第013話 ストレージ・ゴースト
今日も真夏の青空が広がっている。
珍しく昼時にお客さんが入った午後、一息ついたカフェで店の
「箱に名前が記入してあるからね、直ぐにわかると思うよ」
「ひと箱でいいですか?」
「うん、茶器の様子を見て考えるとしようか」
あての無い旅の途中で、このカフェ・クリソコラにたどり着いた。
マスターのご厚意で四階の部屋を借りることになった代わりに、カフェで働き始めること、早五ヶ月。細々とした仕事も覚え、最近はすっかり朝から晩まで入り浸っている。
とは言え、既に
少し変った茶器の名と棚の番号のメモを手に、店の外の
踊り場程度のさして広くも無い
真夏の午後。扉は日陰の位置にあっても、熱風がうなじを
午後から夕刻の開店に向けて、準備の人がいればいいのだが。無人であったなら、扉も鍵がかかっているのではないだろうか。
ゆっくり、三度呼吸する間、耳を澄まして待つ。
返事は無い。
もう一度、と軽く拳を上げるわずかか先に、ギィ、と薄く手前に開いた。
扉は大きく重く、軽い衝撃や風で動くような造りではない、はずだ。返事すら
取っ手を軽く引いて、更に開いた隙間から覗き込む。等間隔に柱が並ぶ、高い天井の広い店。急に厚い雲が出てきたのか、明かりの無い店内は夕暮れ時のように薄暗い。
物音は……聞こえない。動く者の気配などない。
扉が開いたのは、単にきちんと閉まっていなかっただけなのだろうか。それはそれで不用心だろうに。
静かに足を踏み入れ、しっかりと扉を閉める。
整然と並んだテーブルや椅子は、広い店の奥、通りに面した窓から差し込む鈍い明かりを受け、
「すみません。誰か、いませんか?」
気配はないが、念のため声を掛ける。
「マスターの使いで、奥の備品庫に置いてある物を取りに来ました」
やはり返事は無い。
さて、と僕は息をついた。
この店の従業員とは大体顔見知りだ。もし誰かが来て問いただされたなら、用件を説明すればいい。幸い店には入れたのだから手早く用事を済ませてしまおう。
僕はテーブルの間を抜けて左手へと向かう。L字型に曲がった店の奥、大きめの艶やかな葉を伸ばした植木鉢の陰に、古めかしい扉がひとつあった。従業員専用の札は無いが、真上三階のカフェと同じ造りなら、この向こうが備品庫になる。
軽くノブを握ると、扉は軽く、キィと軋んだ音を立てて奥へと開いた。
窓でも開いているのだろう。涼やかな風が流れてくる。
手前の店内と同じく右手の壁に等間隔で窓が並ぶも、隣接のビルと壁が近いせいかひどく薄暗い。明かりのスイッチを探したが、直ぐ分かるような場所には見当たらなかった。
「このぐらいなら……見えなくも無い、か……」
後ろ手で扉を閉めて奥へと進む。手元のメモに記された番号を頼りに、ぐるりと視線を巡らせた。
手前の棚にあるのは、飯屋で使いそうなナプキンや季節物の皿と
覗き込んでみると、備品庫の奥に広めの空間がある。その中央よりやや壁際に、大きな機械があった。
箱状の鋼の土台の上に、ハンドルやパイプと繋がった、横倒しの
「すごい。
所々擦り切れた金属の具合から、長く使われて来た物と分かる。
昨今、気候の変化で珈琲はとても希少なものになった。今は何も無い、がらんとしたこの場所も、
「この匂い、懐かしいな……」
「珈琲を、口にしたことあるの?」
びくりと肩を震わせ、振り向いた。
少女がいる。
色の抜けたような、灰色の真っ直ぐな髪を肩まで下ろした、白いワンピースの少女が微笑みながらこちらを向いている。こんなに近くに来るまで足音に気づかなかったなんて、僕はどれだけ呆けていたのだろう。
「すみません、カフェのマスターの使いで、茶器を取りに来ました」
「ええ、さっき大扉の所で声が聞こえた」
ふふふ、と微笑みながらゆっくりとこちらに足を向ける。足音のしない静かな歩みは、少女の存在すら
飯屋の従業員にしては少し不自然な格好だ。店長や厨房の人の家族……だろうか。
「それで、口にしたことあるの?」
「あぁ……ええ、昔、子どもの頃に。ひどく苦くて驚きました。正直、味は殆ど覚えていないのですが、香りがとてもよくて。また口にできる機会があれば……と思っています」
高級な茶房やレストラン、ホテルなら置いている所もあるだろう。けれど今の僕には縁遠い場所だ。
「そうね……」
少女は囁くように言葉をこぼし、口元を綻ばせる。
「物は使われてこその幸せ。せっかく長く受け継がれてきたとてもいい
窓の明かりに鈍く光る、鋼のドラムを白い指先でなぞりながら少女は呟く。
「今年は、この子に火が灯るといいのだけれど」
「ここでも……あ、ここの飯屋でも、珈琲を出すのことがあるのですか?」
「ふふふ、
茶器から立ち上る湯気のような儚さで微笑む。
――と、その時、ざぁああ! とバケツの底が抜けたような水音が窓を叩いた。
夕立だ。そういえば奥の窓が開いていた。備品庫の品が濡れてはいけないと、慌てて駆け寄り窓を閉める。急な曇り空はこの予兆だったのか。
暑さとは違う汗をかいて額を拭い、振り向く。そこに――少女の姿は、無かった。
確かにハッキリとした声で、使われることなく置かれた焙煎器を
「あぁ、そうだ……茶器を、探さないと……」
夢から覚めた心地で呟き、棚を探す。
焙煎器のすぐ隣の棚にあった箱を一つ。壊れ物だろうから大切に抱えて備品庫を出る。その扉の向こう、飯屋の店内に明かりがついていた。
てっきり休みかと思っていたのに、午後から開店することになったのだろうか……。そう、思った目の前を、僕はもう一度疑った。
「えっ……」
先程までは人ひとりおらず、厨房には灯りはもちろん、湯を沸かす火すら入っていなかったというのに。今は店には従業員だけでなく、お客さんの姿もぽつりぽつりと見える。
備品庫に居たのは、ほんの十分足らずのはず……だ。
「あら、カフェの人?」
「あ、はい……」
髪を結い上げた明るい顔のお姉さんが、呆けた僕の顔を覗き込んだ。
名前までは知らないが何度か言葉を交わしたことのある、顔見知りの店員さん。もちろん、先程の少女とは全くの別人……だ。
「ん? 何か頼み事かな?」
「……あ、いえ。その、勝手に備品庫にすみません」
「マスターの使いね? いいのよ」
ひらひらと手をふり、呼ぶお客さんの方へと足を向ける。僕は夢見心地のまま飯屋を出て螺旋階段を上り、三階のカフェへと戻った。
夕立とも言えないていどの通り雨だったのか雲は切れ始め、輝くほどの夏の陽射しは、雨露に濡れた白いカーテンのように降りている。
「お帰り。なかなか見つからなかったかね?」
「いえ、少し……迷っていたよう、です」
ぎこちなく答えながら、僕はカウンターに頼まれ物を置いた。
受け取ったマスターが箱を開ける。中には花びらのように薄く透けた、乳白の
「うん、いいね」
「マスター、それは?」
僕が問うと、マスターは二階の備品庫で見た幻の少女に似た笑みで答えた。
「夏になると、この
変った名前の茶器は、コトリ、と軽い音を立ててカウンターに足を下ろした。
© 2020-2021 Tsukiko Kanno.
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