第039話 ホーム・前編

 一年と少し前の冬の終わり。

 周りにいる人たちを信頼することができなくなった僕は、閉めきった部屋の、薄暗い穴倉のような自室に閉じこもっていた。今思っても、どこでボタンを掛け違えてしまったのかと思う。

 ただずっと、周囲の人たちに迷惑をかけたくないと考えていた。

 自分のことは自分でしなければという気持ちが強かったのだと思う。自分一人で、何でもできる気にもなっていたのかもしれない。結局はそれが、周囲の人たちとの齟齬そごを生んでしまった。


 十年ほど前に、父が亡くなった前後の記憶は曖昧だ。


 父と父の同僚を事故で喪い、たまたま体調不良で出張先に同行していなかった荒井あらい 英邦ひでくにさんが、会社を引き継ぎ僕を引き取った。

 当時、英邦さんは二十代のなかば。大学生の頃から父の弟子として働くこと数年というところで、会社はともかく、僕まで引き取らなければならない義理は無かったはずだ。

 けれど母親も親戚もいなかった僕の手を、英邦さんは取った。あの人が居なければ、僕はそのまま施設に入れられていただろう。そしてこの世界にかかわることも無かったはずだ。


 ふ、と一つ息をついて、僕はタブレット端末の冷たい表に指先を置いた。


 あのスタジオの一角にあった部屋から逃げ出した時、このプラットフォームに接続することはもう無いだろうと思っていた。そう思いながらも端末を捨てられず、登録していたIDを削除できずにいたのは何故だろう。

 要らないものなら手放せばよかったのに。

 使うつもりは無いと自分に言い訳しながら、機械仕掛けの薄い板を、まるで冥界を覗く小さな窓か、故人の思いを刻み込んだ石板のように抱え込んでいた。


 充電とアップデートを終えた端末をタップする。そのまま指先が覚えている動きで懐かしいアプリを起動させた。見慣れたタイトルのスプラッシュに続き、ログイン画面が表示される。長期間ダイブしていなかったせいだ。

 その先に進む指が、わずかな躊躇ちゅうちょに止まる。

 かつての日々に向き合う覚悟はできたのかと、白を基調とした淡く七色に輝くシンプルな画面が僕に問いかける。


 僕がダイブすれば時間を置かずに、英邦さんやスタジオの人たちは気づくだろう。

 知られて困ることや隠さなければならないようなことは何も無い。それでも何もかも……それこそ、一時は生きていくことすら投げ出していながらあの場所に行くことは、家出した実家に戻るような気まずさがあった。


 息を吐いて顔を上げ、小さな窓の外に視線を向ける。

 ここはいつも僕が過ごしていた、カフェ・クリソコラの店内ではない。駅前から少し海側に下ったネットカフェで、最新の体感デバイスがレンタルできる店だ。

 四方を壁で囲った小さなブースの、四角く切り取られた現実。窓の向こうは春の空にゆったりと流れる雲と、普段よりずっと近い海がある。窓が開くならば潮風を感じることもできるだろう。


「大丈夫だ」


 辛い思いを乗り越え、未来に向かって歩き出した少女がいる。彼女の勇気と笑顔が、背中を押す。

 僕は端末をタップして、デバイスに全身をゆだねた。


 暗闇から、瞬く星の間を下りて行く。

 目を奪われるような景色のローディングにわずかな浮遊感を伴うのは、僕の感覚反応をフィードバックして適切な光量や音量に調整していく、その過程に現れるただの錯覚だ。そうと分かっていても深い湖の底に降りるような、言葉どおり〝ダイブ〟する感覚に僕の胸は騒めく。

 騒めきのもとは期待なのか、それとも不安か。

 たった一人、親とはぐれた子供のような気持ちになる、その一歩手前で穏やかなガイド音声が囁くように僕を迎えた。「お帰りなさい」と。

 僕の行動パターンから学習したAIが、ベーシックなオープニングのひとつを選択しただけだというのに。


「……ただいま」


 思わず呟いた。と同時に僕は、三次元仮想空間メタバース内に構築されたもうひとつの世界、〝オパール・ガーデン〟の街外れにある見晴らし台にいた。


 夜というには明るく、昼間というには柔らかい。

 澄んだ空にはきらめく星々が瞬いている。視界の遥か向こうにまで続く山々。異国の白い街を思わせる、立体的に配置された迷宮のような都市。父が関わっていた景色だ。

 鳥のさえずりと梢を揺らす立体的な風の音。

 そして微かに香る、緑の匂い。アロマジェネレーターは付属されていないというのに。


「少し……いや、ずいぶん解像度が上がっている」


 英邦さんに伴われて、初めて訪れた時のような高揚感が湧き上がってくる。

 親子二人で暮らし、いつも側で仕事を見ていながら、実際に触れたのは父が急逝してしばらく経った後のことだ。まだ幼かった僕が、大きな喪失から落ち着くのを待っていたのだろう。

 当時僕は九つか十で、見るもの全てが物珍しくて仕方がなかった。

 それからずっと夢中になっていたんだ。

 英邦さんに一から教えられながら、もう帰ることのできないあの家を、まるで積み木遊びでもするように作り続けていた。


「あった……」


 通い慣れた道を下り階段を上り、秘密の抜け道を行く。たどり着いた先に、懐かしい〝ジーンの家〟はあった。

 避けていた一年あまりの間にどのようなアップデートがあったのか、ある程度の前情報は入手していても実際に体感してみなければわからないことも多い。僕は家がプライベートタイムに設定されているのを確認して、ゆっくりと扉を開けた。


 取り立てて奇抜な設計ではない。

 やや明度を落とした、広めの玄関ホール。入って直ぐ右手にある、色彩を抑えたステンドグラスの窓が柔らかな光を取り込んでいる。続く縦長の大きな窓を並べた半地下のリビング。天井は高く、広めのオープンキッチンにも光が射している。

 黄昏たそがれ色の陽が入ると、ケトルから立ち上る湯気が踊る花のように揺らめく場所だ。


 二階に続く階段を上れば書斎と寝室、いつも僕がおもちゃを広げていたサンルームがある。

 必要な情報はいくらでも端末に取り込むことができるというのに、父は紙の本を好んでいた。書斎の壁を覆う本棚には、時を越えて受け継がれる書物が山のように眠っている。その隣にある寝室も。乾いたシーツと柔らかなマットレスに包まれた温もりが、記憶の底から浮かび上がってくる。

 サンルームから見上げる、白夜の空だけは現実よりも美しく七色に輝き、夢の景色のように思えた。


 僕は目の前の、萌黄色のソファに腰を下ろす。

 ボタンを目玉にした小さなぬいぐるみが置いたままになっている。ウサギなのかクマなのかすらよくわからないそれは、絵本に載っていたキャラクターを見て、僕が作ってくれとねだったものだ。

 手に取り、こんなものまで再現していた自分に苦笑する。


「本当に誰にも触れられたく無かったのなら、英邦さんにだって見せなければよかったんだ。けれどもっと良くしたくて、アドバイスを求めたのは僕だ……」


 いつかはもっと多くの人に見せたい。公開したいという気持ちが、心の奥にはあったのだと思う。そんな自分の気持ちに気づかず、ムキになっていた。


 一年たって俯瞰ふかんした地点から見つめた今、当時の僕は小さな子供みたいに癇癪かんしゃくを起こして、現実に立ち向かいもせず全て投げ出してきたのだとわかる。

 言葉があったはずなのに。

 上手く伝えられなかったとしても、言葉を重ねることはできたはずだ。それでも幾度かの拒絶で、話しても無駄だと早々にあきらめてしまった。

 僕をここまで導いた人に対しても、失礼なことだったのだと思う……。


 ――と、その時、玄関チャイムが鳴った。


 今は〝ジーンの家〟を一般開放する設定になっていないから、誰もこの場所に訪れることはできないはずだ。とするなら、関係者。かつて同じスタジオにいた誰か。

 インターフェースを開いて来訪者を確認する。

 見知ったIDは予想した通り、かつて同じスタジオにいて昨年の秋に顔を合わせたアサミさんだった。別れ際に、「何も無くても連絡して」と言った声が蘇る。

 一瞬、居留守でも使おうかと思いながらも、そんなことはメタバース内に居て無駄なのだと僕は息を吐いた。

 ダイブする前から覚悟していたことだ。

 むしろスタジオの誰かが来ることを心の底で願い、僕は再訪した。今の現実に向き合おうと思ったのだから。


「今、そちらに行きます」


 短く答えて僕は玄関に向かった。

 ふと玄関の一角に設置された鏡を見て、自分のアバターがこの家をつくり始めたばかりの、十二歳頃のままだったことに気が付いた。アバターの設定変更をすることすら忘れていたなんて、どこまで抜けていたのだろう。


「いらっしゃい」


 玄関扉を開けて、僕はアサミさんを迎えた。

 緊張した面持ちで立っていたアサミさんは、現実リアルより少し明るい栗色の髪に、柔らかな目元でデザインされていた。ジャケットやベストのつかない、コンシェルジュかと思うほどにシンプルなモノトーンのワンピースは、去年の秋のかしこまった印象を思い出させる。

 そんなアサミさんは僕の言葉を前にして、ほっとするように瞳を細めた。


「こんにちは。いらっしゃいと、言ってくれるのね」


 僕はとっさに言葉を返せず視線をそらす。

 けれど会う気が無いのなら、出迎えたりなどしない。


「どうぞ」


 そう言って、アサミさんを〝ジーンの家〟に招き入れた。







© 2020-2023 Tsukiko Kanno.

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