第036話 福福寶来

 立春――太陽黄経が三百十五度となる日。

 暦の上では春の始まりとなる、その前日が冬と春の境目の「節分」だ。だから年によって節分の日は変わっていく。地球の公転周期が、きっちり三百六十五日ではないために……というのは知識として知っていた。

 もちろん節分にまつわる、様々な行事も。


「けれど、豆まきをしたことは無かったと」


 陽の暮れた店で湯を沸かすケトルの前に立ち、カフェ・クリソコラの女主人マスターは穏やかな声で僕を見た。今日も色が抜けたような枯茶からちゃ色の髪をまとめ上げ、てろんとした生地のシャツをラフに来ている。色は春を先取りしたような明るめの若草……いや、少し落ち着いた若苗色だ。

 そんないつもと変わらない姿で、フードを深くかぶった若いお客さんを迎えている。

 歳は二十代後半ほどの男性。僕は初めて見る顔だけれどマスターとは顔見知りのようで、カウンターの席に座ってからというもの、ずっと気さくな口調で世間話をしている。その話の流れで、僕に「豆まき」をしたことががあるかと問いかけられた。


「生前……父が居た頃は、年明けから春というのが一年で一番忙しい時期でしたから。小さな頃にはやったかもしれない、のですけれど……うぅん、やっぱり記憶はないです」

「今はどこもそうなのかね」

「まぁ、俺としてはありがたいけれどな」


 茶の杯を傾けながら、お客さんは口の端を上げて笑う。豆まきが嫌い……な人なのだろうか。不思議に思う僕の顔を見てマスターは瞳を細めた。


「いつも追い立てられる役だったからねぇ」

「鬼役、だったのですか?」


 僕の言葉に応えてちらりと視線を向ける。そして意味ありげに、ニッと白い歯……いや、やけに大きな犬歯を見せた。なるほど、これなら鬼としても雰囲気がある。


「穀物には邪気を払う力があるってな。年末に小豆とか食べなかったか?」

「頂きました。美味しかったです」


 思わず拳を握り、マスターが笑う。


「豆は魔目とか魔滅とか……まぁ、語呂合わせみたいなものだが、鬼が苦手な物として邪気払いに使われるんだよ。特に大豆。そいつを思いっきり投げつけられてみろ、逃げもするだろう」


 確かに、鬼役には辛い行事かもしれない。


「無病息災を願うとはいえ、鬼の方々にはお見舞い申し上げます」

「ははは、アンタ面白いね!」


 頭を下げる僕に、お客さんは声を上げて笑った。


「マスター、気が乗った。ちょうど節分なんだ、豆まきしようぜ!」

「いいのかい?」

「今年は俺もまく側になるよ」


 そう言って入り口の扉と、冬の間は閉めているテラス側の仕切り窓を開けた。

 冷たい夜風が薪ストーブで温められた店内を抜けて行く。その澄んだ空気に、僕は思わず大きく息を吸った。体の中にこもっていた熱まで清められるようだ。

 マスターが、「ますを置いて無くてね」と、スープボウルに用意した炒り豆を手渡す。この歳になってという気恥ずかしさが無くは無いが、それでも初めての経験に胸が踊っている。

 お客さんが目深に被ったフードを取りながら言った。


「いいか、思いっきりいけよ」

「えっ?」


 顕わになった顔の額の上、その両端には青みがかった墨の髪色よりわずかに薄い、親指ほどの長さの二本の角が……あった。

 正に、鬼のような。

 いや、このカフェには、人ならざる者も訪れはするが……節分の日に鬼の来店とは。


「そぉーれ! 福はぁあ、うちぃぃい! 鬼もぉお、うちぃぃい!」


 僕の驚きをよそに、ボウルの炒り豆を掴んで扉の外に向かい声を上げる。

 しかも鬼は外、ではなく!?


「お、鬼も内なんですか?」

「鬼も内だろ。仲間外れにすんなよぉ。世には良い鬼だっているんだ。鬼神は天地万物の霊魂を差すってな。人を不幸にする悪鬼ばかりじゃない」

「いや……まぁ……」

「それに福ばかりでは、気づけないものもあるだろう?」


 犬歯を見せてニッと笑う。勢いにされる。

 た……確かに。不幸は歓迎しないけれど、辛さがあってこそ、ささやかな幸せに気づかされる。猛々しくも見守り守護する存在なら、「鬼」と名がつくものも福の内になるのかもしれない。


「それに、あちこちで追い出された鬼も、一ヶ所ぐらい受け入れてくれる所があっていいだろ? な、マスター?」

「ここでの悪さは控えておくれよ」

「わ―かってるって!」


 鬼が陽気に豆まきをする。楽しそうに。福は内、鬼も内、と。

 僕もつられて笑い豆を飛ばす。福は内、鬼も内、と。


 冬の大気が流れ、抜けて、春の気配を呼ぶ。まだ窓の外は雪景色でも、そこに刺すほどに凍える色は見えなかった。

 季節が変るんだ。

 節目となって、新しい世界が始まっていく。


「あははは! 俺も豆をまいたのは初めてだ」


 思いっきり豆まきを楽しんだ鬼のお客さんは、仕切り窓を閉めながら笑い声をあげた。僕も扉を閉めて、踏んでしまう前にと撒いた豆を拾い集める。これは捨ててしまうのだろうか。

 店は毎日綺麗に掃除をしているが、床に落ちたものを口に入れるのもどうだろう。


「マスター、この撒いて拾った豆はどうするんですか?」

「うん、数え歳の分だけ食べたり洗って福茶にする、という地方もあるが……まぁ、ここは別の方法でいこう」


 そう言って、手のひらほどのサイズのさらし布に、僕の数え歳の分の豆を取り分けた。そしてくるくると口を軽く縛り巾着のようにしてから、ほい、と手渡す。


「丈夫でいてほしいところ、病が癒えてほしいところ、まぁ……体のそんな場所に軽く当てて、後日川に流すんだ」

「どれ、俺が、頭がよくなりますよーにと願掛けしてやる」


 僕の分の巾着を手に取り、頭にぽんぽんと当てる。

 からかっているようでもあり、優しく撫でるようにも感じる仕草に、僕は思わず笑ってしまった。記憶はないというのに、何故がひどく懐かしい感覚がして……。


「これで悩まず、前を向いて進めるぞ」

「ありがとうございます」

「ははは、殊勝しゅしょうな心がけ。良き良き」


 時代がかった言葉に思わず笑う僕たちへ、マスターは新しい茶を淹れた。

 和の茶の時に出てくる、素朴な茶碗だ。カウンターに並んだ明るい色の杯には、真ん中を結んだ昆布と小粒の梅干、そして撒かずに残った大豆が三粒入っていた。

 水色すいしょくは薄い緑。緑茶……ではなさそうだ。


「福茶だよ。白湯や煎茶、ほうじ茶で淹れるものもあるが、今回は玄米茶で」


 お客さんだけにではなく僕にもどうぞと勧められ、お礼と共に茶碗を手に取る。ふんわりと立つ湯気が香ばしい。ふぅ、と軽く息を吹きかけ一口含むと、優しい味わいが広がっていった。


「炒った玄米の甘さに昆布や梅干しの塩気が効いて、ほっとする……」

「マスターの福茶は、いつも美味いねぇ」


 お客さんも満足げに呟く。鬼すら虜にする福茶。こんなお茶を出されたなら、たしかにここでは悪さなんかできそうにない。

 再び温まり始めた店内で、ストーブの中の薪がパキと軽い音を立て、弾けた。春の訪れに合わせ、この音を耳にする日も無くなるのだろう。

 そう思うと寒い冬も別れがたい。


「んー……さて、今年も満足したし。行くとするか」


 穏やかな夕べをゆったりと過ごしたお客さんが席を立つ。見送るマスターが、「来年も豆まきの準備をしておくよ」と笑って言った。


「それもいいね。楽しみにしているぜ」


 僕の方をちらりと見た鬼は、ニヤリと笑いながら風をまとい店を後にする。流れ来る風には湿った土の、春を予感させる匂いがした。







© 2020-2023 Tsukiko Kanno.

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