第005話 飲み桜
「いゃぁーんもう、会いたかったよマスター!」
夕暮れ近くのカフェ・クリソコラに、華やかなお客さんが駆け込んで来た。
シャープなボブカット。キリっとした眉に意志の強そうな切れ長の瞳。それでいながら冷たい印象がないのは、艶やかな桜色の唇と、人好きのする豊かな表情のためだろうか。
二十代半ばと思われる女の人は無駄のないシルエットのスーツ姿で、質のよさそうなビジネストートを肩から下す。それをカウンターの席に置くと、バタリ、と音を立てるように突っ伏した。
どうやら常連さんらしい。
「久しぶりだね」
「そーなのよ! もう、ずっと缶詰状態で。あ、今日もおススメのでね!」
「カナコさんにちょうどいいのが入っているよ」
顔を見て直ぐに湯を沸かし始めていたマスターが答える。
カナコさんと呼ばれた常連さんはニッと笑って、新人の僕に一言挨拶してから、もう一度、思いっきりカウンターに突っ伏した。
「毎年この季節は花見とかすっごい、楽しみにしてたのに! ほら、去年は雨続きでやっと晴れた! と思ったらもう散っちゃってて。知ってた? 雨で散る桜を桜流しって言うんだって、ふーりゅーよねー」
そういえば、そんな名の歌があったと思い出す。
少し寂し気な呼び名であるにも関わらず、カナコさんは元気だ。
「流れてもいいのよ、足元一面が桜色ってそれはそれでステキじゃない!? 樹にあっても地面にあっても綺麗なんだから、眺めつつ飲めるじゃない! なのに! 今年はもう枝なのよぉー!」
カナコさんが嘆く。
あれは先週のことだっただろうか。確かにこのカフェのテラスにも、桜や桃の花の香りが届いていた。今年は天気にも恵まれて、一気に満開になったかと思うと早々に綻び散っていった。
そんな心躍る季節の恵まれた空模様だったというのに、カナコさんは千載一遇を逃したとばかり声を上げる。
「枝もいいよ。葉桜もいいと思いたいよ。あぁーん、でも、ほんっと、楽しみにしてたのよー! 桜の下で飲んだり食べたり」
「花より団子だね」
マスターが
湯気と共に香るのは桜だ。
がばっ、と顔を上げたカナコさんは、勇ましい表情で反論した。
「違う、違う、花も団子も! 飲んで食べて歌って踊って」
「にぎやかだ」
「寒い季節を頑張って越えたんだから、ぱーっとしたいじゃない。甘ぁーい桜餅とかも食べたりして。そういえば桜餅って二種類あるでしょ?」
「あるねぇ」
「もち米から作ったつぶつぶの餅で丸ごと
「つぶつぶが道明寺で、薄い皮が長命寺」
「あれ、見た目も食感も全然別なのが面白いよねぇ」
碗を傾けながらカナコさんはうんうんと頷く。
マスターはくすりと笑いながら尋ねた。
「で、カナコさんはどっちが好きなんだい?」
「えーっ!? そんなの決まってるじゃない、どっちも! 美味しければオールオッケーイ! やっぱりあの色合いと上品な甘さ、桜の葉の塩漬けのコラボレーションがもう、神! 神の食べ物よね!」
くーっ! と声を出すカナコさんが力説する。
「ねーねー! マスターなら、どっちの桜餅もここに置くことできるよね?」
「まぁ……作ってる所の心当たりはあるから、いくつか卸してもらうことはできるけれどね」
「並べて食べたい! 食べ比べしたい! 花見逃したから、桜餅見!」
「それでカナコさん、次はいつここに来れるんだい?」
うっ……と、カナコさんが顔を引きつらせる。
そして、あぁぁーん、と泣き声を上げてまたカウンターに突っ伏す。
「忙しいのはありがたいけど、遊びたいよぉー……」
「ははは、仕事も遊びも、めい一杯やるといいさ」
ほどほどに、ではない辺りがマスターらしい。
カナコさんは拗ねた顔で碗の中身を飲み干す。よほど、今年の花見を楽しみにしていたのだろう。
「ほんとは、の~んびりしたいのよ」
「カナコさんの性格じゃ、なかなか難しそうだ」
「夜桜眺めながら、まったり飲んだりとかさぁ~」
むふーん、と想像して笑顔になる。
月夜桜もたしかにいい。
満月はとうに過ぎたけれど、下限の月は明け方まで空にある。今日も雲一つない青空で、きっと星も綺麗だろう。
「北の方に行けば、まだ少しは桜が残っている場所もあるんじゃないかい?」
「そうよねぇ……」
碗の縁を指でなぞっていたカナコさんが呟いた。
そして、しばし沈黙してから背筋を伸ばし、顔を上げる。
「うん、よし! 行こう!」
そう言うと、突然手元の鞄からタブレットを取り出した。
「今から出れば飛行機に間に合う。まだ桜があるのは……」
呟きながら手早く情報を集め、あっという間に飛行機のチケットまで取ってしまったようだ。目標が決まったカナコさんの表情は、店に来た時のようにぐだぐだな感じではない。
「マスター会計! お土産があれば、買って来るわ!」
「楽しみにしてるよ」
「じゃ!」
ビシ! と手を上げて、カナコさんは店の外の螺旋階段を駆け降りていった。太陽は西に傾き、空はほんのり桜色になっている。
その後姿をぽかんと眺め、僕はマスターに声をかけた。
「元気な、方ですね……」
「おもしろいだろ?」
「飲んでいたのは……お酒、じゃないですよね」
あまりの勢いに酔っているのかと思うぐらいだった。
ふふ、と目尻の皺を深くしてマスターが答える。
「桜茶さ」
祝いの席のお茶ながら、こんな日の為にも用意していた取って置きの一杯なのだと、マスターは笑みを見せた。
© 2020-2021 Tsukiko Kanno.
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