第004話 彩り卵から生まれる
今日も、遠くの海まで続く澄んだ青空が広がっている。
まだ、テラスに眩しい日差しが届かない昼前。カフェの買い出しを終えて店に戻ると、五十代の終わりと思える白髪交じりのお客さんが一人、テーブルに細々とした道具を広げて熱心に作業を続けていた。
お代わりのお冷を手にテーブルへ向かい、手元を見て目を見張る。
並んだ卵は十個ほど。手に取る軽い動きから中身は入っておらず、丸い形を保つ殻に細かい模様が描き込まれていた。
図案化された模様は草花であったり、鳥やウサギの戯れや星々を散りばめた物が多い。淡い春の色を基本にしながら、部分部分にハッとするほど鮮やかな色を差し、全体が一つの宇宙のような彩りを見せている。
なにより針を思わせるほどに細い筆の先に絵の具をつけ、ひとつひとつ、丁寧に描かれていくそれは、工芸品といっても差し支えないほど見事なものばかりだ。
「イースターエッグと言うらしいよ」
筆の先を動かしながら、壮年の男性は呟いた。
「神様が復活する象徴の品だそうだ。卵は生命のシンボル。春分の次の満月から数えて最初の日曜日が、祭りの日となるらしい。なかなか面白い話じゃないか」
まるで他人事のように説明する人に、僕は首を傾げた。
復活祭。
イースターは春の訪れを楽しむ祝いの日としても人々を楽しませ、店先にはウサギの置物や色とりどりの小物が並ぶ。この国の人々は、どこの国の神様と気にすることも無く、祭であれば何でも楽しむ習慣がある。
「この年まで神様なんて無縁な暮らしをしてきたし、今も宗旨替えをしたわけじゃあないんだけれどね。この季節に新しい何かが生まれるのを祝うというのは、いいじゃないか」
「はい。その……この卵の彩色は……すごいです」
「はははは! 褒めても何にもでないよ」
と、声を上げて笑う。そして十個目の卵の塗りをほぼ終えて、全体のバランスを確認するように眺めた。生命や緑が蘇ることを意味しているイースターエッグは、弾けそうな色に溢れている。
「ずっと、このようなお仕事をなさってきたのですか?」
「いいや、全く違うよ」
仕上げの色を入れながら、お客さんは答えた。
「若い頃から駆け引きばかりで、金と地位と権力を得ることだけを目標に生きてきたのさ」
よし、と頷いて筆を置く。
穏やかな風を受けて、卵の上の絵の具は見る間に乾いていった。
「なりふり構わず。すべてを犠牲にして、仕事だけに打ち込んだ仕事人間」
ギシ、と椅子を鳴らして笑いながらイスの背にもたれる。
今までの半生を思い起こしているのだろう。少し寂し気な目元になる。
「得られるものは何でも手に入れた。そして病気になってしまったんだよ」
生死を
自分がどこにいるのかもわからないような状態が何日も続き、奇跡的に命を取り留めた。そこから長いリハビリを経て、やっとの思いで退院したのだと。
「ところが自由になった私は、全てを失っていた」
「それは……」
「私が人の弱みを狙って来たように、周囲の者たちも私が弱るのを狙っていたということさ。金も地位も何もかも、一生かかって手に入れた物は何ひとつ残っていなかった。この体以外にね。自業自得というわけだ」
そして、ははは、と明るく笑って見せる。
お客さんの顔に悲壮感は無い。むしろとても清々しく見えるのは何故だろう。疑問が顔に出ていたのか、照れくさそうに白髪交じりの髪を掻きながら、にやりと笑ってこちらを見上げた。
「何が一番大切か、やっとわかったわけさ」
不意にカフェの
今日も
「二階の厨房で注文の料理ができたとさ。運んでくれるかい」
「はい」
答えて三階のカフェと二階を繋ぐ
初めてこの場所を訪れた時には閉まっていた飯屋のドアは開け放たれ、少し薄暗い店内には数人のお客さんの姿があった。その客席横の厨房を覗くと、不愛想な料理人が「これを」と、受け渡しのカウンターに皿を置く。
ふっくらと色づき甘い香りを漂わせている、ぽってりとした厚みのあるパンケーキだ。甘いシロップに、とろりと溶けかけたバター。湯気まで香ばしい。そのトレイにフォークやナイフを合わせ、僕は再び螺旋階段を上って行く。
階上のカフェに辿り着くと、ちょっどいいタイミングで入ったお茶が、トレイの上に加えられた。
「少しここ、空けますね」
「いい匂いだ」
お客さんが声を上げる。
画材道具とできたばかりのイースターエッグをテーブルの端にそっと寄せて、目の前にパンケーキの皿と甘く香るミルクティーを置いた。
ちらりと、お客さんがこちらを見上げる。
「食い物が美味いと思える、この体が残ってよかった」
そう呟いて、さっそく淡い色のミルクティーを鼻に近づける。
「どうぞ、ごゆっくり」
静かに声をかけてからテーブルを離れる背中で「ここの茶は美味いなぁ……」と呟く声が聞こえた。
◆
ゆっくりパンケーキとお茶を楽しんだお客さんが席を立ち、カウンターの方に歩いてくる。その姿にマスターは声をかけた。
「それじゃあ、お代はあの卵たちで頂いたよ」
「今まで世話になったなぁ」
「いいさ、行く当てはあるのかね?」
マスターの言葉にお客さんは少し考えるようにテラスの向こうの街を眺めてから、明るい声で答えた。
「南の方にでも行ってみるよ。子供の頃でも思い出して、好きなことをして暮らしてみるのもいいだろう。もっとも明日には、飢えて死んでるかもしれんが」
そう言って、声を上げて笑う。
「だがそれを今、心配しても仕方がない。とっくに死んでいてもおかしくない命が、少し未来を眺める時間を貰ったんだ。どうにかなるし、どうにかしかならんわ」
「お元気で」
「マスターも」
片手を上げて挨拶するお客さんは、ゆっくりと螺旋階段を下りて行く。テラス席に残る色鮮やかな卵たちは、蘇った命を祝っていた。
© 2020-2021 Tsukiko Kanno.
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