第040話 ホーム・後編

 リビングまで案内して、僕は自然とキッチンに向かった。

 三次元仮想空間メタバース内に作られた虚構だというのに、棚には紅茶を始めとした様々な茶葉や珈琲コーヒーまで保管してある。本来、それはただのディスプレイだ。なのにこの一年の間に染みついた習慣で、僕はケトルに水を注いだ。

 インターフェースをタップすれば、どんな飲み物のオブジェクトでも瞬時に出すことができるというのに。


「あのあと……無事に、帰りついた?」


 距離を取ったソファに腰を下ろしたアサミさんは、ローテーブル越しに声をかけて来た。

 去年の秋、英邦ひでくにさんに呼び出されて、隣町のホテルにあるレストランまで行った。その席で英邦さんは、アサミさんや同じスタジオスタッフのコウタさんを前に、僕が家を出た原因となった諸々のその後と謝罪を口にした。あの日の出来事は今も鮮明に覚えている。

 僕の、彼らに返した態度も。


「今はこんな見かけのアバターですが、今年で二十歳です。大丈夫ですよ」

「そう……そうだったわね。もう大人だわ」


 アサミさんはそう呟いて視線をそらす。そしてもう一度、紅茶を淹れて運ぶ僕の方へと向き直った。

 微かに、リンゴの香りが僕らを包む。

 現実リアルには及ばない。あの日アサミさんの前にあったアップルティーと同じではないにしても、近いものが再現できているはずだ。アサミさんも嗅神経に送られた信号を感知したのだろう、口元をほころばせた。


「改めて、ごめんなさい。私たち……れいくんの言葉をきちんと受け止めてこなかった。自分のことだけでいっぱいになってしまって、軽く扱っていたのよ」


 両手で包むようにカップを取り、アサミさんは言う。


「どんな思いや誘いがあったとしても、乗るべきじゃなかった」

「もう終わったことです」


 アサミさんの向かいのソファに座り、応える。


「僕も……失礼な言葉を吐き捨てて帰ってしまいました」

「いいえ」


 軽く首を横に振りアサミさんは僕を見た。


「玲くんが初めて私たちに感情をぶつけてくれた。本音を聞かせてくれたの。そこまで言わせてしまって申し訳ないはずなのに、私は嬉しかった。コウタくんも驚いていたわ」


 そう言って苦笑する。

 コウタさんは五年ほど前に、英邦さんが引き継いだスタジオ・アメトリンに入社してきた人だ。だから直接僕の父――上代かみしろ つかさを知る人ではない。

 今いるスタッフの半分以上は、父が亡くなった後に来た人たちだ。父が居た頃から在籍しているスタッフとは温度差があるのも当然で、そう思うと、十年という月日の流れを感じてしまう。


「彼は――荒井くんは一生憎まれたとしても、あの作品を世に出したかった。それは彼のエゴだわ。エゴだと自覚していても恋して同時に嫉妬もしてしまったのよ……玲くんが生み出した〝ジーンの家〟に」

「アサミさんはずっと英邦さんの側にいたから……」

「そうね。私は彼がこの十年必死にやってきた姿を見ているし、玲くんの人見知りで不器用なところも知っている。焦り過ぎたのだという言葉を言い訳にしたくないのだけれど、言葉が足りなかったのは確かで。もちろん……それは私も……」


 高解像度のアバターが、口元を歪ませ微笑む。


「尊敬できない大人たちでごめんなさい」


 僕は息をついた。


 彼女と、彼らもまた、向き合おうとしている。

 僕が何もかも捨てて消えたことで、もう取り戻せないとしても、向き合おうとしている。


「謝らないでください」


 真っ直ぐアサミさんに顔を向けて、僕は言う。


「自分たちが正しいんだって、貫いて下さい」


 そうだ。謝らなくていい。僕も……どれほど心配かけたのかと知っても、きっと戻ったりしない。

 歩き始めたんだ。

 それがどれほど困難であったとしても、引き返したりしない。世界を見渡せば、行く先々で優しい人たちと出会えるのだと、知ったかのだから。


「誰かを傷付けたり苦しめたりしても、貫いて下さい。僕も、ワガママを貫くので」


 僕も自分の道を貫きたい。今後、どんな人たちを傷つけるか分からないとしても、その罪も背負って僕は行く。

 作りたい、生み出したいと思う気持ちが、芽生え始めてしまったのだから。


 アサミさんは僕を見つめたまま、ゆっくりと頷いた。

 きっと、僕らの会話をモニターしている人がいるはずだ。その人にもこの言葉が届けばいいと願う。そしていつの日か、直接また伝えることができればと――思ったタイミングでチャイムが鳴った。

 思わず二人で玄関の方を向いてしまう。

 プライベートタイムに設定している今、ここに訪れることができる人は管理者権限を持つ同じスタジオの人ぐらいだ。そう思いながら来訪者を確認して、僕は驚いた。


     ◆


 デザインコンペ審査員の一人だった大塚おおつかさんは、英邦さんより少し年上の底抜けに明るい人だった。ネットニュースで顔だけは見知っていても、直接言葉を交わすのは初めてだ。

 人型のアバターながら身なりはかなりラフなデザインで、そのまま野山にでも遊びに行きそうな雰囲気だ。彫りの深い目鼻立ちに熊みたいな髭面ひげづらは、オフタイムの、プライベートアバターを使っているのだろう。

 大塚さんは一度僕に会ってみたかったのになかなかダイブしてこないから、ずっとタイミングを待っていたのだと明るい声で言った。


「なぁんだ、家出していたのか。そりゃあ足がつくものにはダイブできないよな」


 僕が淹れたお茶を手に取りながら、大塚さんは、あはは、と声を上げて笑う。

 さすがに味覚の再現までは及んでいなかったが、大塚さんは僕の出した紅茶の香りを両手放しで褒めた。カフェでお茶を淹れた時のようなくすぐったさに、僕は頭を下げる。

 と同時に、大塚さんにもちゃんとお詫びをしておかなければならないと、僕は顔を上げた。


「すみません。いろいろご迷惑をおかけしました。今回のこと、すごく問題になったんじゃないですか?」

「問題ってほどでもないさ。元々、エントリーはスタジオ名だからね。君が別会社のスタッフだったなら面倒くさかったが最初から君の名前も入っていたし、英邦のサポートも入っていたんだろ?」

「はい」

「だから俺は大きな影響無しと考えている。まぁ……モノより有名どころの名前にばかりこだわっていた頭の固いお偉方には、いい刺激になったんじゃないの?」


 僕がやったことではないとはいえ、心配していた。

 大塚さんから、「そこは上手く処理したのだから安心してほしい」と言われて、やっと肩の力を抜く。結局僕は目の前のことばかり見ていて、全体を把握などしていなかったのだから。

 息をつき、カップを置いた大塚さんは続ける。


「まぁ、アレは俺も一枚噛んでいたんだ」


 思いがけない言葉に、僕とアサミさんは大塚さんに顔を向けた。


「英邦からどうしても世に出したいデザインがあるって話を聞いてさ。概要を見ただけですぐにわかったよ。司さんのデザインは独特だ。闇に浮かぶ光。色の対比。夢の一場面を切り取ったかのように、魂に触れるものがある」

「それは……」

「俺も君のお父さんのファンなんだ」


 ふ、と大塚さんは微笑む。


「最初、司さんの生前のデータが残っていたのかと思ったぐらいだ。スタッフに君の名前があってすぐにそうかと理解したけどね」

「それじゃあ、賞を取ったのは……」

「そこは手心無しだよ。俺一人で決めたわけじゃない。ちゃんと評価された結果だから、自信をもってもらいたい」


 そう言って、大塚さんは〝ジーンの家〟の内部をぐるりと見渡した。


「オパール・ガーデンのコンセプトは回帰だ。馴染みのカフェや懐かしい我が家ホームのような、そんな安らげる場所を心のどこかに持っていたい。いつでも帰れる場所があるからこそ、人は外に出ていける。冒険に出ることができる」


 大塚さんの言葉に、アサミさんが頷く。


「そういう感覚を持ち合わせていない者には退屈に思えるだろう。例えば君の所のスタッフ……コウタくんとか言ったかな。彼なんかはあまりピンと来ていなかったんじゃないのかな?」

「ええ……」


 返したのはアサミさんだ。


「彼は司さんを直接知らない世代ですから。玲くんが司さんの息子だというだけで、贔屓ひいきされているように見えたのだと思います」

「まぁ、野心家でもあるみたいだし。それはそれで悪くはないけれどさ。君がその年でここまでの空気感を出せたのは、本当に驚きだったんだ。大きな喪失を経験したからこそ、生まれた世界だとも思う」


 真っ直ぐ僕を見つめる。


「玲くんはこれからも、この世界に携わっていく気は無いかい?」


 それが仮想空間に作られたデジタルの姿だと分かっていても、僕は目をそらすことができずに見つめ返す。

 当時僕は、〝ジーンの家〟さえあればいいと思っていた。世に出なくても、僕と思い出の中の父との物として。そんな僕のままだったなら、きっと次の作品を作ろうとは思わなかっただろう。

 外の世界を見ることも無く、多くの人たちと出会うことも無く。きっとスタジオの隅でアシスタントを続け歳だけを重ねていった。


「英邦は君が、〝死籠しにごもり〟になるのを一番恐れていた」

「しにごもり?」

「卵のまま、生まれることなく死んでしまうことだよ」


 僕の意識は、殻を破って外の世界を知ってしまった。

 もう閉じた空間に戻ることはできない。


     ◆


 ログアウトを終え、僕は体感デバイスを外した。

 ダイブしていたのは一時間と少し。太陽の位置はそれほど大きく変わっているように見えなかったが、ネットカフェを出た目の前の景色は、数時間前とは別世界のように見えた。


 流れる雲。春を主張する午後の陽射しが肌を刺す。

 海を渡って来た潮風が髪を弄る。

 靴底を経て感じるアスファルトの硬さ。花と緑は自己主張するように香りを振り撒き、揺れる梢や、通り抜ける車や人の騒めきが鼓膜を揺らし続ける。


 目の前にあるすべては、どこで生まれどこへ流れ命を終えるのだろう。


 今夜、どんな思いで過ごし、どんな朝を迎えるのか。


 時の流れ。刻々と移り変わる事象を前にして僕は目を見張る。

 この星に存在するそれらすべてが、膨大な教科書だ。今はもう道端の石ころ一つすら、世界を構成する愛しい友人のように感じてしまう。


「またイチから、勉強し直さないと」


 呟き、歩き出す。

 僕にとって現実リアルこそが、愛すべき我が家ホームだ。







© 2020-2023 Tsukiko Kanno.

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る