第037話 好きと嫌いとやっぱり好き

 カフェ・クリソコラではこれと決まった開店時間は無い。

 僕が朝の支度を終えて三階の店に下りるのが八時頃。その頃には大抵、女主人マスターは店に居て、二人で簡単な料理の仕込みや店内の掃除を進める。いつもそれらの準備が終わるタイミングで、お客さんは訪れた。

 マスターの不思議な直感で、来店時間が分かっているんじゃないか、と思うぐらいだ。


 この日も開店の準備を終えた頃に、カラン、と扉の鈴が鳴った。顔を見せたのは、いつもカフェに出すクロワッサンなどのパンを届けてくれるマキさん。なのだけれど……。


「まいどでーす」


 今日はいつもと服装が違う。春色の淡いシャツに軽い素材のカーディガン。まだ雪が残っているせいでショートブーツながら、タックの入った明るい色のパンツだ。ぴんと跳ねた明るい色のショートヘアによく似合う。

 大抵は白シャツに濃紺や黒の綿パンのラフな作業着で現れるのに、今日は明らかにお出かけ服装だ。けれど手にした四角いトレイはいつものもの。

 首を傾げる僕の前で、マスターはかわらずマキさんを迎えた。


「いらっしゃい」

「今日の納品です。それと新作を持ってきました!」

「新作?」


 興味をそそられてテーブルを拭く手を止め、僕は蓋を開けたトレイを覗き込んだ。

 いつものように香ばしい匂いを漂わせるクロワッサンや、季節の果物のデニッシュ。そして今日は、こんがりと焼けたお菓子が入っていた。

 手のひらにすっぽり収まる大きさの円柱状で、ぐるりと縦の溝が入ったフォルムが独特だ。バニラと微かに香る洋酒の甘い匂いが鼻孔をくすぐる。以前、見たことはあっても、まだ食べたことの無いお菓子だ。


「カヌレです!」

「これはまた、綺麗な形だね」


 同じくトレイを覗き込んだマスターが、頬を綻ばせながら呟いた。

 濃い焦げ茶色のカヌレ・ド・ボルドーは、外側がパリッとなるまで焼いた洋菓子だ。頭の少し凹んだ部分にチョコやクリーム、フルーツなどをのせた様々なアレンジも楽しめる。

 それらがトレイの中で幾つも並ぶと、華やかさの中に高級感すらあった。

 

「玲くんはカヌレ、好きですか?」

「あ、いえ……目にしたことはあっても、食べたことは無くて」

「わーそれは貴重。というか、責任重大っ」


 マキさんの言葉に首を傾げながらマスターを見る。ふふふ、と口の端を上げたマスターは、ゆっくりとお茶を淹れながら答えた。


「カヌレは好き嫌いが分かれるお菓子だからね。外側はカリっと、中はもっちりした柔らかさが特徴で、そこが良いという人と苦手だという人がいるんだ」

「洋酒を使っているし、焼き込んだ外側のほろ苦さも好き嫌いありますよね」


 マスターに続いてマキさんは苦笑いする。

 なるほど、珈琲コーヒーもあの苦味や酸味がいいという人もいれば、苦手だという人もいる。結局、食の好みは人それぞれだ。


「カヌレは元々、ワインの澱を取り除く清澄工程コラージュで多くの卵白を使った、その余り物の卵黄を利用したお菓子と言われている。材料は卵に砂糖や牛乳、小麦粉とバニラビーンズにラム酒。そして語源になった〝溝の付いた〟小さな釣鐘型の型に蜜蝋やバターなどを塗ってから高温で火を入れ、後に低温でじっくり焼いたものだ」

「さすがマスター、詳しいですね」

「昔好きで、よく作ったものさ」

「うわぁぁ……でしたら、厳しいコメントが聞けそう!」


 クロワッサンやデニッシュを店内のケースに移し、話題のカヌレは平皿に並べる。

 マスターと僕はそれぞれ、プレーンのカヌレを一つずつ小皿に取り分けた。一口でもいけそうだけれど、ここはあえて半分ずつかじってみる。

 歯ごたえのある外側から続くもっちりとした食感。ふわりと広がるラム酒とバニラの香りは華やかで、甘味の中にあるほのかな苦みは僕の好みだ。普段あまり、洋酒の入ったお菓子を口にしないから少し身構えていたけれど、想像するよりはクセが無い。

 うん、僕は好きかもしれない。

 マキさんが、祈るように指を組んで僕らを見つめている。


「バランスのいい仕上がりだね」


 マスターが一言、微笑みながら頷いた。


「中のの入り方も綺麗だし、外側の焼きの厚みもいい。ラム酒は控えめにしたのかな。やや甘味が目立つが、普段食べ慣れない人には丁度いい具合だろうさ。焼き加減など、ずいぶん練習したようだね」

「ううぅっ、さすがです! 玲くんは?」

「もう一個食べたいです」


 やったー! とマキさんがガッツポーズをする。

 自分が一生懸命になったもので周囲の人たちが喜ぶのは、何よりも嬉しいだろう。その気持ちは、僕も少しわかる。


「子供の頃からお菓子作りが好きで、いろいろ作って来たんです。でもこのカヌレはなかなかうまくできなくて、その内パン作りにハマってしまって……。結局、お父さんの願っていた将来を蹴っ飛ばしてしまいました」


 えへへ、と笑いながらマキさんは言う。


「いつか成功したら、食べさせたいと思っていたんです。だっい嫌って言って家を出てきたけど……カヌレは、お父さんの好きなお菓子だったから」

「きっと喜ぶよ。これからここに来るんだろ?」

「はい」


 言って肩をすぼめる。その笑顔が眩しくて、僕は静かに微笑んだ。

 そうこう言っている内に外の階段を上ってくる音がした。この足取りは、すでにカフェの常連さんになっているマキさんのお父さんだろう。間を置かず、カランと軽い音が店に響いた。


「いらっしゃいませ」


 いつもの声で出迎える。カウンター席にいたマキさんを見て、お父さんは「遅刻したかな?」と小さく苦笑した。


「私が早く来ただけだよ。新作の試食をしてもらっていたの」


 答えると同時に平皿の上のカヌレに気が付いたみたいだ。

 わずかに目を見開いて、どうぞと勧められたカウンター席に着く。マスターは温めていたカップに紅茶を注ぎ、小皿に取ったチョコレートのカヌレと合わせて並べた。マキさんが照れくさそうに笑う。


「もうここの常連みたいだけれど、改めて紹介します。父です」


 お父さんが、マスターと僕に会釈する。

 互いにこのカフェで顔を合わせながら、ずっと言葉を交わせないでいた二人は、昨年の珈琲祭りをきっかけに和解したのだろう。照れくさそうな表情をしていても、今はもうわだかまりがあるように見えない。


「これはマキが作ったのか?」

「そうだよ。マスターにもいい仕上がりだねって言ってもらっちゃった! これはお父さんにプレゼント。今日はバレンタインデーだからねっ」


 どうぞ、と手のひらで勧めながら白い歯を見せて笑う。お父さんは少し落ち着きなさげに「そうか……」、と呟いた。

 丁寧にフォークを取り、一口、ゆっくりと噛みしめながら味わう。特に何も言わなくても、柔らかく細めた目元を見るだけで気持ちは伝わってきた。


「ふふっ、私に恋人ができるまでは作ってあげるからね」

「ぐ……恋人? が、できたら?」

「それはもう、お母さんからのプレゼントで満足してよ」


 あはは、と無邪気に笑うマキさんは、いつもの職人としてではなく一人の娘の顔だ。これから二人は、数年ぶりの親子デートに行くらしい。


「玲くん、ありがとうね」


 マスターとお父さんが談笑する後ろで、マキさんは僕にそっと声をかける。


「なんかもう、お互いに意地の張り合いになっていたのは分かっていたんだけれどさ、なかなか切っ掛けが無くて」


 そういうものだろうと思う。

 頭では理解していても、感情が追いつかないことなんてたくさんある。


「なんか……改めて思うんだ。心配もかけたし困らせもしたけれど、子供が親にワガママを言うのって特権だよね」

「特権?」

「うん。その代わりワガママを貫いたなら絶対に叶えてやるって。やっぱりダメだったーなんて言わない。そういう気持ちで今日まできたから」


 じっと僕を見つめる大きな瞳は、ひどく大人っぽく見える。


「パン屋として働く毎日は大変だし辛いことが全く無いわけじゃないけど、幸せだよって自信持って言える。私が作ったもので誰かを笑顔にできる。そういう夢を与えてくれた神様に感謝かな」


 そして、マキさんはお父さんとよく似た形で瞳を細めた。


「君はそういう夢、何かある?」

「僕は……」


 言いよどむ。視線をそらして窓の外に向ける。

 僕の夢。願い。誰に反対されても貫きたいもの……それは。


「無理に探さなくたっていいよ。けれど、これだ! っていうのが見つかったなら、上手くできるかどうかなんて考えないで、全力、出しなよっ!」


 ぐっ、と拳を突き出してくる。

 僕は頷いて答えた。


     ◆


 カヌレと紅茶を堪能して一息ついたお父さんが席を立つ。マキさんは次に来た時にトレイを回収すると言って手を振った。その店を出る間際、不意に僕のシャツを掴んで耳打ちする。


「ところで、りーちゃんから連絡きた?」

「えっ?」


 リラの樹の下で出会った少女とは、昨年暮れの聖夜祭以降会っていない。

 きっと忙しいのだろうと思う。名前と連絡先は聞いていたが、それこそ気恥ずかしさが先に立ち、僕の方から連絡を入れる切っ掛けがつかめずにいた。


「夕方になっても店に来なかったなら、連絡入れてみれば? アドレス知らない?」

「知って……います……」


 ニヤリ、とマキさんが笑った。


「美味しいカヌレ食べにおいでよ、でいいじゃない。ガンバ!」


 ぱしっ、と軽く肩を叩いて、マキさんはお父さんと一緒に店を出ていった。

 どうして最後の最後に気になる言葉を残していくのだろう。今日一日、落ち着かない日を過ごしそうで、僕は小さく息を吐いた。







© 2020-2023 Tsukiko Kanno.

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