第006話 猫だまり

「今から一時間ばかり出るから、ちょいと留守番していておくれ」


 お使いから戻った昼過ぎ、カフェ・クリソコラの女主人マスターに頼みごとを言い渡された。一人での店番は初めてだ。僕は腰エプロンを巻きながら尋ねる。


「それは構いませんが……お客さんがいらした時はどうしましょう」


 目的地の無い旅の途中にふらりと立ち寄ったカフェのマスターのご厚意で、四階にある部屋を借りることとなった。店の手伝いはその宿代としてのこと。


 カフェの仕事は初めてで、できることといえば買い出しや清掃や注文の品を運ぶこと。時にはお客さんの話し相手をして、気づけば二ヶ月が過ぎていた。

 最近はお茶の淹れ方も少しずつ教わり、マスターに味を見てもうこともある。それでもまだ、お金をもららうレベルには達していない……と思う。

 ただお湯を沸かし、分量通りの茶葉に入れて出す――だけではない。深い香りと味わいは女主人の絶妙な技術によるものなのだと、自分の分と飲み比べる度に実感せざるを得ない。

 そんな心の内を読んだのか、いつものように目尻に皺を刻んて笑った。


「常連さんなら待っていてもらってもいいし、そうじゃないなら昼休みだと伝えておくれ」


 色が抜けたような枯茶からちゃ色の髪をまとめ上げた、淡い緑のシャツとタイトスカート姿の後ろ姿を見送ると、僕は肩を落とすように息をついた。


     ◆


 遠く海を臨むテラスからカウンターの奥にある備品庫の窓まで、今日も爽やかな風が抜ける。今はまだ風は涼しくても、日向ぼっこにはちょうどいい午後。

 普段、音楽を流すことも無いこのカフェでは、階下の街のざわめきだけが耳に触れる音の全てになる。


 陽は天頂近く。

 テラス側の席だけが、白く浮かび上がるかのように眩しい。屋根のある手前側の影とのコントラストが、これから来る夏の強さを予感させる。


「さて、どうしよう……」


 テラスの向こうの街並みを眺めていてもいいし、おそらく練習と称して自分のお茶を淹れたところで、マスターは怒りはしない。「好きにしな」と答えてから、のんびりいつものカウンターに収まるだけだ。

 けれど人が見ていなからといって、呆けているのは性に合わない。


 テーブル拭き用のキッチンクロスを取り出し、汚れているわけではないと分かっていても丁寧に拭いていく。それでも時間は余るのだから古いクロスで椅子を拭いて、更に雑巾で床も磨けばいい。

 毎日の寝床を貰っている分は体を動かさないと落ち着いて眠れない。

 マスターの「真面目だね」と笑う声が聞こえてきそうだ。


 一通り全てのテーブルを拭いて、クロスを替え、カウンター側から一脚ずつ、合わせて十脚あまり拭いたところで息をついた。

 残り八脚。時間はまだある。

 陽射しがテラスの奥から手前へ少しずつ伸びてきている。

 一休みがてら手近な椅子に座ると、視界の端に黒い物が動いた。

 何だろう。

 そう思い顔を向けた先、軒を伝って来たのか、一匹の黒猫がテラスの手すりに音も無く下りてきたところだった。


 くりっとした瞳は陽射しのせいか、彩光が細くなっている。好奇心の強い性格らしい。初対面の相手にも物おじせずこちらを覗き見てくる。

 艶やかな毛並みの短毛で、漆黒の首元に赤い首輪。飼い猫なのだろう。大人というには少し小さく見えるのはすらりとしたシルエットのせいで、細身ではあっても痩せているわけではない。

 そんな黒猫が一匹、手すりからテラスの側に置いてあった、これから拭こうと思っていた椅子にゆったりと降りた。


 続いてもう一匹。

 今度は茶トラ……の系統だろうか。全体的にオレンジ色の短毛で、耳と両手足の先、そして尻尾の先が黒い。あまり見ない色合いだ。こちらは空色の首輪をつけている。


 二匹は互いに鼻先をつけては、まるで自分たちの場所とでも言うように、同じ椅子の座面に腰を下ろした。

 悠然と、前脚に頭をのせて寝そべる黒猫。その上に、茶トラはふわりと頭をのせて甘える。僕のことは見えているはずなのに、気にする素振りは無い。

 柔らかな毛並みの上を風がそよぐ。瞳を細める。


「えーっと……」


 どうしよう。

 ひとまずここは飲食店だ。今はまだお客さんが来る気配もないが、いつ来店があるか分からない。猫が苦手な人もいるだろう。それ以前に衛生の問題もある。

 通常なら追い払うべきだろうけれど、そうするには猫たちの、あまりに堂々とした所作に僕の方が物怖じしてしまっている。

 何より気持ちよさそうに日向ぼっこしている子たちを、追い払うのもかわいそうで……。


「どこから来たのかな?」


 思わず声に出してしまった。

 黒猫が「なに?」とでも言うようにこちらを見あげる。その頭の上の茶トラと二つ、団子が重なったようにも見える。尻尾が揺れる。

 真っ直ぐに見つめられると、また二の句が告げられなくなる。


「ここは……その、お店なんだ」


 だから、椅子から下りようか。

 と、ジェスチャーしてみるが「ふぅん」といった具合だ。

 茶トラは尻尾をゆらゆらさせながら、陽射しを受けたオレンジ色の背中を更に淡い色にさせて瞳を閉じる。完全に寝の体勢に入っている状態だよ。そして黒猫の方は、じっとこちらを見つめている。

 呑気な茶トラを守っているのか、単に好奇心がそうさせているのかは分からない。

 僕も手近な椅子に座り、テーブルに肘をついてやれやれと肩を落とす。


 椅子から下りてもらうのは、階段を上るお客さんの足音が聞こえてきいからでもいいかな……。などと、つらつら考えていると眠くなってきた。


 いけない。さすがにこんな場所で居眠りをしては、留守番にならない。猫たちが悪戯しないように、せめて見張っていなければ。


 柔らかな春の陽射し。


 気持ちよさそうに瞳を細める。こちらの瞼も下りてくる。


 海鳥の歌声が聞こえる。


 風に、中庭の梢が囁き合う。


 微睡みの中で、柔らかなぬくもりが膝の上に触れる。

 遠く、螺旋階段を上る足音が、聞こえる――。


「あっ!」


 浅い眠りから目覚めた僕の膝から、猫たちが飛び下りた。

 いつの間にか乗っていたのだろう。いやその前に、いつの間に眠ってしまったのだろう。慌てて立ち上がる僕の目の前で、二匹の猫が並んで声を上げる。


「なー」

「にゃー」


 螺旋階段を上って来た人は扉を開けると、鳴き声に気づいてこちらを見た。


「おや、いらっしゃい」

「マスター……あの」


 帰って来たマスターは、猫の来訪に驚くことなく笑っている。

 そして手荷物をカウンターに置いてから浅めの皿に冷たい水を入れ、テラス席まで運んできた。床に置いた皿に二匹の猫たちはふわふわの頭を寄せる。


「ここの常連さんだよ。お茶も、淹れようかね」


 ぽかんとして見つめる僕に向かって、女主人は猫みたいに瞳を細めた。


「そこは特等席なんだよ。良い夢は見れたかい?」


 猫たちに言ったのか、僕に向けた言葉なのかは分からない。もしかすると、どちらにも……なのだろう。

 並んで喉を潤した猫たちはまた同じ椅子の上に飛び乗ると、仲良くまるく絡まり合った。ふわふわの、長い尻尾の先だけが満足げに揺れていた。







© 2020-2021 Tsukiko Kanno.

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