第035話 冬の嵐

 ごおぉぅう! と窓の外で風がうねる。

 時刻はとうに日の出を過ぎている。だというのに、明かりを点けなければ手元が薄暗く感じるほどに暗い。時々、瞬間的に電気が途絶えるのか、お客さんの居ないカフェを照らす光が瞬く。

 雪のない季節には開け放つテラスも、今はしっかりと仕切り窓で閉じられていた。風にさらされている空間の奥行きは、二人掛けのテーブルを三卓ほど縦に並べられる広さ。すぐ目の前に手すりがあるはずなのに、今はそれすら暴風雪の中で霞んで見える。


「心配しなくとも大丈夫だよ」


 小さなキッチンではいつものように、女主人マスターが湯気立つカップを傾けていた。晴れの夕暮れも嵐の朝も、この穏やかな人の表情は変わらない。僕は「はい」と答えながらも、恐々とカウンター席に座った。

 強化ガラスとは聞いていても、震える窓は風の力で、今にもひびが入るのではないかと感じてしまう。

 生まれ育った街にも年に何度かは台風が通過していた。だが防音効果のある壁や窓に遮られ、普段の生活で風雨の気配を感じることは少ない。なにより、目の前の仕事を片づけることばかりに意識が向いて、移り変わる季節を気に留めたことなどなかった。

 決してここの造りが弱いわけではないだろうが、良く言えば外の気配がよく分かる構造と素材の建物に、どことなく落ち着かなくなるのは仕方がないではないか。


「朝起きて、驚いただろう」

「はい……数日前から台風並みの低気圧が来る、という情報は聞いていましたが……窓の外が全く見えなくて……」


 夜明けの頃は、窓にまるで水浅葱みずあさぎの色紙でも貼っているようだと思った。今も太陽は全く見えない。ただ、墨を薄く溶いたような白鼠しろねずの色に変わったことで、陽が昇ったのだと分かるだけ。

 風で走る雪の影が無ければ、まるで建物ごと真っ白な異空間に飛ばされたのでは、と感じてしまうほどだ。


「ホワイトアウトだよ。こんな日は、家の中で大人しくしているに限る。下手に出歩けば、命の危険すらあるからね」

「迷子になってしまうからですか?」

「まぁ、方向を見失うというのもあるが、強風にさらされ続けて低体温症にでもなれば、凍死してしまうよ」


 そうだ。薪ストーブが赤々と燃える室内にいると実感できないが、外はマイナスの気温。吹き荒れているのは凍った風だ。

 よく聞く言葉に、風速一メートルで体感温度は一度下がるという話がある。実際には湿度も関係しているから、必ずしも風速一メートルでマイナス一度の体感とは限らないようだけれど、おおざっぱに見て大きく外れない目安だろう。

 仮に今、外気温がマイナス五度だったとしても、風速二十メートルの風が吹けば体感はマイナス二十五度となる。

 そんな世界……僕には想像できないし、体験も遠慮したい。


「今日は……お客さん、来ませんね」

「まぁ、さすがに……来ないだろうね」


 ふっふっ、と笑うようにしてマスターが呟き返す。

 誰も来ないと分かっていて、どうして店を開けているのだろう。そう思う僕に、マスターは口の端を上げて尋ねた。


「お客さんが来ないなら、今日は上の部屋でのんびりしていていいんだよ」

「えっ……」


 同じ建物の四階に、僕は少し広めの部屋ワンルームを借りている。

 飲み物や食べ物はあるし、住居部分は集中暖房のスチームストーブが設置されているから、寒さの心配もない。とはいえ、こんなに風の強い、昼間でも薄暗い嵐の日に一人……というのは……。


「あ、あの……マスターがここに居る時間は、僕も……ご一緒させてもらって、いいですか?」

「もちろんだよ。まぁ、時間もたっぷりあることだし、冬野菜を使ったスープでも作ろうかね」


 軽い声で答える。もしかするとマスターは僕のために、ここを開けていたのかもしれない。そう思いながらも口には出さずに、「ありがとうございます」と頭を下げた。

 久々に、今日は僕がお客さん、という気持ちで。


「さて、餅も残っていることだし、甘い小豆あずき善哉ぜんざいもいいが、まずはたっぷり腹を満たしたいね」

「今ある食材は……」

「カボチャとニンジン、さつま芋、ゴボウに豆と豆乳もあるよ。ベーコンを足して……ふむ、根菜のチャウダーもいいね。外は冬の嵐だというのに、温かいものを頂けるとは幸せじゃないか」

「はい」


 頷いて、歳の暮れに食べたカボチャと小豆のいとこ煮を思い出す。


「甘いカボチャもいいなぁ。小豆と煮た……」

「ははは、ずいぶん気に入ったようだね。汁気を多くすればかぼちゃ善哉になる。後でおやつにしようか」


 頷いて、僕もキッチンに入りマスターの隣に立った。


 ニンジンとさつま芋を小さなサイコロ状に、ゴボウも同じぐらいのサイズの輪切りにして水にさらす。その間に、カボチャも一口サイズに切り分けた。バターで炒めたベーコン入りの鍋に、あく抜きをした根野菜の水気を切り、投入。手早く混ぜ合わせていくと、香ばしい匂いが店内に広がっていく。

 作っているのは〝まかない料理〟になるのだけれど、使い残しの材料ではないのだから贅沢すぎる。


「相変わらず、手慣れたものだね」


 ゆっくりと小豆を煮るマスターが呟く。

 最初は見よう見真似だった。父が亡くなってからは独学で。誰かに教えられたわけでは無くても、長く続けていたことは体が覚えている。


「基本的に家事は自分でやっていたので……。やっぱり、わかりますか?」

「分かるさ。道具の使い方を見ていればね」


 バターが全体に回ったころ合いを見て小麦粉を振り入れ、一カップ半分のブイヨンスープを足した。沸騰した頃合いをみて弱火で煮込む。野菜が柔らかくなれば、水煮の豆類と豆乳を入れ、塩コショウで味を調える。後は軽く煮込めば完成だ。

 一通りの行程を終えて調理器具を洗いながら、僕は呟いた。


「そう言えば……僕がここに来るまでのこと、マスターに話していなかったですね」


 十ヶ月……そろそろ一年が経とうというのに。

 これまでの間、マスターは僕に何を問いただすことなく置いてくれていた。信用してくれていたのだと、改めて気づく。


「話してみたくなったかい?」


 話したくなったのなら聞くよ、という雰囲気で手元の鍋を見つめている。

 改めて話すほどのことでも無いような。でも……世界が消えてしまったように非現実的な窓の外を見つめ、僕は夢の中にいるような心地で呟く。


「そう……ですね……」


 根菜のチャウダーが出来上がり、磯辺焼きの餅を添えた皿をカウンター席に並べた。「いただきます」と手を合わせ、豆乳のスープをスプーンにすくう。一口。煮込んだ根菜と豆の優しい甘さが広がり、香ばしい醤油の餅は懐かしさを呼び起こしていく。

 体の中が……温まっていく。

 温まり満たされこぼれ出てきた言葉は、父と暮らした懐かしい思い出ばかりだ。


 当時、十歳ほどだった僕が出来たことなどたかが知れている。けれどぎこちない手つきで泡だて器を回し焼いたパンケーキに、黄身が崩れてしまった目玉焼き。仕事で忙しい父のために、大きさも形もまちまちになったおにぎりを並べた日もあった。

 大きな窓の光溢れるキッチンは、いつも、柔らかな湯気の中にあった。

 あの世界を再現した空間は、今も三次元仮想空間メタバース内で〝ジーンの家〟として存在している。


 そして、そのデザインを好きだと、ハマったのだと笑顔で語るユーザーも。


 いつの間にか、窓を叩きつける風の勢いが落ち着いていた。

 世界を真っ白に染める雪は変わらず。それでも雲の厚みが薄くなってきたのか、辺りは淡い金色に輝き始めている。


「嵐が、過ぎたみたいです……」


 マスターが頷く。

 窓からの陽射しに、カフェ・クリソコラは今日もお茶の湯気に霞む。







© 2020-2023 Tsukiko Kanno.

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