第038話 春色クリームソーダ

 リラの樹の下で出会ったあの子に、連絡……を、してみようかと考える。

 考えて、悩んでいる内に日が沈む。日を改めどうしようかと迷い、カフェであれこれ動き回っている内にまた夕暮れになる。そうこうしていると、ますます連絡を入れづらくなってしまう。


 ふとした瞬間に思い出す。


 春の終わりの冷たい雨の日の中で、生気の抜けたように佇んでいた横顔。

 真夏のパーティーでは戸惑いながらも皆と椅子を並べ、微笑んでいた。

 日焼けを知らない白い肌と柔らかな薄紅の口元。背中にまで届く、濃い焦げ茶の真っ直ぐな髪は揺れ、常磐ときわ色の瞳が煌めく。夕暮れの陽を浴び金色に縁取られた姿は、世界から彼女だけを浮かび上がらせているかのように見えた。


 熱いカップを両手で包むようにして。

 息を吹きかけ傾けて、一口含み、僕を見上げる。そして微笑む。「とっても美味しい」と、こぼれる言葉が甘く広がる。夜空に広がる花火の下で聞いた名前。

 それを今まだ、口にするのは恥ずかしすぎて……。

 

 彼女とは、あの暮れの聖夜祭から会っていない。僕から連絡をしていないこともあるが、向こうからの連絡も無く、店に顔を出すことも無い。

 忙しいのだろうか。

 それとも体調を崩しているのだろうか。

 先日、パン屋のマキさんが言っていたように、「お菓子を食べに来ませんか?」と気軽に誘ってみればいい。そう思いながら、携帯通信機をタップする指が動かない。


 昔から人を誘う、ということが苦手だった。

 父を含め、周囲の人たちは働いている大人ばかりだったから、自分から働きかけて手を煩わせるのが嫌だった。目の前に集中できるタスクがあれば、独りでいてもあまり苦ではなかったせいもある。

 そういえば以前いたスタジオで、アシスタントをしていたアサミさんに言われたことがある。

 玲はシャイで人見知りだよね、と。口数が少なすぎて、とっつきにくいと思われている。話してみたらそんなこと無いのに。誤解されやすいタイプかな――と。

 自覚のあることだから反論ができなかった。


「――で、どちらが好みかね?」


 不意に声をかけられ、ハッとしてカウンターの向こうの女主人マスターを見た。

 春からのデザートにクリームソーダを出そうという話になり、今はその試作を作っていた。だというのに僕はソーダの入ったグラスを見つめながら、思いっきりぼぅとしてしまっていた。


「すみません。話を聞いていませんでした」

「ふふっ、いいさ。春だからね」


 朝晩の冷え込みは冬と春を行ったり来たりしていても、昼の陽射しは日々輝きを強め、風の匂いも変ってきている。雪の多いこの町の春は遅いだろうと思っていたのに、街路樹の緑が萌えるのはそう遠くないように思える。

 そしてカフェ・クリソコラのカウンターには、季節を先取りしたような明るい色のクリームソーダが並んでいる。


 ひとつは定番の空色に、バニラアイスとチェリーをのせたもの。そしてもう一つは淡いピンクの桜シロップに、マーブル模様になったイチゴとバニラのアイスをのせたものだ。こちらはミントの鮮やかな緑がアクセントになっている。


「春色のソーダを目にして、心に浮かんだ人でもいたかね」

「そ……ういう、わけでは……」


 マキさんや常連のカナコさんだけでなく、マスターまでそんなことを……。いや、それだけ僕が、分かりやすい顔をしているってことだろうか。 


「いいじゃないか。それだけ周囲が見えるようになってきた。自分の気持ちが軽く、自由になってきたということだろう」

「マスター」

「人に興味が向いたというのは、そういうことさ」


 ふふふん、とマスターがご機嫌な様子で笑う。そして試食してごらんと、柄の長いスプーンを渡して来た。

 定番のソーダはさっぱりとした味わい。ほんのり桜が香る薄紅のソーダは、甘さを抑えたストロベリーアイスの酸っぱさがいい。何より淡い花の色は、見ているだけで華やかな気持ちになっていく。


「ひな祭りも近いんだ、会う口実はたくさんあるだろう」


 定番のソーダを手に取り、マスターが冷たいクリームを口にする。

 今日は特に陽射しが強く、昼前から薪ストーブの火を落としていた。それこそアイスを食べたいと思うぐらいに暖かい。雪の下でも、芽吹こうとするものたちの気配が僕の背を押す。

 ぐっ、と拳に力を込めてみる。

 今がタイミングなんだ。これを逃すと僕のことだ、またぐずぐず先延ばしにして、結局何もしないままで終わってしまう。


 よし、と心の中で気合いを入れて携帯通信機のアドレスを呼び出し、メッセージ画面を開く。いきなりコールは戸惑うだろうから、ここは相手の都合のいい時間に見ることができる文字のメッセージがいいだろう。

 まずは挨拶文を……入れようにも思いつかない。だから一言、「新作のクリームソーダがあります。いかがですか?」とタップした。

 入れて送って、いややっぱり、これでは言葉が足りなすぎるとキャンセルしようとした目の前で既読がつく。ええっ!? まだ送って、一秒ほどしか経っていない!

 そのまま間を置かずに返信が来る。一言、「うかがいます」と。

 どうしよう。

 慌てて顔を上げると、口の端を上げて笑うマスターと視線が合った。


「さて、今日もお客さんは少なそうだし、少し用事をすませてこようかね」

「出かけるんですか!?」

「レシピは覚えているだろう? 後は頼んだよ」


 腰巻きのエプロンを外したマスターは、足取り軽く、上着を片手に店を後にしていった。


     ◆


 彼女が店の扉を開けたのは、メッセージを送ってから三十分ほど経ってのことだった。

 それまでグラスを拭いたり皿を拭いたり、今朝拭いたばかりのテーブルを拭き直して窓も拭いてと……自分でも情けないぐらいに落ち着きがない。聞き慣れた、カラン、と鳴る軽い音にすら驚いて、僕は扉の方を向いた。


「こんにちは」

「いらっしゃいませ」


 心臓はうるさいぐらいなのに、反射的にいつもの声で迎えてしまう。

 そんな僕の様子に、彼女はほっとしたような顔を向けた。明るい春色のコートを脱ぎ、どうぞと示したカウンター席に彼女は座る。


「お返事、直ぐにありがとうございます」

「いえ、すみません。驚かせてしまって……その、ちょうど私もメッセージを送ろうと思って開いていたところでしたので。クリームソーダの文字を見て、飛んできてしまいました」


 軽く肩をすぼめて笑う。彼女の顔色は悪くないが、暮れに会った時より少し痩せたように見えた。


「聖夜祭の時はご馳走になりました。ありがとうございます」

「いえ。その……お元気でしたか?」

「はい……少し忙しくしていて、新年のご挨拶も無く来てしまいました」


 思い起こせば二ヶ月ぶりだ。

 僕は「元気なら、よかったです」と自然な感じで笑い返した。笑い返せたと思う。心臓は……相変わらず、うるさいままだ。


「ひな祭りも近いので、少し変わったクリームソーダをマスターと考えたんです」

「そういえばマスターは?」

「所用で出ています」

「あ、そ、そう……なのです。ね」


 頬を赤くして急に落ち着かなくなる。そんな姿を前にすると……僕もつられて、落ち着かなくなってしまう。ここは平常心。平常心。

 気取られないように深呼吸をしてからグラスを用意する。クリームソーダの工程は難しいものではない。

 グラスの口元までたっぷりのクラッシュアイスを入れ、薄紅の桜シロップ、透明なソーダの順で静かに注ぐ。デッシャーで取った、バニラ多めのマーブルストロベリーは沈まないように。もちろん小さなミントを添えるのも忘れない。

 ソーダスプーンとストローを合わせ、浅いガラスの受け皿の上にグラスを置いた。

 透明な泡が、きらきらと輝く小さな宝石のように浮かび上がっていく。


「きれい……」

「どうぞ、春色クリームソーダです」

「……嬉しい」


 そう囁いて、「いただきます」と手を合わせてから、スプーンを取った。

 先ずはアイスクリームを一口、二口と。次にそっと挿し込んだストローでソーダを口にしてハッとする。言葉は無くてもその表情だけでかわる。美味しそうに口にする姿は、見ている僕まで嬉しくなってくる。


「甘酸っぱいアイスクリームの下……これ、桜シロップなんですね。春を先取りしていて、とってもステキ……」

「桜シロップを生かすのなら、オーソドックスなバニラアイスがいいか悩んでいて。でもやっぱり、花が咲いたように華やかな雰囲気も欲しくて……」

「ストロベリーが少なめのマーブルなので、桜を邪魔していないと思います。どちらもほんのり香る味わいですから、私は好きです」

「よかった」


 肩の力を抜いて僕は呟く。

 彼女は美味しそうに半分ほど食べてから、す、とスプーンを置いた。そして真っ直ぐ、キッチンに立つ僕を見上げる。

 一呼吸。

 その間は、彼女に何らかの覚悟を決めさせているように見えた。


「私……玲さんに、お伝えしたいことがあるのです」


 改まった表情と声に、僕は背筋を伸ばし首を軽く傾げた。

 

「昨年、あの雨の日にここの中庭で声をかけてもらったことで……周りが何も見えなくなるような絶望の中から、救ってもらいました」


 何があったのか詳しいことは何も知らない。彼女が話せないのなら、話したくない事柄なら、僕は知らなくていいと思っている。


「もう誰も信じられないし信じたくなくて、温かな手も要らないと思っていました」

「うん……」

「でも、あの日の一杯のお茶が、とても美味しくて……温かくて」


 視線を落とす。静かに微笑む。 


「やっぱり私は、捨てられない」


 それは囁くほどに小さな声だったが、彼女の強い意志がにじんでいた。


「……やさしい手を、要らないと言って拒絶することができない。また、辛い目に遭うかもしれないと思っても……」

「僕は……」

「信じてしまうんです。疑うことができない」


 顔を上げて、彼女は瞳を細めた。

 裏切られても傷つくようなことがあっても、それでも人を信じてしまうことを止められない。そんな彼女を馬鹿にする者もいるだろう。それでも、向けられた優しさを疑うことはできないのだと繰り返す。


「どうしようもないですよね」

「そんなこと無い」


 否定する僕の言葉に、彼女は微笑んだ。


「ありがとうございます。私をまた、光の側に連れ戻して下さって」


 僕は――。

 僕はそんなに大それたことをしたわけじゃない。ただ、雨に濡れて立つ少女の姿を目にして、声をかけずにはいられなかっただけだ。

 一時だけでも、温かな場所で雨宿りをしてほしかったのだと。

 思い、マスターの顔を思い出す。


 僕もまた、同じように温かな場所を貰った。

 しばらく足を止める場所が必要なんじゃないのかと。一杯の茶で心身を潤すその間だけでもと言って、僕をここに置いてくれた。そして僕も気づいてしまった。

 心から気遣える相手と温かさが欲しかったことに。


「私、夢があるです」


 彼女はもう、うつむかない。


「ここで皆さんと過ごして元気を分けてもらって、もう一度頑張ってみよう……って思いました。夢を叶えるために、ちゃんと勉強していこうって。それで試験を受けたんです」

「結果……は?」

「合格しました。私、この町を出て、遠くの学校に入ります」


 会わなかった二ヶ月の間、彼女は未来に向けて歩き始めていた。輝く瞳が、とても眩しく見える。


「おめでとう」


 僕の言葉に一息置いてから、彼女は「ありがとうございます」と笑い返す。笑い背筋を伸ばしたまま、伝えなければならないのだと続ける。


「……なので、もうしばらく、ここに来ることはできません」


 僕に伝えたいこと。

 その一言を言うために、どれだけの勇気が必要だったのだろう。


「……寂しくなるね」

「寂しく、思ってくださいますか?」

「もちろんだよ」


 心からそう思える自分に驚く。彼女の存在が、僕の中でこれほどまで大きくなっていたことに、改めて気づいて驚いている。彼女は僕を見つめたまま続けた。


「もし、遠く離れて会えなくても……また、お話……してもいいですか? メッセージや……その、お電話で声を……」


 聞きたいです。という声は、小さくかすれていたけれど、確かに僕の耳まで届いた。だから頷いて返す。それ以外の言葉なんて思いつかないのだから。


「うん。いつでも」


 いつでも。

 たとえ遠くにあっても繋がっている。僕らは、繋がり合える。


 グラスの中で溶けた氷が甘く揺れた。







© 2020-2023 Tsukiko Kanno.

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