ……!?」


 自作の空間で大きく鳴り響いた破裂音に、老人は目を丸くした。ほとんど球に近い状態にまでユージオを追い込んでいたはずの地の精霊が、あっという間に散ってしまった。


「どう説き伏せた」

「知らんな。コイツ筋肉で引き千切った」


 再び不可思議空間に立ったユージオが筋肉を凝縮させる。各所の傷痕がつながって奇っ怪な絵を描き、大賢者は直感した。この者を、生きて帰してはならぬ。いずれ世界の災厄となり、全ての秩序を狂わせると。


「コオオオオ……」


 ユージオの深い呼吸が、空間に響き渡る。大賢者は百と二十を越える人生から、ユージオを確実に葬る方法を検索した。魔法、術式、精霊……その中から、わずかな勝機を探り……。


「ぬぅん!」


 多重防御術式。ユージオの殴打。両者がぶつかり、鈍い音が高らかに鳴った。ユージオの拳は、防御を突き穿てなかった。


「……守りを選んだかい」

「そう思うかね?」


 勝機を捨て、殻にこもることを選んだ敵手を、ユージオは挑発した。守りに徹すればたしかに負けはない。だが勝利もない。故に弱者。そうあざ笑おうとした。しかし、帰ってきた声は勝利を信ずる、確固としたしわがれ声だった。あまりの確信ぶりに、奇妙な感覚がユージオにまとわりつく。腹が立ち、振り切るように声を荒げた。


「一生殻にこもってろ!」


 荒げた声に、殴打を添えて。ユージオは防御術式を打ち破らんとする。だが、拳が防御に触れた瞬間。


「ほれ、始まるぞい」


 ニタリと、齢百二十の男が笑う。誠に厭らしい笑みだった。目にしたほんのわずかのタイミングで、術式が割れた。否、爆ぜた。防御用だったはずの殻が、至近距離から筋肉にくの鎧を撃ち抜いてくる。さらに、着弾と同時に発火した。

 吹き飛ばされるユージオは、しかし歯を見せず、転がらず、防御姿勢にてひたすら耐えた。声を出したり、痛がる素振りを見せたら、目の前の老人は容赦なく追い打ちを仕掛けてくる。そう読んだ。だが意地を張ったところで痛みが消えるわけではない。身体は硬直し、直立不動にしかなり得なかった。


「ふふ。声を上げんのは立派じゃが……そぉら!」


 老人の攻勢はさらに続いた。老人の目前の光景が歪んだかと思えば、ユージオはそこへ向けて強烈に引き寄せられていた。


「闇魔法とはすなわち対世界魔法。世界の理を歪める故の禁。これをもって汝を引き寄せ……」


 一歩の間合いで、今度は光を直視した。目を潰されつつも、本能が身をよじらせた。髪が焼き切れる音がし、今度という今度は転がって距離を取った。


「光魔法……すなわち究極の対人魔法で討ち果たさんと思ったが」

「抹消されていただろうな、俺以外が相手ならば」


 ユージオは先手を打って間合いを詰めた。速さを重視した攻撃で、老人に襲いかかる。だが、これも手応えがない。肉の寸前で、受け止められている感覚だ。


「クク。防御術式も極めれば薄皮でまとえるものよ」

「やりたい放題すぎるだろ」


 老人が腕を広げて防御を誇示し、ユージオはそれに対して凄む。しかしこのままではユージオが先に追い詰められるのは明白だった。


「打ち破ればよいのじゃよ。もしくは……」


 老人が再び口をモゴモゴ動かす。ユージオは阻止すべく一歩でゼロ距離にまで踏み込む。だが一歩遅かった。竜巻状の風が、老人を防御していた。風精霊と術式を組み合わせた、強力な防御だった。不用意に飛び込めば、木っ端微塵に切り刻まれていただろう。


「素直に切り刻まれてしまえばよかったものを」

「そうはいかん。なにも受け取れていない」


 ユージオは意を決して自分を軸に回転を始めた。竜巻の回転とは、逆方向にだ。遠心力を用い、一気に加速する。飛び上がり、上から突っ込むという作戦もあるにはあったが、それでは術法との勝負にならない。この大賢者を真っ向から打ちのめさねば、地上最強にはなりえない。ユージオはそう考えていた。


「ほう。考えよるか。しかし回転のみに集中……む?」


 ユージオの思考をあざ笑おうとした大賢者は、しかしはたと気がついた。精霊の気配が、弱まっている。徐々にユージオの回転が、竜巻防御を打ち破っていく。


「く……爆!」


 半分苦し紛れに、大賢者は爆破術式を放った。だがユージオは回転の威力で弾いてしまう。近距離過ぎて、光魔法では自分も巻き込んでしまう。防御術式の再設置――間に合わない。


「ぐはああっ!」


 ユージオの回転に弾き飛ばされる形で、大賢者は宙に舞った。意識が遠のいて転移魔法が解け、元の落ち着いた風景が帰ってくる。大賢者が頭から落ちてくるさまを見て、ユージオはやむを得ず受け止め、大地に寝かせた。戦においては残虐であり、上下関係も無視する傲慢ぶりだが、人非人ではない程度の心がけは持ち合わせていた。


 が。次の瞬間、大賢者が爆ぜた。自爆である。今少しタイミングが前であれば、ユージオにも並ならぬダメージを与えていた可能性があった。事実彼は爆発の圧でもんどり打って転がり、距離を取って立ち上がった。しかしその時ユージオが目にしたのは、大賢者の服を着せられた丸太だった。


『ホッホ。東方に伝わるシノビの術式にならったが……少々位相がズレておったようじゃのう』

「どこだ」


 突如として場に声が響き、ユージオは周囲に闘気を巡らせる。木々がざわめき、獣が鳴く。しかし大賢者の姿はない。


『若い方、落ち着きなされ。それがしはこことは限りなく遠く、限りなく近い場所におる。こちらからの手出しも、さっきので打ち止めじゃ。あとは勝手にやっておれ』


 再びの声。ユージオは闘気をさらに立ち上らせる。空気との摩擦で、発火しかねないほどに。


『この決着は預けるぞい。それがしは汝を殺す方法を見つけねばならん……空蝉までかわされては、どうにもならんでの。術式や魔法と組み合わせたせいで、精霊にも嫌われてしまったわい』


 ユージオの凶相が、険しくなる。「殺す」の二文字が、妙に突き刺さった。


「キサマ、何を」

『企みもなにもないぞ? その姿勢が衰えぬ限り、いずれ神にも手を伸ばす。その前にここで殺そうと決意したが、叶わなかった。故に同朋を募り、策を練る』


 ユージオの闘気がさらに膨れた。しかしそれでも探り当てられぬと実感したのか、やがてしぼんでいく。


「……せいぜい策に溺れていろ。俺はそれ以上に強くなる」

『それで良い。それがしもやり甲斐がある』

「チッ」


 興が醒めた、というのが実態といえた。大賢者は勝手に勝負を投げた。少なくとも、この場の勝ちは譲ったと受け取ってもいいだろう。ユージオは文字通り勝手にすることを選び取った。顔に渋面を浮かべたまま、彼は山を下りていった。

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