第002話 三十六層の三日月

 深い眠りだった。夢を見ないほどにぐっすりと眠ったのは、いつ以来だろう。

 旅の途中で足を止めた、カフェ・クリソコラで住み込みながら働くことになったのは昨日のこと。


「現実の方が、夢みたいだ……」


 僕の持ち物である壁際のバックパックが、誰かの忘れ物のように見える。

 ぐるりと見渡す、仮の住処すみかとなる四階の部屋はワンルームで、壁にはライトグレーの漆喰しっくいが塗られていた。

 一人部屋には少し広く、誰かが住んでいた気配は無い。それでも簡素なベッドとキッチンがあり、まだ夜は肌寒いこの季節にスチーム暖房機も備えられていた。

 窓は三つ。中庭を望むくすんだ窓ガラスには、夜明けの朝陽がにじんでいる。


 僕は身支度を整えてから、借り受けた濃紺の腰エプロンを締めて、三階の店に下りた。時間は朝の八時過ぎ。特に何時からと言われてもいないから、様子見を兼ねて顔を出す。

 少し雲が出てきたのか空が薄暗い。風も、昨日よりは冷たく感じる。


「早起きだね」


 僕が気付くよりも早く、目尻に皺を刻む女主人マスターの声がかけられた。

 てろんとした紺鼠のシャツにタイトなスカート。僕と同じ濃紺の腰巻エプロン。今日も色が抜けたような枯茶からちゃ色の髪をまとめ上げ、化粧も薄い。

 カウンターに沿うガス台のケトルからは湯が上がり、茶の香り漂う蓋碗がいわんが置かれている。

 こじんまりとした半テラスの店に客の姿はない。

 開店前なのか、それとも朝が早いからか、いつもこんな客入りなのかは判断できなかった。


「おはようございます。お店は何時からですか?」

「そうだねぇ……」


 呟いて小さく息を漏らし、茶を口に含んでから、曖昧に答える。


「お客さんが来たら、開けようか」


 特に決まってもいないのか。ずいぶんとのんびりした店だ。

 とりあえず手持ち無沙汰で立っていては間が持たない。僕はキッチンクロスを受け取り、テーブルを拭いて回った。


「真面目だね」

「損な性分です」


 そう、この性格も嫌で旅に出たのだ。

 適当に手を抜くことができない。上手く立ち回って好きと嫌いを選別できず、身の回りにある全てをリセットするしかなかった。

 あてのない旅……と言えば自由で聞こえもいいが、その実、暮していた街を逃げ出してきたに他ならない。辿りついた街で安宿を取り、時に駅のベンチで朝陽を待つ。自分の身の安全すら考慮しない、かなり「なげやり」な日々を続けてきた。


 ふらりと足を向けたこの店で、マスターに見透かされ宿を借り受けなければ、僕は今頃何をしていただろう。


「朝食はとったのかい?」

「いいえ、この辺りでどこか食べる場所は――」


 と言いかけて、ここがカフェなのだと思い出した。

 思い出しはしたのだが、料理を作るための道具や材料は見当たらない。そもそもこの店のカウンターでは狭すぎて、凝った調理ができるようにも思えなかった。


「何か摘まみたいならもう少し待ちな。しっかり食べたいなら、二階の飯屋に声をかけておこう」


 言葉を飲み込んだ僕を見て、マスターが「食事つきだよ」薄く笑った。慌てて、首を横にふり答える。


「あ、いえ……朝はあまり食べないので。温かい飲み物でもあれば」

「それでは、茶を淹れようかね」


 ゆったりとした声で笑いながら、湯を沸かし始めた。

 宿代がわりの仕事の筈だが、お茶まで振る舞われている。食事は「まかない」ということのようだ。

 勤務時間も無い。なにやら色々と、ゆるゆるな所のようだと思う背中から、しっかりとした足取りで螺旋らせん階段を上ってくる音がした。お客さんだろうか。


「いらっしゃいませ」


 振り向き言った目の前、年配の――おそらく六十代と思われる白髪の交じった男性が、少し驚いた顔で足を止めた。

 服装はきっちり、とはいえスーツ姿ではない。朝の散歩のついでに寄ったという姿だが、着ているシャツに皺は無く、髪も整えられている。何より、埃一つついていないレザースニーカーを履いていた。

 寂れたビルの隠れ茶屋ではなく、一流ホテルのラウンジにでもいそうな雰囲気の人だ。

 思わず立ち止まってしまった僕の後ろで、マスターが「いらっしゃい」と続いた。お客さんも驚いた顔のまま、声を掛けてきた。


「新しい店員さんですかな?」


 常連客なのだろう。何と答えればいいのか迷う僕の後ろで、マスターが「れいくん。四階にね」と続ける。それだけでお客さんは納得したように、「あぁ……なるほど」と呟き、口元を笑みにした。

 どうやら行き場のない人を見つけ出して宿を貸すのは、僕が初めてでは無いようだ。

 お客さんはカウンターの主人に視線を移して問いかけた。


「ところで、もう来ましたか?」

「いいや、でも……そろそろ来るころだよ」


 言うと同時に、螺旋階段の更に下、中庭から二階へ続く赤茶けた直線の階段を元気に駆け上がってくる音がした。お客さんは慌てたような顔で足早に店の一番奥、テラス側の席でこちらに背を向けるようにして座る。

 何かあったのだろうか。

 首を傾げつつ、お水とメニューを届ける準備を進めていると、元気な足音は更に螺旋階段を上って来た。


「まいどでーす!」


 ぴんと明るい色のショートヘアが跳ねた女性が、蓋のついた大きく四角いトレイを手に挨拶の声を上げた。弓なりの眉にこじまんりとした目鼻立ち。歳は僕より二、三歳上。二十歳を少し過ぎたぐらいだろうか。

 マスターが「まいど」と短く答える。

 ふんわりと、香ばしいバターの匂いが漂い始めた。


「あーっ、新しい人ですか?」


 この人も、よくあることと知っているのだろう。

 僕は曖昧な笑顔で「玲と言います」と答えると、「マキです。よろしくです!」と元気な声と笑顔が返って来た。マスターが声を掛ける。


「いつもの二十個だね」

「はい、今日は層がとても綺麗にできたんですよ!」

「三十六層かい? 腕を上げたね、美味しそうだ」


 カゴのまま渡すと、「それじゃあ、カゴは夕方引き取りに来ます!」と元気に頭を下げる。そしてくるりと扉の方に足を向けて店を出て行こうとする一瞬、奥のテラスの方に視線を向けた。

 湯の沸く音が流れる。

 立ち止まったのは一呼吸ほど。すぐさま「失礼します!」と元気な声で扉を開け、螺旋階段を駆け下りていった。


 つむじ風のような女性ひとだ。

 マスターは沸いた湯でお茶を淹れると、小さな皿に今届いたばかりの品を一つ乗せた。

 何層にもなった三日月型のパン、クロワッサンだ。


「これを席まで」


 トレイに乗せたお茶とパンを渡され、僕は「はい」と答えて受け取る。マスターは少し苦笑いしてから、もう一言を付け加えた。



「伝言。もうそろそろ、娘さんを許してやってもいいんじゃないか? とね」



 何のことだろうと思ってから、席に着くまでの間に察しがついた。

 自分が許さなかった道へ進んだ娘は、立派な職人に成長した。なのに顔を見て褒めることもできず、こうして人知れず、朝一番のカフェに足を運んでいるのだと。


 年配のお客さんはテーブルの上で指を組んだまま、じっと視線を落としている。

 その目の前、静かに皿を置きながら「マスターからの伝言です」と先程の言葉を伝えた。お客さんはわずかに唇を震わせてから、泣きそうな顔で微笑み、そっと指先で三日月を撫でた。







© 2020-2021 Tsukiko Kanno.

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